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潜熱、波打ち際の故郷

 


「海だ――――――!」



 目の前に広がるそれに、薫が清々しいまでの声量で両腕を広げる。


 雲一つない晴天。地平線はくっきりとしていて、空より海の方が濃く青かった。水を掬えば透き通っているはずなのに、集めるとこんなに青いなんて不思議だ。



「あっつ……」



 目を細めながら呟いた雫が、陽光を遮るように自身の腕を挙げる。



「いやー、ほんと、あっついな!」


「今日の最高気温、三十四度」


「言うなよ、余計に暑くなるから」



 霧島くんと近江くんがそんなやり取りをしつつ、砂浜を歩いてきた。日焼けを気にする女子とは違い、全身に太陽を浴びる二人は、それでもどことなく嬉しそうだ。


 私がこの夏にやりたいことの七つ目は、「海に行くこと」。少し遠いけれど、電車を乗り継いでみんなとここへやって来た。

 実は、私のおばあちゃんの家がこの近くにある。小さい頃はこっちに住んでいて、私が小学生になる年に、家族でいま住んでいる街へ引っ越したのだ。



「も~~~、早速着替えてきていい? 異論なし? 暑すぎて耐えられないんですけど」


「おー。じゃあ俺らも着替えてくるか」



 薫の限界宣言により、男女で分かれて海の家の更衣室へ向かった。


 色褪せた看板に「Welcome」と書いてある。外には浮き輪と、ソフトクリームサイン。

 懐かしい、と思った。だいぶ前に連れてきてもらったんだろうか。正確なところは思い出せないけれど、いつかの自分がこれを見ていたような気がした。



「うわぉ。雫の水着、大人っぽーい」



 二人とも服の下に水着を既に着ていたようで、あとは脱ぐだけ、といった状態だった。


 ティーシャツの下から現れた雫のビキニは、紺色と白のギンガムチェック。彼女にしては無難なデザインのそれに、少し驚く。



「まあ、お下がりだけどね」


「へー。お姉ちゃんいるんだ? 雫は一人っ子っぽいなーって勝手に思ってた」


「よく言われる」



 髪を結び直し、雫が会話を広げた。



「いっつも服やら何やら買ってきて、これ似合うんじゃないって押し付けられるんだけど、自分で選ばせろって話だよね」


「え~、仲良しじゃ~ん」



 別にそうでもない、と若干恥ずかしそうに否定した雫。私もお姉ちゃんがいる立場だから、そういったところの機微は分かり合える気がした。


 着替えが終わって外へ出ると、再び刺すような光と暑さに体が包まれる。



「お、きたきた」



 待ってました、と言わんばかりの口調で私たちを視界に入れた霧島くんが、脇に抱えていたものを体の正面に持ってきて、にかっと笑った。

 薫が怪訝そうに首を捻る。



「何それ。……サメ?」


「そ! 浮き輪な。いまそこで借りてきた」


「霧島ってカナヅチだっけ?」


「違ぇよ! こういうのあった方がテンション上がるだろ」



 青と白のボディに、ぱっちり黒目。空気でぷくぷくに太ったサメは、随分と可愛らしい顔つきをしていた。

 霧島くんも小学生みたいなことを言うんだな、と微笑ましくなる。


 と、雫がそのサメに手を伸ばして、口を開いた。



「ポチ、おいで」


「ポチ!? サメなのに!?」


「じゃあ、ジョーズ」


「ポチで頼むわ」



 そんな命名作業を経て、私たちはポチと共に、海へ向かう。踏みしめる砂は、潜んでいた暑さが足の裏に吸い込まれていくようだ。



「うおっ、冷てー!」



 じゃぶじゃぶと海水に両足を突っ込んだ霧島くんが、少しだけ背中を震わせた。彼が振り返った拍子に、空中のきらめきを拾いながら水飛沫が舞う。写真におさめたくなるような一瞬だった。



「ちょっとー、ポチの扱い雑すぎ! 愛を込めて接しろー」



 霧島くんを追いかけ、薫が声を張る。それに雫も加勢して、近江くんは一人その場にゆっくりと腰を下ろした。けれど、すぐに招集命令をかけられ、若干呆れたように三人の元へ近付いていく。


 きらきらと揺れる目の前の水面に、しばらく見入っていた。


 みんなのおかげで、私はいま、とっても幸せだ。こんなに沢山、思い出を作ってもらえるなんて、思っていなかった。

 嬉しいのに、とっても嬉しいはずなのに、どうしたって寂しい。思い出が増える度、みんなと過ごす日を重ねる度、夏休みは終わりに向かっていく。



『死ぬ時って絶対後悔するし未練残るじゃないですか。だったら、まあこれは神様が決めたんだから、って思えば割り切れるというか……』



 静かに目を閉じる。彼の言葉が頭に浮かぶ。


 私も概ね、その意見に賛成のはずだった。運命なんて自分じゃ決められないから、神様が描いたシナリオに従うことに、なんの抵抗もなかった。


 だけれど、今はちょっと違う。

 これまで圧倒的に空っぽだった私に、質量を与えたのはみんなだ。未練をつくったのは、みんなだ。

 この時間がずっと続けばいいのにって、私はいま初めてそう思っている。



「あっれー? 糸川さんじゃん」



 遠くに散らばっていた思考が、聞き慣れない声によって戻ってきた。


 つと後ろを向けば、綺麗な女の子が三人。ピンク、水色、カーキ。凝ったデザインの水着が、彼女たちの白い肌を彩っている。

 そのうちの一人が口元に手を当て、小首を傾げた。



「え~、ウケる。糸川さんも海とか来るんだね」



 雫の友達だろうか。でも何だか、他人行儀だ。呼び方だけの話ではなくて、彼女たちの表情も親しみのあるものではない。

 そして当の本人である雫からも、別段再会を喜んでいるような雰囲気は感じられなかった。



「『お友達』いるじゃん、良かったね! 一人じゃこんなとこ虚しくて来れないっしょ」


「バカ、そーゆーこと言うなって~」


「あっは。ごめぇん」



 重みも厚みもない謝罪が、その口から発される。


 あまり空気を読むのが得意ではない私でも、嫌な人たちだな、というのは伝わってきた。

 それはきっと他のみんなも同じだったのだろう。はしゃぐのをやめて、今は静観に徹していた。


 雫は、何も言わない。ただじっと、彼女たちの薄い笑みを見つめていた。



「てか、ほんとに友達かどうかも怪しいでしょ。全員地味だし。ぼっちの寄せ集め?」



 可愛らしいピンクの唇が、俗悪に歪む。


 その瞬間、ばしゃばしゃと音を立てて、雫が海から陸へと上がった。彼女たちの真ん前で立ち止まる。息を吸う音が、聞こえた。



「謝って」



 普段とさほど変わらない、凛とした声色だった。

 雫の横顔はいつも通り涼しくて、それでも、張り詰めた空気のようなものが彼女の周りを覆っている。



「は? 何?」


「失礼なこと言ったから。謝って」



 そこで初めて、雫が自分のためではなく、私たちのために言ってくれているのだと分かった。

 理由添えで同様の言葉を述べた雫に、咎められた犯人は眉根を寄せる。



「意味分かんないんだけど。ホントのこと言っただけじゃん。どうせ高校でも友達できないから、そうやって友達ごっこしてんでしょ――」


「謝って!」



 刹那、砂浜に雫の怒号が響き渡った。

 付近の人が驚いて振り返ったり、訝しむように首を伸ばしてこちらの様子を窺っている。



「私のことはいいけど、私の友達にまでそういうこと言うのはやめて」



 友達。彼女の口からはっきりと飛び出したその単語に、場違いながらも温かい気持ちになった。一方通行なんかじゃなかったんだ、と密かに嬉しさを噛み締める。



「……行こ」



 気まずさに顔をしかめた三人衆が、そそくさと踵を返した。

 何だ、終わったのか、とでも言うように、周囲の視線が外れていく。


 雫も、私も、他のみんなも、しばらくそのまま立ち尽くしていた。


 じりじりと、太陽が全てを焼いている。



「アイス、食べよ」



 雫の肩に手を掛けた薫が、半ば強引に彼女の背中を押した。

 それ以外は、誰も何も言わずに、また砂の上を歩いて海の家に入った。


 小さい子の甲高い騒ぎ声も、大人の笑い声も。本来は海に相応しいはずなのに、今だけは、今の私たちにだけは、そぐわない。



「バニラ二つと、チョコ二つ、下さい」



 初めてみんなと一緒に帰った日と同じ、ソフトクリーム。あの日と同じ、薫が注文して、バニラ派は雫と近江くんで。

 でも違ったのは、食べ終わるまで誰も、一言も話さなかったこと。さくさくとコーンをかじる音が、不格好に空間の主役を務めていた。



「ごめん」



 ソフトクリームをすっかり食べ終わってしまい、各々視線をさ迷わせていたところで、雫が切り出す。



「やっぱりちゃんと謝らせれば良かった。ごめん」



 どう反応するのが正解か分からずに、沈黙が落ちる。真っ先に首を振ったのは、薫だった。



「雫のせいじゃない。誰のせいでも、ないよ」



 霧島くんと近江くんはやっぱり黙ったままだったけれど、彼らの瞳の温度が、薫の言葉に同意していることを表している。

 薫は今一度、力強く「雫のせいじゃない」と言い聞かせるように繰り返した。



「ううん。だって、……だって私も、最初は、そう思ってたんだよ」



 自身の手の甲に視線を落として、雫が息を吐く。



「適当に寄せ集めただけじゃんって。一人でいるから可哀想って思われてんのかな、とか、思ってたよ」


「雫、」


「薫がそんなつもりで言ったわけじゃないっていうのは、今はちゃんと分かってる。遥香の、ためだから」



 正直に打ち明けて、雫は随分と優しい顔で笑う。


 さっきの人たちは中学校の頃のクラスメートで、当時からあんな風に嫌味を言われていたのだと、彼女は静かに教えてくれた。

 派手な見た目のせいもあってか、雫は常にクラスの中で浮いていたらしい。慣れっこだから別に気にしてない、と彼女自身は強かった。



「好きな自分でいて何が悪いんだろって、本気で思ってたからね。今も思ってるけど」



 雫が手を指の先までピンと伸ばして、ちょっぴり恥ずかしそうに目を伏せる。

 長く伸びた爪に、ラメ入りのピンクのネイル。彼女の、アイデンティティーだ。



「でも、ほんとのこと言うとさ。私はずっと、友達が欲しかった」



 僅かに唇を噛んで、伸ばした指を引っ込めて。雫は、初めて「ほんと」を私たちに共有してくれたのだと思う。



「一人でも別に大丈夫って、意地張ってた。私のこと理解してくれない友達なんていらないしって、今の今までずっと――でもさ、」



 でもさ。友達って、めっちゃ楽しいじゃん。

 芯のある彼女の声が、そう言う時、少しだけ震えていた。



「知らなかったー。後悔した。もっと早くこうしてれば良かったなって、思った。もっと早く、みんなと、……遥香と友達になってれば良かった」



 雫が顔を上げる。目線の先に、近江くんがいる。



「ね。近江だってさ、そう思うっしょ?」



 揺れた眼鏡の奥の瞳が、透き通っていた。彼が縦に頷いて、肯定の意思を伝える。


 それを見た時、嬉しくて、嬉しくて、涙が出た。間違いなく、私の人生で一番幸せな涙だと思った。


 ず、と鼻を啜る音が聞こえる。私じゃない。それは、隣に座る、薫だった。

 どうして、薫が泣くの。なんて、そんな陳腐な質問はできなかった。だって、私のために今日まで頑張ってくれたのは、何より誰より、薫だから。


 私の一番の親友。たった一人の、親友。

 彼女が落とす涙を、一粒一粒、見ていた。薫が唇を震わせる。その唇が、告げる。



「行こう。遥香の、お墓に」



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