32、それが王のお気持ちですか
「なんとか、間に合いましたね。まさか、国境の川が、こんな時期に氾濫するとは思いませんでした」
フリッツ様の言葉に、ルードルフ様が頷きます。
「雨の季節でもないのに、不思議だったな」
わたくしたちがトゥルク王国に辿り着いたのは、なんと結婚式の前日でした。
国境の川の氾濫で、予定が大幅に狂ってしまい、ようやくたどり着いたのです。
「でも、無事でなによりですわ」
宮殿の来賓室のフレスコ画を懐かしく眺めながら、わたくしはそう言いました。
「殿下と妃殿下にお怪我がないのは何よりです」
騎士のクリストフに、わたくしも頷きます。
「ありがとう、周りの村への影響も少なそうで安心しました」
と、天井部分の絵を見上げていたルードルフ様が、独り言のように呟きました。
「氾濫が神の意思なのか、治まったのが神の意思なのか、興味深いところだな」
どういうことでしょうか。
わたくしが問い返そうとしましたら、トゥルク王国の案内が現れました。
「お待たせして申し訳ございません。ゾマー帝国皇太子夫妻様ご一行、こちらへどうぞ」
わたくし以外の皆様は、すぐに立ち上がり動き出そうとしましたが。
わたくしは思わず、口を開いてしまいました。
「ヤツェク様?」
「はい」
案内に来てくださったのはヤツェク様でした。ヤツェク様は深々とお辞儀をします。
「ヤツェク・リーカネンと申します。トゥルク王国の宰相を務めさせていただいております。皇太子妃様におかれましては、父エドガーの頃よりのお付き合い、光栄至極に存じております」
「代替わりされたのですね……」
「そうでございます」
前宰相はまだ引退する年齢でもなかったので、なにかあったのかと気になりましたが、わたくしが聞けることではございません。
「滞在中、なにかとお世話をおかけします」
「至らぬところありましたら、なんでもお申し付けください」
そんなやりとりをして、ヤツェク様の後をついて移動しました。
執務が大変なのか、ヤツェク様はげっそりとやつれた様子です。目が落ち窪み、顔色もよくありません。
大丈夫でしょうか。
そんなわたくしの隣に、ルードルフ様がぴったりとついて歩いております。
わたくしたちは、各国の要人が訪れた際に宿泊する離宮に通されました。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ヤツェク様にお客様扱いされる居心地の悪さを、払拭して答えます。
ところが。
「エルヴィラ様はこちらの続き部屋の半分を、ルードルフ様は、あちらの続き部屋の半分をお使いください」
わたくしとルードルフ様は、部屋を離されてしまいました。
そんなことは今までにありません。
差し出がましいと思いましたが、わたくしは思わず口を挟んでしまいました。
「どういうことですか? このような場合、同じ続き部屋を使うのが慣例でしょう」
違う続き部屋を半分ずつ使うだなんて聞いたことがありません。
ヤツェク様は表情を変えずに、言います。
「続き部屋ひとつだと、広さが十分でないので、このようにせよとの王からのお達しです。おもてなしの一環として受け止めていただければ、幸いです」
ルードルフ様に失礼ではないかとわたくしが眉を寄せると、ははっと闊達な笑い声が響きました。
振り返ると、ルードルフ様が面白くてたまらない、という顔をしていました。
「なるほど。それが王のお気持ちですか」
ルードルフ様はクリストフに目で合図をしてから、仰います。
「おもてなしを受け入れましょう。ただし、エルヴィラにはこちらの護衛をつけさせてもらいますよ」
「もちろんでございます」
ヤツェク様は一礼しました。そして。
「お疲れでなければ、今夜、食事をご一緒に、と王が申していますが」
ルードルフ様は首を振りました。わたくしはこれにも驚きました。
「申し訳ないが、私もエルヴィラも疲れている。明日、結婚式の後改めてご挨拶すると伝えてくれ」
かしこまりました、とヤツェク様はすんなりと受け入れます。
なんだか異例続きの訪問です。
それでも、やはり懐かしさは込み上げてきて、わたくしは用意された部屋でしばらく、くつろぎました。
窓から見える景色は、確かにトゥルク王国のものです。
部屋に食事を運んでもらい、顔見知りのメイドと束の間の再会を喜び合うなどしておりましたら、その日はすぐに暮れました。
明日も早いのでもう休もうとしていましたら、クリストフが何人かの騎士を連れてきて、言います。
「エルヴィラ様のお部屋と廊下の不寝番は、我々がいたします」
と、それを聞いたトゥルク王国の護衛騎士が反論しました。
「我々も皇太子妃様を守る命を受けておりますので」
「それはそうだろう。だが、一番近くは我々が護衛する。エルヴィラ様はゾマー帝国の皇太子妃様なのだから」
トゥルク王国の騎士たちは困った様子でしたが、最終的にはゾマー帝国の騎士たちにわたくしの部屋を任せて、外を守ることになりました。
それだけならわかるのですが、クリストフは突然頑丈な閂を取り出したので驚きました。
「続き部屋の鍵を、こちらからかけさせていただきます」
そして、向こう半分に続いてる部屋の扉を開かないようにしたのです。
「いつからそれを用意していたのですか?」
思わず聞いてしまいました。クリストフは誇らしげに答えます。
「こんなこともあろうかと、ゾマー帝国から持ってきました」
「ルードルフ様の仰せですか?」
「はい」
こんなこともあろうかと?
ルードルフ様は、この状況を予想していたのでしょうか?
なんだか、不思議なことばかりで、その日は夜具に入ってもなかなか眠れませんでした。
久しぶりの母国に、興奮しているのもあるのかもしれません。
と、廊下で何か物音がしました。
「エルマ?」
わたくしは隣の部屋にいるエルマを呼びました。
「はい、エルマ、ここにいます」
エルマはすぐに来ました。
「なにか音がしたようだけど」
「それでしたら大丈夫だと、クリストフ様が仰っております。鼠が出たようだが追い払ったとお伝えくださいと承っております」
「そうなの?」
離宮に鼠なんていたかしら?
なんだかよくわからないまま、もう一度眠ろうとしましたら、今度はエルマから声がかかりました。
「エルヴィラ様、あの」
「どうしました?」
「ルードルフ様がこちらにお出でです」
「は?」
お通ししますね、とエルマが言うのとほぼ同時に扉が開きました。
「エルヴィラ、失礼するよ」
ルードルフ様がわたくしの寝室にいらっしゃいました。