聖ルーシャン-01-
昏く冷たい気配が足元から這い上がって、全身を雁字搦めにされる。それが錯覚だと気づいていても、振りほどけずに浅い息を繰り返していると、俺の顔色に瞠目したアガサと後ろを歩くサイラスが同時に声を上げた。
「!――キース様――!」
「…旦那様――」
と、その時。
「ああ、いらっしゃいましたか!お待ちしておりました」
「!!」
まるで吹き抜ける春風の様な暖かさを持ちながら、芯の通った柔らかい聞き心地の良い青年の声がするりと耳に滑り込んできた。途端に、今まで思考を支配していた仄暗いものが霧散する。はっとして顔を上げると、目の前から朗らかな笑みをたたえた聖職者が歩いてきた。
毛先に軽く癖のあるくすんだ金髪に淡い桃色の瞳の青年は、左腕に聖書を抱えて純白の祭服に身を包んでおり、一目で聖職者と分かるいで立ちだった。色とりどりの光が照らす堂内で、彼と彼の纏う空気だけが一際神聖なものに見える。彼はキース達の前で立ち止まると、ゆっくりとお辞儀をした。無意識に彼の名が口をついて出た。
「…モーリス」
呼ばれた青年が破顔一笑する。まさか噂の聖人とこうもあっさり出会うと思っていなかったのだろう、隣でアガサが声もなく驚愕した。
モーリス・ペイン。ラモーナ教の司祭にして治癒と狩猟の守護聖人。そして、今回アガサに合わせたかったレッドフィールド領にかかせない人物だ。
身廊の先には広間があり、さらに奥には聖職者のみが出入りできる祭壇が設置されている。本来は祈りを捧げたり儀式を行う神聖な場所だが、普段は信者や暇を持て余した近隣住民の憩いの場となっている。それでいいのかとも思うが、教会の関係者が許容しているなら口を挟むことではないのだろう。多分。
あの後、彼が俺達を案内したのはこぢんまりとした応接室だったが、掃除の行き届いた小綺麗な部屋だった。置かれた調度品は年季が入っており、よく手入れされている。新調するだけの金銭的な余裕がないのが大きな理由だろうが、長年使用していて愛着がわいているのもあるのだろう。そのあたりは質素倹約、清貧さを貴ぶ聖職者らしいことだ。三人分の紅茶が用意されたところで、モーリスが口を開いた。
「改めて奥様にご挨拶を。このルクリア=ネスェノール教会で司祭を務めておりますモーリス・ペインと申します。また、バイロン司教の代理でこの教会を預かる立場でもあります」
「ご丁寧にありがとうございます司祭様。私はアガサ・レッドフィールド。ハミルトン公爵家から嫁いでまいりましたの。こちらこそ、よろしくお願いいたしますわ」
お互い気性の穏やかな者同士、傍目にものんびりとした空気で自己紹介する二人を見ながら、テーブルに用意された紅茶に口をつける。…ふむ、このレッドフィールド領では絶対に手に入らない質の良い茶葉の香りと味。間違いない、ウィリアム君からのお土産だ。モーリスは基本的に教会からでないし、今は不在のバイロン司教は出涸らしの紅茶でも気にせず飲む様な御仁だから、彼らが購入したものではないだろう。そうなると、こんな高い茶葉の入手先と言ったらウィリアム君くらいしかうちにはいない。
「あいにく、本日グレイさんは不在でして。引き留めたのですが、『ふっ。今はまだ、その時ではないのだよ…』とかっこつけて、そのまま何処かへ…」
似ているような似ていないような微妙な声真似だな。だが、アガサが彼女と顔を合わせることが無いのなら、それに越したことはない。ほっと息を吐き出してソファーの背もたれに体を預ける。本当に危険人物だからな、あいつは。出来ればこのまま一生関わってこないでほしいが、無理だろうな。だってグレイだもんな。彼女がモーリスに残したセリフの不穏さに、俺は少しだけ痛む頭を押さえた。
「つまり、『その時』が今後、絶対に、訪れるって事か…っ!」
「訪れるのか、そういう状況を自力で作り上げるのは分かりませんが、そうなるでしょう。彼女の『目』は確かです」
グレイを擁護しようとするモーリスには悪いが、確実に意図的にだ。今頃嬉々として悪だくみでもしているのだろう。眉間をもんでため息をつく俺に、モーリスが気遣わし気に声をかけた。何故か聖書を差し出しながら。
「大丈夫ですか?あの、聖書、読みます…?」
「…いい。君は知らないかも知れないが、大体の人間は別に聖書を読んでも気分が落ち着いたりしないんだ…だから、聖書の読み聞かせは必要ない。大丈夫だ」
強い意志を持ってお断りすれば、モーリスは釈然としない面持ちになりながらも開いていた聖書を静かに閉じた。




