23話
「…もう結婚するんだし、もっと近づいてもいいんじゃないかな?」
リアからちょっと不満そうな声が聞こえてくる。いいんですけどね、近づいても。でも絶対あなた何かするでしょ?
「私に触れないなら」
ジト目でそう言うと、リアは満面の笑みを浮かべた。
「無理」
「じゃあ近づかない」
きっぱり言い放つと、そーっと手が伸びてきた。容赦なく叩き落とす。
「触れちゃダメ?」
だからその甘えたくて子犬みたいな眼差しで見てくるのやめて。
……まぁ結婚するんだし、少しくらい妥協しますか。
「手を出して」
「こう?」
言われるがまま伸ばされた手に、私はそっと自分の指を絡めた。絡めた手を、そのままソファーに下ろす。
適度な距離を保ったまま、手だけが触れ合う。リアの手は大きくて、温かくて、少し硬い。女装すると本物の女性のように見えるくせに、手はしっかりと男性のもの。そのギャップに少しだけドキッとしてしまう。少しだけね。ここ重要。
「……まぁ、いいか」
繋がれた手を見て、不満の色は残しつつ妥協してくれたリア。
その後、手をつないだまま取り留めのない話をした。紅茶が無くなるとリアは甲斐甲斐しく淹れてくれる。淹れるときは手を放すけど、淹れ終えればすぐにつないでくる。
…なんというか、私はこっちのほうが好きかもしれない。リアから触れられるのは嫌いじゃないけど、だからといってべたべた触れられるのはなんか違うなって感じる。繋いだ手で感じるリアの体温、気配みたいなものがじんわり伝わってくる。手だけで伝わるからこそいい、ような感じ。
リアの用意した茶菓子と、陛下から頂いたクッキーも食べ尽くしたころ、窓の外の陽が傾き始めた。そろそろ帰り時ね。
「そろそろ帰るわ」
「泊っていこうよ」
「さようなら」
にべもなく別れの挨拶を告げて手を放すと、リアは焦ったように手を掴んできた。
「せ、せめて見送らせてほしい……な?」
最後の「な」の部分がずいぶん気弱だった。もしかして本気で「さようなら」されると思ったのかしら?そういうつもりじゃなかったけれど、ちょっとフォローしておく必要はあるかも。
「見送りくらいはしてもらわないと困るわ」
そう言って微笑みかけたら、驚くほどの笑顔になった。……ちょろいと思ったのは秘密。 手は掴まれたまま、扉の前まで来た。リアが取っ手に手を掛けた瞬間。
「リア」
「何……!?」
名を呼んで顔がこちらを向いた瞬間、私は彼の顔に自らの唇を寄せ……頬にそっとキスをした。触れたのはほんの一瞬。離れれば驚きに染まったリアの顔。いくら頬にとはいえ、やっぱり恥ずかしいわね… 赤くなる頬を誤魔化すように笑みを浮かべつつ、固まったままのリアを放置して、扉を開けた。
扉を開ければもう二人の時間は終わり。私はシュバルツ王子の婚約者で、リアは婚約者の弟という立場。外ではまだお互いがこの立場。……なお、さっさと扉を開けたのは、少しでももたつくと何を勘違いするか分からないリアに、部屋に連れ戻されるのを危惧したから。自分でやっといてなんだけど、さすがにその…婚前交渉をするのはまずい。でも、リアがその気なのはいくら私でも分かる。明らかに親しい男女のスキンシップは越えてることくらいは。
「行きましょう、ジュリアン王子」
そう言って固まったままのリアに声を掛ける。ジュリアン呼びに意識を取り戻したリアは、外面用の笑みへと表情を変えた。
「ええ、行きましょう、アリス嬢」
そう言ってリアが前に、私はその後ろに。あくまでも知り合いの立ち位置に。
…まぁ、男女が二人っきりで部屋にいたり、そもそも部屋に入るまでは腰を抱かれててそれを見られたりしてたんだから今更感はすごいけど?
そんな私たち二人を、ずっと遠くから見つめる眼があったことに、私は気付かなかった。
王宮の入り口までリアに見送られ、屋敷への帰路に着いた。
屋敷に辿り着くと既に両親がおり、さらに私とリアの結婚の話も伝わっていた。陛下から直々に文面で連絡されていたらしい。…ついでに言えば、実は事前にリアから両親に直々に結婚の申し込みをする旨の話をしていたとか。私が別荘から帰ってきた日に、リアと両親が話をしていたのは実はこのことだったらしい。もはやリアの中では、私との結婚は決定事項だったみたい。
私の結婚が決まった。けど、リアを婿として迎えることになり私自身は大きく変わる必要性は無い。もちろん結婚すれば侯爵夫人になるわけで、しかも相手は元とは言え王族。何かしらの変化はあるだろうけど、それは今度リアと話し合えばいいと思う。
夫人。夫人かぁ……
(面倒……って思っちゃだめかしら)
世に言う夫人といえば、茶会を定期的に開催し、情報を集め、必要とあらば夫に進言する。屋敷の中を取り仕切る。
それで言えば、お母様はまさに侯爵夫人。宰相でもあるお父様を支え、時には叱咤する様はまさしく夫人の鑑とすら言える。
「はぁ……」
怒涛の1日ももうすぐ終わりを迎えようとしていた。夕食も終え、湯あみも済み、あとはもう寝るだけ。だけど、今更ながらに自分の選んだ道の険しさに知らずため息が漏れた。
(根っからの庶民になっちゃったわね…)
前までの図太い自分が、今更ながらに羨ましいと思った。(悪い意味で)貴族然としていた自分。あの頃の自分のままだったら、こんな状況でも堂々としていられたのかしら?……いやそれ以前に、あの頃のままの自分じゃリアが結婚してくれるなんてことがまずありえないわね。それに、王族をやめるリアに嫁ぐことを恥ととるかもしれない。
そう思えば、今の私だからこそ今がある。だとすれば、今のこの庶民精神のままでいいのかもしれない。そうよね、もう今更もとに戻れないし、私も変えることもできないし…多分、変えなくてもいいと思う。
なんとなく自分の中で心の整理がついたとき、珍しく扉がノックされた。
「お嬢様、夜分遅くに申し訳ございません。その…」
「どうしたのかしら?」
扉の先に侍女がいる。もう既に彼女らの今日の役目は済んで、休んでもいい時間帯。一体何の用事だろうと、腰を浮かせた。
「お嬢様に来客が来ております」
「…来客?こんな時間に?」
「はい」
あらためて窓の外を見る。陽はとっくに沈み、寝ていてもおかしくない時間だ。それに来客の予定は聞いていない。あまりにも常識外れ…というか無礼ね。誰が来たのか、その答えに私は頬を引きつらせた。
「こんな時間に訪れたこと、深く詫びよう」
「いえ……」
既に寝間着に着替えていた私。本来なら人前に出られる姿ではなく、着替えてからいきたいところだったが、待たせている相手が相手だけにそれもできず、仕方なく厚手の上着を羽織って少しでも寝間着が見えないようにして応対に出るしかなかった。
来訪した客は……シュバルツ王子だった。
シュバルツ王子は昼間とは打って変ってずいぶんと…こう、控えめだった。だけど、昼間の件は既に両親の耳にも入っている。あれほど私に執心する様子を見せた相手がこんな時間に訪れたのを、警戒しない両親じゃない。私の両脇をお父様とお母様が挟み込むように座り、背後には腕利きの侍従も数人控えている。一方、シュバルツ王子は護衛が二人いたが部屋の外で待機している。…もちろん、その護衛に、ハゲスト家の護衛が睨みを効かせている。
「昼間の件は本当に済まなかった」
唐突に、シュバルツ王子は頭を下げた。その様子を、私は訝し気に見ていた。庶民…それも前世の庶民精神が根付いた私は、どうやら王族が頭を下げることに違和感を感じないようだ。まぁお偉いさんが頭を下げる光景はテレビとかでよく見てたしね。まぁ問題はそこじゃないとして。
どういうこと?まさか謝罪のためだけにこんな時間に訪れたとでも言うの?はっきり言って、シュバルツ王子のことは全く知らない。こういうことをする人間であると、否定も肯定もできない。
王子の行動を疑問に思い、警戒を解かないのは両親も同じだった。どうやら王子はこんなことをする人間ではないらしい。
どうする?ここはまず王子の謝罪を受け入れた方がいいのかしら?頭を下げる王子から視線を外し、お父様を見上げると、お父様は厳しい表情のまま頷いた。
「謝罪を…お受けします」
少し声が震えたけど、それでもちゃんと声は出せた。
するとシュバルツ王子はすぐに顔を上げ、ほっとした様子の表情を見せた。…けれど、その眼に言い表せない不安を感じさせる光を見た。知らず羽織った上着を抱き寄せてしまう。
そこに王子の視線が向いた。見え隠れする私の寝間着を見定めようとするような……以前にも感じた、劣情を感じる眼。その眼に気付いたお父様が、自分が着ていた上着を私に羽織らせてくれた。ありがとう、お父様。
その光景に、王子の目が一転、劣情から激情を感じさせる眼に変わった。けど、すぐさまその眼を和らげていた。
「わざわざこんな時間に、謝罪のためだけに王子にご足労いただきありがとうございます。今日はもう遅い。早くお帰りにならないと王子の身が危ないですぞ」
言外に早く帰れと滲ませるお父様。
「すまんな宰相。政務をこなしていたらすっかりこんな時間になってしまってな。謝罪は早くしなければとつい気が逸ってしまった。許してくれ」
「いえ」
「だが宰相の言う通りだ。このような闇の中で帰るのは確かに危険だ。ここは済まないが、一泊泊めていただけるだろうか?」
その王子の言葉に私は背筋が震え、お父様は苦虫を噛み潰したかのような顔になった。
シュバルツ王子の狙いはそれだった…!?お父様の言葉を使うことで屋敷に泊まらせることを了承させる。
この屋敷の主人はお父様だ。泊めるか否かの権限は宰相でもあるお父様にある。だけど、相手はその内心にどんな思惑があろうとも王子に間違いない。万が一でも、本当にこの夜の闇の中で夜盗にでも襲われ被害を受ければ、非難は免れない。いくら宰相という立場であっても、この対処は難しい。
「……分かりました。しかし、今からでは客室の準備はろくにできません。幸い、離れのほうがたまたま準備が整っておりますので、そちらをお使いください」
「いや、こちらが無理を言っているのだ。準備できておらずとも問題ない。この中でよいぞ」
「いえ、王子を相手に粗末な部屋を使ってもらうわけにはいきません。護衛の方々と、そちらでゆっくりお休みください」
本邸に泊まろうとする王子。離れに泊まらせようとするお父様。二人の駆け引きはしばらく続いたけれど、なんとか王子が折れることで決着がついた。




