頭髪、照りつく太陽の帰途
待ちに待った夏がやって来た。
朝から容赦なく照り付ける太陽をそっと見上げて、眩しさに笑みが零れる。見つめすぎると目がちかちかするよ、といういつかの先生の言葉を思い出して、反らしていた背中をすぐに戻した。
学校に向かうまでの道すがら、スキップしたくなるくらい、私は夏を待っていたのだ。
だって、わくわくする。初めての夏。高校生になってから初めて迎える、トキメキの季節だ。
私にはこの夏、やりたいことがある。
今しかできないこと。だから、急いで坂道を駆けていく。はやる気持ちをあえて抑え込むことはせずに、だだだ、とスニーカーの底で地面を蹴っていく。
「おーい、斗和ぁ! お前飛ばしすぎだろ!」
後ろから遠慮のない叫び声が聞こえて、思わず立ち止まった。けれども下り坂。すぐには止まることができなくて、二、三歩もたつく。
そんな私の横を、自転車が一台、通り過ぎていった。風が舞う僅か一瞬、視界に映ったその黒髪に、心臓の端が震える。
坂の終着点でブレーキ音が鳴って、青い自転車に乗っていたその人が振り返った。
「わりーわりー。あっついから、早く行こうぜ」
笑うと八重歯が覗いて、少し幼くなる。日に焼けた健康的な肌も、決して大きいとは言えない目も、何にも変わっていない。出会った時のままだ。
霧島斗和くんは、私にないものをたくさん持っている、憧れの男の子だった。
「そんなに急がなくたってさー。力んで漕いだら逆に汗かかね?」
青い自転車に遅れて、今度は黒い自転車が私の横をすり抜ける。
さっき大声で霧島くんを呼んだのは、クラスメートの男の子。彼も彼で、制服の半袖から伸びる腕には日焼けの跡が残っていた。二人ともサッカー部だから、毎日太陽の恵みをもらっているのだろう。
何やら言い合いをしつつ、彼らが再び自転車を漕ぎ出した。それを一人眺めながら、小さく息を吐く。
……少し、いや結構、びっくりした。
朝から霧島くんを見られると思っていなかったし、彼が振り返った時、私に向かって笑いかけてくれているのかと錯覚してしまった。クラスで人気者の彼が私に――だなんて、そんなわけはないんだけれど。
でも、今日はいい日だ。始まりに相応しい。何って、夏の始まりに。
私は走るのをやめて、自転車が通ったあとを丁寧になぞるように踏みしめながら、通学路を歩いた。
私がこの夏にやりたいことの一つ目は、「友達をつくること」だった。
どうしてって、私は友達が少ない。高校に入学してから、休み時間に話したりお昼ご飯を一緒に食べたりできる友達は、中学から一緒の薫しかいなかった。
それもこれも、私が人見知りでつまらない性格であるせいなのだけれど、今更変えようといったってなかなか難しいのだ。
「ねーねー、糸川さん。友達になってよ」
お昼休み。私の前の席に座る薫が振り向いて頬杖をつきながら、突然そんなことを言う。
糸川さん、というのは、私の後ろの席の女の子だ。髪の毛が茶色で、メイクもばっちりで、正直ちょっと怖い。
でも薫はきっと、私が「友達をつくりたい」と言ったから、代わりに糸川さんに話しかけてくれたのだろう。
「……友達?」
案の定、糸川さんは首を傾げて怪訝そうに私たちを見やる。
薫は「そ、友達」と頷いて、私に一瞬視線を寄越してから続けた。
「遥香が、友達欲しいって言うから」
「…………遥香って、」
糸川さんが私の顔を凝視して固まる。
もしかして、影が薄すぎて名前を覚えてもらっていないのだろうか。私は恐る恐る口を開いた。
「出雲遥香です。……わ、私と友達に、なってくれませんか」
まるで春、新学期のような会話である。もう七月だというのに、一体何を言っているのかと笑われるかもしれない。
けれども、スタートダッシュで挫けてしまったのだから仕方ないのだ。
糸川さんは普段、一人でいることが多い。
他のクラスメートはほとんどグループ化してしまっているし、今更その中に入っていくのも大変だ。だから、というのも少し失礼だけれど、そういった心配のない糸川さんに声を掛けたのである。
「ま、そういうわけでよろしく。ええと……雫チャン?」
未だ呆けたような顔をして黙り込んでいる糸川さんに、薫がやや強引に話をまとめた。
「……雫でいいよ」
「じゃあ、そう呼ばせてもらおうかな。私のことも薫でいいよ」
私も慌てて「遥香って呼んで」と口を挟む。
雫ちゃん。雫。胸中で繰り返し練習して、今度彼女を呼ぶ時はどもらないようにしよう、と一人意気込んだ。
「てか、近江。それいま何の本読んでんの?」
次のターゲットは、私の隣の席の男の子、近江くんらしい。
彼はいつも物静かで、休み時間は読書をしている。第一ボタンまできちっと留められたワイシャツが暑くないのかな、と心配になるけれど、それが真面目な彼の性格をよく表していた。
「ギリシャ神話」
薫の質問に短く答えた近江くんは、眼鏡を自身の指で押し上げる。
「へー、よく分かんないけど。とりあえず、近江も友達になってよ」
「……出雲の?」
「あ、なんだ。うちらの話聞いてた? だったら早いじゃん。そういうこと」
友達をこういう風につくるのが正解なのかは分からないけれど、短時間で二人も友達ができてしまった。改めて、薫ってすごいなあ、と感嘆のため息をつく。
まあいいけど。近江くんが若干戸惑ったようにそう返して、目を伏せた。
「あの、近江くん。よろしくね」
勇気を振り絞って、彼に挨拶をしてみる。
声が小さすぎたかもしれない。近江くんの意識は既に本へ向いていて、残念ながら会話のキャッチボールはできなかった。
「よし。そうと決まったら今日の放課後、校門前集合ね」
「えっ、今日?」
あまりにも突然な薫の提案に、思わず聞き返してしまう。
糸川さん――もとい、雫も「何で?」と身を乗り出していた。
「近江もだからね。勝手に帰んないでよ」
我関せず、といった様子で本のページをめくっていた隣の彼が、薫に名指しで釘を刺され、緩慢に顔を上げる。
「俺、予定あるんだけど」
「はい残念。そこの二人が部活も委員会も入ってなくて暇なのは調査済みでーす」
雫を右手の人差し指、近江くんを左手の人差し指でさした薫は、得意げに口角を上げた。人を巻き込むには、多少の強引さが必要不可欠なようである。
「あ、霧島!」
薫が目の前で急に大きな声を上げたので、どきりとして肩が跳ねた。彼女の視線は私の後方に固定されているけれど、振り返れそうにない。途端に背中が熱くなってきて、緊張に俯く。
「おー、足立。なに?」
快活で男の子らしくて、けれども低すぎない声。私がずっと、密かに憧れている人の声。
実は、霧島くんとは高校から知り合ったわけではない。中学が同じだったのだけれど、三年生の時しかクラスが一緒にならなかったし、私はほとんど学校に行っていなかった。だからきっと、霧島くんは私のことをあまり知らないと思う。
でも、別にそれでいい。仮にずっとクラスが一緒だったとしても、毎日顔を合わせていたとしても、私は彼に朝の挨拶すら上手く言えないだろうから。
「サッカー部って今日休みでしょ? 放課後ヒマ?」
「え? まー、うん、暇だけど。何で?」
まさか、霧島くんまで誘うつもりなのだろうか。それはさすがに恐れ多すぎる。
「薫……! いいよ、そんなわざわざ……」
必死に首を振って制止するも、私の言葉はただの遠慮と受け取られたのか、薫はやけに真剣な顔で霧島くんに告げた。
「遥香のために、お願い」
背後で息を呑むような気配がして、沈黙が落ちる。
ゆっくり振り向けば、霧島くんと視線が交わって驚いた。
彼はこちらを見つめたまま、神妙な面持ちで瞬きを繰り返している。その瞳の中にいつもの柔らかい色が戻ってきた瞬間、霧島くんは眉尻を下げて優しく笑った。
「いーよ。……実はさ、俺、出雲ともっと仲良くなりたいって思ってたんだよな」
「えっ」
不意打ちのカミングアウトに、かあ、と頬が熱くなる。
霧島くんが私と仲良くなりたい? 気を遣って言ってくれているんだろうか。そうだったとしても嬉しい。きっとこんな風に言ってもらえることなんて今後ないだろうから、今日は記念日だ。
それは遥香も喜ぶわ、と薫が目尻を和らげる。何だかお母さんみたいな言い草だ。
「で、放課後何しに行くの」
軽く頭を傾けて、霧島くんが促してくる。
薫はわざとらしく人差し指を立てると、胸を張って切り出した。
「それはね――」
「えーと、五個でいいのかい?」
「はい。バニラが三つと、チョコが二つで」
お店のカウンターで注文する薫の声を聞きながら、じりじりと焼き付けてくる太陽を感じる。
雫も近江くんも日差しに眉をひそめていたけれど、霧島くんは平然としていた。彼の汗には清涼さすら窺える。
私がこの夏にやりたいことの二つ目は、「帰り道に友達とアイスを食べること」。
寄り道をして、友達と感想を共有して。特別面白いことがしたいわけでも、冒険がしたいわけでもない。ただ、弱った心身を平穏な日々の中で癒せたら、それだけで良かった。
「一個二百五十円ね」
「はーい」
二つのチョコ味は、薫と霧島くんだ。
ここのチョコ美味いよ、と霧島くんはさっき言っていたのだけれど、私はやっぱりソフトクリームはバニラが一番美味しいと思う。
それぞれコーンを受け取って、誰ともなく、ぱくりとアイスの先っぽを口に入れた。
うぅん、と冷たさに唸った薫が、雫の腕をつつく。
「雫、バニラ一口ちょうだい」
「嫌なんだけど」
「えー、ケチ」
「……遥香の分、もらえば」
逡巡した挙句、雫が私の名前を呼んでくれた。何となく気恥ずかしいのか、彼女は視線をさ迷わせている。淡泊な子なのかと思っていたけれど、そういうわけではなさそうだ。急に親近感がわいた。
雫ともうちょっと仲良くなりたくて、何か話題はないかとぐるぐる思考を巡らせる。結局思いつかなかったし、その間に薫が私のソフトクリームを食べていたけれど、こんなに大勢での帰り道は初めてだったから、何もかもが楽しかった。
「近江ー、俺もバニラ食いたくなってきた」
「もう一個頼めば」
「いや一口ちょうだいって言ってんの。分かれよー」
霧島くんが近江くんの肩を組んでじゃれる。
暑いから離れろ、と近江くんは鬱陶しそうに顔をしかめた。
「ソフトクリームはバニラだろ。それ以外邪道」
「あ、……わ、分かる。私も、そう思う」
近江くんの発言を拾って、咄嗟に反応する。急に会話に割り込んでしまって馴れ馴れしいと思われるかな、と危惧したけれど、彼は別段私を咎めることはなかった。
「え~、まあバニラは確かに美味いけどさ~……そんなこと言ったら期間限定フレーバーの立場どうすんの」
大袈裟に膨れてみせた霧島くんは、すぐに晴れやかな笑顔に戻る。
彼と近江くんはしばらくの間、ソフトクリームのフレーバーについて真剣に討論していたから、それがどうにも可笑しくて、吹き出さないように堪えるのが大変だった。
「ちょっと男子ー、真面目に食べてよ」
早々に食べ終わったらしい薫が腕を組み、二人の言い合いに水を差す。
「合唱コンクールの女子みたいな言い方やめろ」
てか真面目にアイス食うってなんだよ、と霧島くんが肩を揺らした。彼はコーンスリーブを剥がすと、そのまま小気味いい音を立てて食べ進める。
私はソフトクリームのコーン部分が苦手だ。せっかくアイスを食べて喉がひんやりしているのに、全部ぱさぱさした感覚に上書きされてしまうから。
みんな食べ終わってゴミを捨てたら、それが楽しい時間の終わりの合図みたいで、少しだけ寂しくなった。
「あっち~~~」
アスファルトの吸い取った熱が、下から私たちを炙ってくる。
霧島くんは自転車を押しながら前方を歩いていた。青い車体に光が反射して、数種類のブルーを試作中のパレットみたいに、境界線がぼやける。
彼の後頭部を太陽が無慈悲に照らして、首筋にまた新しい汗が浮かんでいた。