セレネと不器用な旦那様
『親愛なるセレネ
おはようございます。魔宝石の用意をしていたら、ふと貴女の瞳を思い出しました。
せっかくなので贈ります。貴女の瞳にそっくりな、愛らしいローズピンクだと思いませんか?
陽に透かすともっと綺麗です。よければ試してみてください。
アシュトン』
朝起きると、サイドテーブルの上にリボンの結ばれた綺麗な小石が置いてあった。メッセージカードが一枚添えられている。
わたしはその手紙に、返事を書いたことがない。
*
『親愛なるセレネ
おはようございます。昨日の舞踏会はとても楽しかったです。舞踏会を楽しいと思えるようになったのは、貴女と出逢ってからでした。
貴女は本当に、何を着てもよく似合いますね。贈ったアクセサリーも身に着けてもらえて、嬉しかったです。
ぜひまたエスコートさせてください。
アシュトン』
サイドテーブルの上に、いつものメッセージカードが一枚。
差出人は、一月前に知り合った人。一月前に、わたしの夫になった人。
わたしを起こしに来たメイド達が目覚めの紅茶の準備をしている間、わたしはそれをじっと見ていた。
二人で寝ていたベッドには、もうアシュトンの温もりも匂いも残っていない。
着替えて食堂に行く。朝食の時はいつも一人だ。美味しいけれど、少し味気ない。
かといって、アシュトンの朝は早すぎるので起きられない。十時ぐらいにのんびり起きるのがわたしであると、アシュトンも使用人もちゃんとわかってくれていた。
朝食を食べたら、あとはアシュトンが帰ってくるまで自由だ。
読書も刺繍もお昼寝もやりたい放題だし、お茶会やサロンに出かけてもいい。友達と一緒に買い物や観劇もよく行っている。
わたしは男爵家の娘だ。いわゆる成金ではあるが、財界への影響力はそれなりにあると思っている。
何故ならわたしの祖父は、お金持ちすぎて叙勲されたからだ。国王や教皇が、お金を借りたがるぐらいには。
税金や寄付金だけではとても賄えないほどの莫大な金額を動かしたいとき……あるいは、早急に大金が必要だけどそれらに手を付けるわけにはいかないとき。そういうときに、我がイルベイズ家にお呼びがかかる。お金を貸してくれないか、と。
もちろん貸したお金は利子をつけて返してもらう約束だ。物や地位や信用での返済も受け付けている。
そういう家なので、我が家は方々から恨みと妬み嫉みを買っていた。だけどそれと同じぐらい、我が家との太く長い付き合いを望む人もいる。わたしの義父であるウィラード侯爵もその中の一人だ。
イルベイズ家と取引するにあたってウィラード侯爵が持ち出した担保は一人息子。古い王朝の血を引く名門一族だからこそ、信用は十分だと自信があったのだろう。
対してイルベイズ家が貸し出したのは、彼の三つ年下の長女だ。こうしてわたしとアシュトンは結婚することになった。
わたしも華の十六歳。結婚には夢を見ていた。それが、会ったこともない人といきなり結婚だなんて。
もう決まったことだからと、婚約期間すらもらえなかった。そのぞんざいな扱いは到底許せるはずもない。
とはいえ他に好きな人なんていなかったし、歴史あるウィラード家と縁づくことが我が家にとって悪い話ではないのもわかっていた。だからわたしは、渋々縁談を受け入れた。
好きなことをしていると時間はあっという間に過ぎていく。アシュトンが帰ってきたと、メイドが教えてくれた。慌ててエントランスに向かう。
「お帰りなさい、アシュトン!」
「……」
アシュトンは小さく手を上げた。黒みを帯びた青紫の瞳がわたしを捉える────ああ、わたしの旦那様は今日も素敵!
一月前、結婚が決まったといきなり父様に言われた時は荒れに荒れたものだ。合理性と感情は別。
けれどアシュトンに初めて会った時、不満と憤りはどこかにいってしまった。
だって、アシュトンの顔があまりにも好みだったから。
真昼の空の髪と、その対極に位置する宵闇の瞳。涼やかを通り越して冷ややかな目元、笑みという概念が存在しないかのように固く引き結ばれた唇。白くなめらかな肌はいっそ人形のようで、整った顔立ちは余計に無機物めいた印象を与えていた。
この格好いい人を夫と呼べるのであれば、喜んで結婚するに決まっている。というか、その骨ばった手で頭を撫でてもらうためならなんだってできた。
「アシュトン、今朝もお手紙をありがとうございます! ちょうど今日、ユイネ子爵夫人から舞踏会の招待状が届いたの。再来週ですって。ね、一緒に行ってくださるでしょう?」
アシュトンに抱きつき、彼の匂いを胸いっぱいに吸い込む。あたたかくて、しあわせだ。
アシュトンは毎朝わたしに手紙をくれる。わたしはアシュトンに手紙なんて書かない。言いたいことは全部、直接話すからだ。
あの手紙は朝わたしがまだ寝ているうちに置かれるし、夜は一緒に眠るので、そもそも手紙を渡そうと思うタイミングがなかった。少なくともわたしからなら、その場で話したほうが早い。
「……ん」
「本当? 嬉しいわ! さっそく子爵夫人にお返事を書かないと。どんなドレスがいいか、一緒に考えてくださらない?」
「……」
アシュトンはこくりと頷き、私の頭を撫でる。楽しみが一つ増えた。この前仕立てたばかりの、アシュトンの天色の髪のような刺繍のあるドレスがいいかしら。それとも、宵闇のようなグラデーションで染めたドレス?
でも、わたしが本当に着たいのはアシュトンが選んだドレスだ。彼は何を選んでくれるのだろう。
「アシュトン、聞いてくださいな。今日はね──」
アシュトンと食べる夕食は輪をかけて美味しい。わたしは今日あったことを話し、アシュトンは静かにそれを聞いている。たまに返事をしてくれるときは、その声音を一瞬たりとも聞き逃さないようにじっと耳を傾けた。
夕食の後は同じ部屋で好きなことをしながら時間を共有して過ごし、就寝の時間になれば一緒に寝室に戻って同じ寝台で眠る。夜の営みも求められれば応じた。わたしから誘うことだってある。わたし達の新婚生活は、かなり順調だ。
*
『親愛なるセレネ
おはようございます。昨日お伝えした通り、今日は演習と会議があるので帰りが少し遅くなります。
食事も睡眠も、先に取ってもらって構いません。その代わり、明後日は休みを取ることにします。
貴女がよければ、仕立て屋を呼びましょう。それとも街に出かけましょうか。出かけるのなら、行きたいところに付き合いますよ。
アシュトン』
目覚めると、大きなベッドにはもうアシュトンの温もりは残っていなかった。代わりに、サイドテーブルにいつもの手紙が置いてある。
これはつまりデートのお誘いだ。早く明後日になってほしい。
アシュトンからの手紙は大切なものなので、文箱にしまっておく。これまで彼からもらった手紙はすべてここに収納していた。中身は毎日読み返している。
また読み返したくなって、鼻歌を歌いながら手紙を取る。……ああ、これ、初めて届いた手紙だ。
『セレミリーネ・イルベイズ嬢
改めて、はじめまして。アシュトン・ウィラードと申します。
昨日は醜態を晒してばかりで申し訳ありません。満足に受け答えもできず、ご気分を害されたことでしょう。
お気づきかもしれませんが、私は話すのが苦手です。思うように声が出ず、言葉に詰まってしまうのです。そのため今日は、こうして手紙という形を取らせていただきました。
結婚など、貴女にとっても急な話とは思います。それでも昨日貴女に会って、物怖じせず明るく振る舞うところに強く惹かれました。貴女となら、これから先の人生を共に歩んでいける気がしたのです。
貴女に納得していただけるまで、心を尽くすつもりです。
ろくに話もできないつまらない男ではありますが、不自由はさせません。
もしも今、想う方がいらっしゃらないのであれば、どうか友達から始めていただけませんか。
アシュトン・ウィラード』
花束と一緒にこの手紙が届いた時、返事を書く時間も惜しくてウィラード邸に押しかけたんだっけ。
初めて会った時、アシュトンはしかめっ面のまま目も合わせてくれなかった。話しかけても、軽く頷くか首を横に振るかしかしてくれない。……まあ、そのクールな雰囲気が心に刺さったのだけれど。ちなみに今は、ギャップのおかげでもっと素敵に見えている。
アシュトンから話題を振ってくれることもなかった。会話も弾んだとはとても言えない。舞い上がったわたしが一方的に喋っていただけだ。
はたから見れば、あのお見合いは大失敗だっただろう。アシュトンが帰った後、遠くから様子を見ていた兄様が慰めるように肩を叩いてくるぐらいには。
だけどこの手紙をもらった時、わたしの中で何かがかちりと嵌まった気がした。この人と結婚しよう。アシュトンが喋らない分、わたしが喋ればいいだけだ、と。
今、その考えは正しかったとはっきりわかる。元々、わたしの家族がロクデナシとの縁談なんて持ってくるわけがないのはわかりきっていた。だから、心配することなんて一つもなかったのだ。
アシュトンは言葉や暴力でわたしを支配しようとしないし、日中はわたしの好きなように過ごすことを認めてくれる。なるべく夫婦の時間を作って、歩み寄ろうともしてくれた。それに、口下手な彼なりに、プレゼントや手紙で愛を示してくれる。
わたしも彼の想いに応えているつもりだ。本当に応えられているかは、たまに自信がなくなるけれど。
*
アシュトンとのデートで準備を重ね、ついに迎えた楽しい舞踏会……のはずだった。
「ねえ、蝉姫様よ」
「ご両親に似て強欲な方。ご覧になって、今日もアシュトン様を奪われまいとぴたりとくっついていらっしゃいますわよ」
「あんな卑しい女がアシュトン様の妻だなんて……。お可哀想なアシュトン様」
「騒がしくて下品な女など、アシュトン様にはふさわしくありませんわ」
わたし達をちらちらと見る少女達が、ひそひそと言葉を交わしている。王室派の中でも特に斜陽の家のご令嬢達だ。別に彼女達の家が傾いているのはイルベイズ家のせいだけではない。恨むなら無能な先祖を恨んでほしいものだ。
「あの方、蝉姫とおっしゃるの?」
「蝉姫など、アンネメイラ様のような方が気にするほどの者でもありませんわ。礼儀も知らない、ただの厚かましい子ですもの」
聞こえているけど、わざとだろうか。
蝉姫というのはわたしのことだ。最初はセレミリーネの愛称だと思ったけれど、どうやら外国の虫の名前らしい。
なんでも、木にへばりついて騒がしく鳴く虫だとか。長身で物静かなアシュトンを木に見立て、おしゃべりなわたしをそう呼ぶのはいつの間にか―とある派閥の中で―広まっていた。蝉が活発なのは一つの季節だけというから、わたし達が早めに破局するのを望まれてのものでもあるかもしれない。失礼な話だ。
「ぶ、ぶ……舞踏っ……舞踏会は、き、き、嫌いだ」
アシュトンはわたしにだけ聞こえるような声で呟き、ぎゅっとわたしの手を握る。アシュトンが言葉を口に出すことはあまりないことだ。
嫌いだなんて、そんな。楽しかったって、手紙で言ってくれたのに。
「あ……、あの、違うんだ。みぃぃんな、勝手に……話す、から。ええと、知らない人に勝手なことを言われる……のが、嫌いで」
「大勢人がいる場で、遠巻きにひそひそと根も葉もない悪口を言われるのが嫌なのね。それは、わたしも嫌いだわ。わたし達のことなんて、何も知らないのに。……でも大丈夫よアシュトン、心ないことを言う人はごく一部ですもの」
ほっとした。本心では嫌がっていたアシュトンを無理やり連れ出したわけではなかった、それだけで十分だ。
「貴女のっ、こ、こここ声は好きっ、だから……ずぅぅっと聞いていたい。……うるさい……とは、思わない」
声はかすれて、途切れ途切れ。それでもちゃんとわたしには聴こえる。アシュトンが言いたいことは、わたしにはちゃんと伝わっている。
「わたしも、一生懸命に話そうとする貴方が好きよ! それに、字もとても綺麗よね。貴方の手紙を読むと幸せな気分になるの。声とお手紙、二つで愛を伝えてもらえるわたしってとっても恵まれてるんじゃないかしら」
アシュトンにキスをする。刺のある眼差しでこっちを見ている有象無象に見せつけるように。甘い空気に包まれた若い恋人達は多いし、なによりわたし達は夫婦だ。誰にも文句は言わせない。
「……誰に、何を言われても……わ、わ、わ、私の妻はっ、貴女だっ……けだ」
「ええ、存じ上げております、アシュトン。わたしの夫も、貴方だけ」
それからアシュトンはわたしの側を片時も離れなかった。この場でアシュトンに用事がある人は、わたしを通さなければ話せない。わたしにやっかみをぶつけたい人は、アシュトンの手前か近寄りもしなかった。
見目麗しいうえにウィラード侯爵家の次期当主で、若くして宮廷魔術師の最高等級である賢人位を持つ彼は、どこに行っても注目の的だ。社交界に顔を見せるようになったのはわたしと結婚してかららしいけど、わたしがいなければきっと社交なんてしないだろう。
それで構わない。社交などというものはわたしの仕事だ。社交に時間を割くぐらいなら、わたしともっと一緒に過ごすべきだろう。
家政と社交はわたしが仕切れるし、領地を守る優秀な家令もいる。アシュトンはこと魔術に関しては天才で、無詠唱魔術という離れ業をやってのけるほどの魔力量と魔力操作の腕があった。古王朝の流れを汲むウィラード家の血筋と祭政すらもカモにするイルベイズ家の財力もあるし、没落することはまずありえない。
────つまりわたしとアシュトンは、最高の夫婦なのではないだろうか?
今期の国内ベストカップル賞は決まりだ。来期とその次とそのまた次の時も、今後一生わたし達が受賞するしかない。惜しむらくはそんな賞が存在しないことだけど、イルベイズ家のお金で創設してしまおうか。
*
「ごきげんよう、セレミリーネ様。こうしてお話するのは初めてですわね」
「ごきげんよう、王太子殿下、アンネメイラ様。どうかなさいまして?」
王宮で催されたお茶会で、わたしは意外な人物に声をかけられた。
彼女は王太子のお気に入り、アンネメイラ・ディクルズ。二週間ほど前に突如として社交界に現れた“女王様”だった。
アンネメイラは隣国の公爵令嬢だ。才気あふれる美少女だったのが災いし、祖国で嫉妬を理由にした迫害を受けたらしい。それを颯爽と助けたのが、遊学中だった我が国の王太子ジョズレットだとか。
アンネメイラは彼の誘いに乗って、年若い執事と義弟を連れてこの国に来たそうだ。
たった二週間で、アンネメイラに恋い焦がれる男は数知れず、アンネメイラのせいで恋に破れた女も数知れず。アンネメイラの必殺「彼の幸せを願うなら、彼を解放なさってください」に泣かされた少女は多いはずだ。
ちなみにこれ、解放しても女として負けたことになるし、解放しなければ“彼”の心は永遠にアンネメイラのものという不条理すぎる結末が待っている。
解放された“彼”をアンネメイラは引き取らず、取り巻きのままキープするのはお約束だ。
相手が王太子のお気に入りなので、被害にあった娘の親も強く抗議できないらしい。破局の原因は全部娘にあると吹聴されるから、大事にすれば娘の恥にもなってしまう。
魔女と呼ばれ祖国を追放された公爵令嬢は、人を扇動することに長けているらしい。魔女という呼び名も、正しい評価である気がしないでもなかった。
肝心のアンネメイラは、完全な善意で暴走しているらしいけれど……彼女が迫害されたのは、本人の気質のせいなのでは?
アンネメイラはいつも取り巻きの男性達に囲まれ、彼らとともに周囲を振り回している。アンネメイラにとって彼らは“いいお友達”で、傅かせている意識はないらしい。
今日もアンネメイラは取り巻きと一緒だった。今日のお茶会は少女だけの特別な催しだったのに、一人異質な人が紛れている。それがアンネメイラの取り巻き筆頭、薄笑いのジョズレット王子だ。
そもそも、今日の招待状は男性には届いていないはずなので、取り巻きを連れてくるほうがおかしいのだけど。……お茶会が始まったばかりのころ、主催者のネフィリス王女は兄王子の登場にちょっと驚いた顔をしていたっけ。
結局彼は「アンネメイラが不安そうだったから」で押し通し、そのまま居座ってしまっていた。王子の飛び入り参加ともなれば目の色を変える令嬢がいてもおかしくはないけど、隣にアンネメイラがいる時点で全員諦めている。
「突然すまない。優しいアンネメイラは、君の夫君のことが気がかりらしくてね」
「なんですって?」
ただならぬ空気に目ざとく気づいた招待客達が、好奇心や不安の混じった眼差しをわたし達に向けてきた。
わたしがアシュトンの妻であることが気に食わない子、それから純粋にわたしの心配をしてくれるわたしの友達。前者の見世物になるのはごめんだけれど、アンネメイラ達を無視するわけにもいかない。
めぼしい男性は全員自分の下僕だと思っているアンネメイラのことだ。アシュトンのことを見初めてしまっても不思議ではない。
ああ、これだからアシュトンと外に出るべきではなかった!
一緒に舞踏会や観劇に行きたいなんて、思ってはいけなかったのだ。彼のことは大事に大事にわたしだけが触れられる場所にしまっておくべきだった。見せびらかすなんて言語道断だったのに。
……でも、どうしてわたし達が我慢しなければいけないのかしら。
わたし達がどこで何をしていようと、赤の他人には関係ない。赤の他人に気を遣って、わたし達が自由を奪われる筋合いはない。解決した。これからも好きな時に好きな場所へアシュトンと出かけよう。
「先日、アシュトン様から相談を受けましたの。貴方の束縛と嫉妬に苦しめられていると」
嘘だ。わたしの大好きなアシュトンがそんなことを言うわけがない。第一、他の女と会話するわけがないだろう。
手紙なら内緒でやり取りできるだろうけど、書斎のレターセットもメッセージカードも一枚たりとも不審な減り方はしていなかった。減った分は、わたしに届いた分と書き損じた分だけだ。わたしの目を盗むという意味では職場も不倫現場の候補に上がるけど、それはそれで危険が大きすぎる。アシュトンはそこまで馬鹿じゃない。
つまり、全部アンネメイラの虚言だということだ。
黒幕は多分、隣のジョズレット王子だろう。
アンネメイラが火のないところに放火した話はまだ聞いたことがない。これまでアンネメイラが男女関係を破壊したのは、相手の男がわずかなりともアンネメイラに心を寄せたときだけのはずだ。わたしだけのアシュトンが彼女に心を奪われるなんて、万に一つもありえなかった。
だから、アンネメイラがこんな奇行に走るに至った原因は他にあるはず。
それには、憎からず思っているはずの令嬢を平気で悪趣味な略奪女にさせている、腹黒そうな男がぴたりと当てはまった。
「アシュトン様は静かなほうが好みなのに、毎日毎日貴方につきまとわれて迷惑しているとおっしゃっていましたわ」
それは違う。アシュトンは、自分の話し方が嫌いで喋らないだけだ。周りが勝手に押し黙ったり、望まないゴシップを振りまいたりしなければ、アシュトン自身は静寂も喧騒も愛してくれる。
わたしの話は楽しそうに聞いてくれるし、義父母や使用人達のおしゃべりにも耳を傾けているのだ。本当は自分も会話の輪に入りたいと思っているかもしれない。うまく話せないから黙っているだけで。
「あらあら。アンネメイラ様は、見た夢を鮮明に覚えていらっしゃるのね」
アンネメイラの笑みが引きつった。ジョズレット王子も眉根を寄せる。
「アシュトンはわたしの声が好きだと言ってくださるの。貴方はご存知ないでしょうけど、アシュトンってとってもお話が好きなのよ」
アシュトンは直接口を開くことこそ少ないけれど、手紙で色々と話してくれる。
昔、魔術を使って話そうとしてボリュームやイントネーションの調整が全然できなかったり、相手の脳内に直接声を響かせて驚かせてしまったりしたせいで、今ではすっかり筆談頼りらしい。
有事の時以外は研究所にこもって研究をしていればいい宮廷魔術師は、人嫌いの偏屈家に大人気の職だ。だから話せなくても困ることはないと言っていた。もちろん、元々の魔術の才能があるからこそ就けたのだろうけど。
「初めて会った時も、緊張しすぎて一方的にお話をしてしまったのだけど……アシュトンは、そのおかげでわたしに興味を持ってくれたみたい。アシュトンとたくさんおしゃべりするのが結婚してからの日課なの。アシュトンほど聞き上手な人はいないわ!」
話が違う、と言いたげにアンネメイラがジョズレット王子を見た。
アンネメイラは本当に、アシュトンが嫌いな女と無理やり結婚させられて不幸な結婚生活を送っていると思っているのかもしれない。可哀想な薄幸の美青年を、助けてあげるつもりだったのだろう。
そんな嘘を吹き込んだのは、絶対にジョズレット王子とその仲間達だ。わたしとアシュトンを別れさせたい勢力も加担していたのかも。
でもおあいにくさま。もしも本当にアシュトンがわたしのことを嫌っていたとしても、アシュトンを助けていいのは貴方じゃない。
「アシュトンってとっても可愛い人なのよ。わたしが黙っていたり、手を繋いでいなかったりすると、すごく寂しそうな顔をするの。そんな彼が愛おしくて愛おしくて、つい腕を絡めてたくさんおしゃべりしてしまうのよね。そんな姿を見せるのはわたしの前だけみたいだから、貴方はご存知ないでしょうけど」
中途半端な博愛主義を掲げる女ごときが、アシュトン検定九段のわたしに勝てるとでも?
「アンネメイラ様も、そう思える唯一の相手と出会えるといいわね」
「男爵の娘風情が、生意気な……!」
微笑むと、アンネメイラは顔を真っ赤にしてわたしを睨みつけた。
「今は次期侯爵の妻よ。そういうアンネメイラ様は、祖国で貴族籍から外されたと聞いているけれど……」
「ウィラード夫人、あまり私の可愛い人をいじめないでくれるかな」
最初に喧嘩を売ってきたのは、貴方達なのに……。
「ごめんあそばせ、王太子殿下。ですが無礼を承知で申し上げますけれど、婚約者でもないご令嬢をそう呼ぶのはいかがなものでしょうか」
……まあ、ここで深追いするのもよくはない。だってジョズレット王子の狙いは、わたしを怒らせて墓穴を掘らせることだからだ。
わたしの実家は金貸しの家。潰れてくれれば、借りた金を返さなくてもいい。しかもこの国の貴族である以上、王家ならば理由をつけて我が家の莫大な財産を接収することだってできる。正当な理由さえあれば、だけど。
そういう隙をうかがっているのだろう、この腹黒王子は。事実、王太子の婚約者候補に楯突いた咎を責められていくつかの家が苦しい立場に立たされている。罰金を課せられたり、領地を削られたり。爵位の剥奪を匂わせられれば、従うほかないらしい。
それで王家の力が増すならと国王や王妃は黙認しているようだけど……締め付けが苦しければ苦しくなるほど、反発も大きくなるものだ。
金を貸し、それを回収するだけのイルベイズ家も恨みは買っている。けれど、今回のそれとは事情が違う。
イルベイズ家にはちゃんと信用に基づく味方がいるし、教会という後ろ盾もあるからだ。なにより、きちんと契約を履行できる家とはずっと円満な関係を保っている。
でも、王家は貴族からの信用を蔑ろにした。王家の名を振りかざせば、正当な理由なく貶めて富や名誉を奪い取っていいという前例を作ってしまった。
イルベイズ家は強欲な金貸しだ。でも、よい付き合いができるのなら十分な恩恵を受けられる。金の卵を生む鶏は、殺さずに飼い慣らしたほうがいい。
今の王家は横暴な独裁者だ。庇護はまったく期待できず、むしろ搾取されるだけ。人肉の味を覚えた熊は、迷わず殺したほうがいい。
我が家のお客様は、何も王家に限ったことではない。商機を逃さず勝ち馬に乗るのがわたしの父様と母様、そして次期当主たる兄様だった。
民を巻き込む内乱までは始まらないとは思う。そうなる前に、現王朝の王族の男児の方々は流行病に見舞われることになるはずだからだ。有力貴族達が結託すれば、政権交代なんてあっけなく起こる。
……もし戦争なんて起きたらアシュトンが中々家に帰ってこれなくなってしまうので、ぜひ起こさないでいただきたい。
ジョズレット王子がアンネメイラを婚約者に内定していないのは、いざという時の贄にするためだろう。
実際にはなんの繋がりもないから、革命が起きた時にアンネメイラを差し出してすべての責任を負わせれば王子が負う傷は最小限で済む。
そんな末路を知りながらも踊っていたならそれはアンネメイラの自業自得で、知らなかったのならその傲慢な思い込みのせいで多くの人を振り回してきたことを後悔するべきだ。
でも、ジョズレット王子もアンネメイラも恨みを買いすぎた。こうなった以上アンネメイラ一人を差し出しても止まらないし、かといってアンネメイラだけ見逃すこともないだろう。
祖国に引き取ってもらうか、修道院とは名ばかりの収容施設に入れられるのが落とし所だろうか。それから彼女がどうなるかはわたしの知ったことではない。
「セレネ!」
不意に、ここにいるはずのない愛しい人の声が聞こえた。
ただならぬ気配を察した友達の誰かが、彼を呼ぶために使いをやったのかもしれない。宮廷魔術師の研究所は、王宮の敷地内にある。その気になれば駆けつけるのはたやすいはずだ。
「アシュトン、来てくれたのね!」
「し……心配っ、した」
脇目もふらずに駆け寄ってきたアシュトンは、わたしを強く抱きしめた。
「お、おおお茶会は、楽しい、と。…………いつも、話してくれてっ、いる……だろう?」
「ええ、そうね。お友達とおしゃべりしながら美味しいお菓子を食べるのよ。とても楽しい時間だわ」
「…………今日は、楽しかったか?」
アシュトンの問いは、この場にいる全員に聞こえている。誰もがわたしの答えを待っていた。
「王女殿下が催してくださったお茶会よ? 楽しくないわけがないわ! アシュトン、帰ったら今日のことをたくさん聞かせてあげるわね」
「……ん。それならいい。……貴女の話、っ、楽しみだ」
アシュトンは安心しきった笑みを見せ、頬に軽くキスをしてくれる。
アシュトンが傍にいてくれるなら────他の有象無象のことなんて、どうでもいいわね。
*
『親愛なるアシュトン
おはようございます。ネフィリス女王陛下の戴冠式、お疲れ様でした。
式が始まる前は雨が降っていたのに、すぐに晴れたのはアシュトンの魔術のおかげだったと聞いています。かかった虹もとても綺麗で、まるで貴方みたいだなぁと思いました。
女王陛下が即位される前に貴方と結婚できて本当によかったと思います。だって、貴方も古王朝の血を引いているでしょう?
わたしと結婚していなければ……いえ、結婚していても離婚させられて、貴方が王配に選ばれたかもしれません。実際に選ばれたのは筆頭公爵家の方なので、安心しましたけれど。
これからも、貴方はわたしだけの旦那様ですから!
セレネ』
珍しくわたしのほうが早起きだったから、ペンを取ってみたけれど……これはこれで楽しいかもしれない。
でも、誰かに手紙を書くのなんてめったにないことだ。とても緊張した。これで合っているのかどきどきしながらサイドテーブルに置く。
「ん……」
眠りこけるアシュトンが小さく身じろぎした。なんて無防備な寝顔! 好き!
「起こさない、起こさない……」
本当は今すぐ寝台に飛び込んでアシュトンのすべてを堪能したいところだけど、アシュトンは疲れているのだ。好きなだけ寝かせてあげたい。
それに、アシュトンの寝顔はとても貴重なので、時間の許す限り眺めていたかった。
大好きよ、アシュトン。起きたらたくさんお話しましょうね。貴方に伝えたいことが山ほどあるの。わたしがどんなに貴方を好きか、きちんと知ってもらいたいから。