半月、空に流る星の跡
「みんなありがとうね。遥香のためにわざわざ集まってもらっちゃって」
バスに揺られる中、お姉ちゃんが言いつつ眉尻を下げた。
いえ、と首を振った薫は、申し訳なさそうに口を開く。
「むしろ栞さんの方こそ、お忙しいのにすみません」
「あはは、私は全然。夏休みはバイトくらいしかやることないから」
今年大学生になったお姉ちゃんは、何もかもが私と正反対だった。
健康的な頬に、はつらつとした声。短く切り揃えられた髪は彼女の明るい雰囲気を助長する。お姉ちゃんが笑えば一緒にいる人も笑うし、お姉ちゃんが話し出せばみんなが聞き入ってしまう。
私はお姉ちゃんみたいに友達がいっぱいいるわけじゃない。上手に伝えたいことも伝えられない。
だけれど、いつも私の言いたいことを汲み取って楽しそうにお喋りしてくれるお姉ちゃんが、大好きだった。
「次の停留所だね。話してたらあっという間だった」
「薫が一方的に話してただけじゃん」
「それは雫が返事してくれないからでしょ~」
二人の会話に頬が緩む。
太陽が沈んだ空はそれでもまだ僅かに明るくて、夏の日の長さを物語っていた。
私がこの夏にやりたいことの四つ目は、「星を見に行くこと」。
本当は学校の屋上で天体観測をしてみたかったのだけれど、屋上は立ち入り禁止だ。
今日はみんなで県内にある展望台に向かっていた。晴れた日は星が綺麗に見えるらしい。
高校生だけで夜遅くまで外出するのは危ないからと、お姉ちゃんがついて来てくれたのだ。
バスを降りて、ぞろぞろと歩き出す。
夏休みということもあってか、私たちと目的地が同じであろう人がそれなりに見受けられた。親子連れが多い印象だ。
展望デッキに着くと、既に賑やかだった。友達同士の話し声、小さい子がはしゃいでお母さんを急かす音。
みんな景色を見に来たというよりも、この穏やかな時間を大切な人と共有したいのだろう。
「風が気持ちいいねえ」
「そうだね」
目を細めて心地良さげなお姉ちゃんに頷き、私も軽く腕を伸ばして空気の流れを享受する。
霧島くんが空いているところを見つけてくれたようで、私たちはその一角で夜空を観測することにした。
「けっこー綺麗に見えるけど、星座見つけるのって難しいな。獅子座ってどれ?」
「獅子座?」
「おー。俺、八月生まれの獅子座だから」
呆れたように息を吐いた近江くんが、「獅子座は春の星座だろ」と眉根を寄せる。
「え、まじ? 七月八月の星座なのに?」
「誕生星座はそもそも、生まれた日に太陽がどの星座のところにいたかっていう意味だ。毎年自分の誕生日の時はその星座が太陽のところにあるんだから、夜に探しても見つからない」
「へえ~~~、それは知らなかった」
感心したように相槌を打つ霧島くん。私も知らなかった。こっそり心の中でメモを取る。
「私も知らんかった~」
「私も」
正直に声を上げたのは薫と雫で、近江くんが怪訝そうに眼鏡を押し上げた。
「いや……季節ごとの星座とか、中学で習っただろ」
「そんなの忘れましたー」
薫は自身の頭をぽこんと叩いておどけてみせたけれど、雫の方は何やら興味を持ったらしい。空を見上げてじっと目を凝らしている。
「近江的に、夏の星座は何がおすすめ?」
手すりに寄りかかり、静かに雫が問うた。
彼女が実はそこまでとっつきにくくない人だということは分かってきた。派手なメイクも服装も相変わらずで、それでも薫や私とは普通に話してくれる。近江くんへ話しかけることは貴重だから、少し驚いたけれど。
「……俺が好きなのは、射手座の話」
雫に呼びかけられたのが意外だったのか、近江くんはやや虚を突かれたように答えた。
「“話”?」
横で聞いていた薫が首を傾げる。
ゆっくりと夜空を見やって、近江くんは話し出した。
「十二星座はギリシャ神話がもとになってる。神々が集って暮らしていたオリンポス山に、ゼウスという全知全能の主神がいた」
「あー、前にそういやギリシャ神話の本読んでたよね」
薫の相槌に、彼が頷く。
「ゼウスは浮気性で、愛人も多かった。ヘラクレスはゼウスが愛人との間に授かった子供で、ゼウスの正妻はヘラクレスを恨み憎しんでいた」
ゼウス最低じゃん、と雫。ヘラクレス可哀想だな、と霧島くん。
私は近江くんがしてくれる話の内容よりも、近江くん自身がいつになく楽しそうだったから、そのことの方が気になってしまう。
「ヘラクレスはそのあと結婚して子供を授かる。ゼウスの正妻はヘラクレスに狂気を吹き込んで、自分の子を殺させるんだ」
「ええっ……」
いつしかお姉ちゃんまでもが近江くんの話に集中していたようで、口元を手で押さえながらリアクションを漏らしていた。
「正気に戻ったヘラクレスは、贖罪のために神託所へ赴いた。そこで課せられたのが、『十二の功業』」
あ、と薫が少し得意げな顔をする。
「それが十二星座と関係するってこと?」
「いや、そのうち三つ――獅子座と蟹座、射手座は関係ある。あとはまた別の話だ」
十二の功業というのは、主に怪物の退治だったらしい。ヘラクレスが倒した怪物が星座となり、空に輝いている――それが獅子座と蟹座なんだとか。
そして近江くんが言っていた射手座の話が、これから始まるようだ。
「十二の功業の四つ目で、ヘラクレスはケンタウロスに助けを求める。怪物の捕獲が済んだ後、ヘラクレスはケンタウロスたちが大事にしていた酒を飲んでしまう」
「ケンタウロスってあれだよな? 上半分が人間で、下半分が馬のやつ」
記憶を掘り起こすように斜め上を見つめながら、霧島くんが確認する。
「ああ、そうだ。ヘラクレスとケンタウロス族の争いが起こって、その時ヘラクレスの放った毒矢がケンタウロスのケイロンに刺さった。不死のケイロンは、毒矢で死ねず、ただ苦しみ続けることしかできなかった」
耐え切れなくなったケイロンは、ゼウスに頼んで不死の力を放棄し、死んでいったという。
「ケイロンの死を悼んで天に上げられたのが、射手座だ」
なるほど、それで、と合点がいった。
確かに射手座の絵は、ケンタウロスが弓矢を持った状態で描かれている。
「まあ話は分かったけど……近江はそのケイロン? が苦しみ悶えてるのが好きだったってわけ?」
薫が顔をしかめて遠慮会釈なく問う。
んなわけあるか、と即座に反駁した近江くんは、言いにくそうに続けた。
「結局、不死だなんだって言っても、おめでたいもんじゃないって思ったんだよ。生きてる間は死ぬのが怖くても、死にたいって願わずにいられない時もある」
ケイロンのように苦しみ続けて、やがてそれに我慢ならなくなった時。
私たちに毒矢が刺さったら、私たちは不死ではないから、いずれ息絶えてしまうだろう。それでも視界が暗くなる前に、苦しむと思う。早くこの地獄が終わって欲しいと、死を望むんだろうか。それとも、まだ生きていたいと願うんだろうか。
「……私は、死にたいなんて思わない。生きなきゃいけないもの。生きていたかった人たちの分も」
芯のある声だった。薫の表情はほんの少し強張っていて、だけれどすぐに崩れてしまいそうな脆さもある。泣いてしまいそうだな、と、思った。
「でも、生き地獄って言うじゃん、たまに。安楽死って言葉もあるじゃん、世の中には」
誰の方も見ずに、雫は手すりに腕を乗せたまま、淡々と述べる。そこに薫の発言を批判する色は含まれていなくて、単に事実を挙げただけ、といった様子だった。
そうだね、と。柔らかい肯定が落ちる。お姉ちゃんの声だった。
「生きなきゃって思うのも、死にたいって思うのも、『生きたい』って思えてないからじゃないかな。楽しく生きられている時って、わざわざ生死について考えたりしないから」
それでも私たちの日常には今日も息苦しい人、死んでしまいたい人があふれていて、平和なんてまだまだ遠いのだと思う。何をもって平和と言うのかなんて、分からないけれど。
「霧島くんは、どう思う?」
不意にお姉ちゃんが彼の名前を呼ぶから、驚いてしまった。
みんなの視線が向く。霧島くんは一瞬固まって、それから困ったような笑みを浮かべた。
「……俺は運命的なもの信じてるタイプです。近江の話聞いたからってわけじゃないけど、俺らが生まれるのも死ぬのも、全部神様が決めたことだからしゃーないか、って」
難しい話だ。私たちは今、どんな文章問題や計算問題よりも難しいことを話している。
「悪く言えば諦めてるってことになんのかもしんないけど、死ぬ時って絶対後悔するし未練残るじゃないですか。だったら、まあこれは神様が決めたんだから、って思えば割り切れるというか……」
精神論じゃん、と雫が言う。わりーかよ、と霧島くんはようやく歯を見せて笑った。
「でも、それで簡単に割り切れたら誰も苦労しないし、泣かないと思います。やっぱり悲しいもんは悲しいです」
「うん。……そうだね」
お姉ちゃんの横顔が、とても儚げだった。綺麗な瞳に星が反射して、万華鏡のように輝いている。
いくら意見を交わしても正解の出ない議論は、ひとまず終わったらしい。
今度は誰も言葉を発することなく、静かに夜空を観察するだけだった。
紺色、瑠璃色、群青色。ブルーのグラデーションに、トッピングのごとく散らされた星たち。だけれどその位置は適当なんかじゃなくて、それぞれ所在が決まっている。
一見仲間外れにされているようにも見える月は、堂々と夏の暗闇を照らしていた。綺麗な半月。
七月も、もう終わる。