日出、鳴き続ける虫の音
朝の六時。澄んだ空気に深呼吸をする。
まだ白っぽい空と、静かに流れる雲。黙って眺めているだけで穏やかな気持ちになるけれど、ずっとそうしているわけにもいかない。
私は止まっていた足を再び動かし、約束の場所へ急いだ。
「あ、きたきた。おはよー」
かつて通っていた中学校の校門前。
既に薫が到着していたようだ。彼女に応えようと、手を挙げた時。
「お――近江くん……!」
唐突に横から姿を現した彼は、私の隣に並んで歩き始める。すぐ後ろにいたんだろうか。全く気が付かなかった。
驚いて一瞬立ち止まった私に目もくれず、近江くんはそのまま薫の元へと近付いていった。
「まだ雫と霧島きてないんだよねー。てか、こんなに早く起きたの久々だわ」
伸びをしてそう述べる薫はノースリーブを着ていて、とても涼しそうだ。
近江くんは僅かに眉根を寄せると、面倒そうに口を開く。
「こんな時間から何しに行くわけ」
「えー? 何ってそんなの――あ、雫だ。おーい」
私と近江くんが歩いてきた方とは反対側。ショッキングピンクのティーシャツが目に鮮やかだ。胸元まである髪を一つにくくって、雫は瞼を擦りながらこちらへ向かってきていた。
「おっはよー、雫ちゃん。元気?」
「……眠い」
雫はどうやら、朝に弱いらしい。それでもこうして来てくれたのだから、テンションが低かろうと何だろうと嬉しかった。
ふあ、と気の抜けた声と共にあくびを漏らした彼女は、なおも睡魔と戦っているようである。
「雫のすっぴん初めて見たー。え、かわゆ~」
「うっさい。……てか、どこ行くの」
軽く薫を睨んでも、今の雫ではあまり迫力がない。
近江くんと同じ質問を投げた彼女に答えようと息を吸ったところで、背後から自転車のベルが鳴った。
「わりー、お待たせ!」
振り返った瞬間、目を細めそうになったのをぐっと堪える。白いティーシャツが眩しくて、でももっと眩しいのは、屈託なく笑う顔だ。
「あーっ、霧島! 一分遅刻~!」
「一分は誤差っしょ。許して」
「自転車の時点でハンデじゃん、ずっるー」
全員揃って一気に賑やかになった場。この輪の中に自分がいるのが信じられなくて、その分嬉しかった。友達とこうして学校外で交流できること、それ自体が私にとっては貴重で大切な経験なのだ。
やっぱり霧島くんはすごい。彼が現れた途端、みんなの表情が明るくなって、空気も晴れやかになる。
自転車のハンドルを握り直した霧島くんが、にかっと歯を見せて笑った。
「じゃ、行きますか。ラジオ体操」
「腕を前から上にあげて大きく背伸びの運動から――はい」
いち、にー、さん、し。
ラジオから流れる朗々とした声に合わせて、ぐん、と体を伸ばす。
霧島くんと薫は何の動きをする時も、めいっぱい縮んだり伸びたりしていた。一方で雫と近江くんはやや気怠そうに指示に従うだけだ。こんなところにも各々の性格が垣間見えるようで面白い。
私がこの夏にやりたいことの三つ目は、「ラジオ体操に行くこと」。
何で高校生にもなって、とか、わざわざ早起きしたのにそれかよ、とか、みんな――主に雫と近江くんだけれど――からの文句を獲得しながらも実現した。
周りで元気に体操をしているのは、ほとんど小学生だろう。それと近所のおじさんやおばさん。犬の散歩中だったのか、リードを持ちながらすぐそばのベンチで休憩している人もいる。
公園に現れた私たち高校生の集団はやはり異質だったらしく、しばらくは注目の的だった。
「深呼吸――いち、……さん、し、」
時間にしては僅か三分程度。考え事をしていたらあっという間に過ぎてしまうし、ぼうっとしていても気が付けば終わっているような短さである。
ゆっくり空気を取り込めば、ピアノの伴奏が少しずつ遅くなっていって、最後の一音を告げた。
終わるや否や、首からカードを提げた子たちが列を作る。スタンプをもらうためのそれだと気が付くのに、数秒もかからなかった。
「こんにちはぁ」
もちろん私たちはカードなんて持っていない。
目の前の光景を微笑ましく眺めていたら、突然、横から間延びした挨拶が聞こえた。
声の主は、少し腰の曲がったおばあさんであった。私たちの顔を一人ひとり、確かめるように目を細めている。
霧島くんが「こんにちは」と柔らかく答えた。
「お兄ちゃんたちは、青葉中学校かい?」
「え?」
「ほら、そこの中学校の……」
「あ、違います。俺たち高校生で」
「そうかい」
偉いねえ、と息を吐いて、おばあさんが頷く。ズボンのポケットに手を入れて中を探った後、「ほれ」と何かを差し出してきた。
「飴ね、みんなで分けなぁ。ちょうど入れといて良かったわ」
「ありがとうございます」
透明なビニール包装に包まれた、緑と水色の間みたいな色合いをしたキャンディー。きっとハッカだろう。正直、あんまり好きではない。
幸か不幸か、おばあさんがくれた飴は四つだった。いつもは近所の子にあげるらしいけれど、みんなハッカは嫌いと言って受け取ってくれないみたいだ。
結局もらった飴は、霧島くんと雫が二個ずつ引き取った。薫も近江くんも、ミント系は遠慮したい、とのことである。
小さい包装を一個解き、雫が口に放り込む。からん、と飴が歯にぶつかった音が涼しげだった。
何となくこのまま早々に帰るのも呆気なくて、誰ともなく虫の音に耳を澄ませる。
この公園はものすごく広い。遊具があるエリアと、森の中のように様々な木や植物が生い茂るエリア、それから見晴らしのいい小さな山があるエリア。
ラジオ体操が終わっても、鬼ごっこやらで辺りを駆け回る子がいた。日差しから守るように枝葉が広がっており、木陰が多い。そのおかげで、私たちも比較的清涼に過ごせている。
「まさか夏休み初日からラジオ体操するとは思わなかった」
ブランコに腰かけた雫は、鎖を握りながらぼやく。
「ご、ごめんね。今まで来たことないから、行ってみたかったの」
私が素直に白状して俯くと、彼女は「まあ、でも」と視線を遠くに投げた。
「朝に体動かすのも悪くないかな」
「雫、あんなに眠そうだったのにね~」
もう一つのブランコに乗って、薫が言いつつ膝を伸ばす。また曲げて、伸ばして、どんどんブランコが揺れていく。
ミントで目が覚めた、と返して、雫は対抗するように漕ぎ出した。
「ミントじゃなくてハッカだろ」
「別にどっちでもいーじゃん。近江、細かい男は嫌われるぞ」
対決だ! なんて言いながらブランコをせっせと漕ぎ出した薫に、近江くんが渋い顔をする。
そういえばさっきから霧島くんの声が聞こえないな、と思ったら、彼は小学生の男の子たちに話しかけられていた。サッカーボールを受け取って、軽やかにリフティングをしてみせる。太腿、足首、柔らかく動きながら最後は高く蹴り上げキャッチ。
そのまま男の子たちに引っ張られて、霧島くんは試合の人員に駆り出されたようだ。
分かった分かった、と彼の口が動く。彼に弟はいるんだろうか。それは知らないけれど、いたらきっと面倒見のいいお兄ちゃんになるに違いない。
「よっし、私の勝ちー!」
「も、無理……酔う」
競争を終えたらしい女子二人が、ブランコを離れて私の隣に肩を並べる。
上機嫌な薫と、若干ブルーな雫。私も乗り物酔いはするタイプだから、ちょっと可哀想だな、と内心密かに同情した。
「あんなに走って暑くないんかねー。わざわざ自分から汗かきにいかなくてもいいのに」
そんな薫の感想はもちろん、目の前のひらけた芝生上でボールを追いかける霧島くんを見てのものだ。
暑そう、と雫が呟く。暑そうだね、と私も追随しておいた。
霧島くんがサッカーをするところを見てみたいと、ずっと思っていた。ユニフォームを着てきらきら汗を飛ばしながら、真剣な目をする彼を。
放課後、こっそり居残って教室から眺める――なんて、そんなことは叶わないから、一度も見たことはなかったけれど。今こうしてサッカーをする彼を間近で注視できるのは、願ってもないことだ。
霧島くんの流しているものが、汗ではなく涙なんじゃないかと思うことが時々ある。それは普段、「泣き顔」から最も遠い距離にいる彼からは想像もつかないかもしれない。
でも、私は一度だけ見たのだ。彼が一人、教室で泣いているところを。
「あっやべ、そっち飛んだわ! わりー近江、おもっきり蹴ってくんねー!?」
声を張り上げて、霧島くんが「へいパース!」と愉快そうに足踏みをする。
近江くんが蹴ったボールは私の頭上を通り過ぎ、霧島くんの横も通過してしまった。
「おぉい、飛ばしすぎ! 近江も試合参加な!」
「は? 何で」
「キーパー頼むわ!」
「話聞いてんのかよ」
不満を述べながらも近江くんは頭を掻いて、やれやれ、とでも言いたげに歩き出す。
私たちも応援団として加勢し、早朝の公園は活気にあふれていた。