第21章 彼女の一番長い夜
理真は、すぐに冷静な表情に戻り、
「もちろん、よく晴れた夜中のこと、入浴客たちは満天の夜空にばかり目を奪われて、わざわざ崖下などには見向きもしない可能性も考えられる。死体が、その日の入浴利用時間が終わり清掃に入った従業員によって発見されたことから、事実、入浴客の誰からも死体は発見されずに済んだ。でも、そのときの熊林さんにしたら、そんな可能性に賭けるわけにはいかなかった。一刻も早く死体を何とかする必要があった。そのためには、即刻露天風呂を上がって、旅館の裏手に回る必要があるけれど、そこまで到達するのに何十分消費するか知れたものじゃない。しかも目的地は、初めて来た土地の林の中で時間は真夜中。迷うなどして無用な時間を浪費してしまう危険も考えられる。とりあえず熊林さんは、崖下を覗き込むことが出来る唯一の場所、湯船の一番奥に陣取り、他の入浴客の目に死体を触れさせないでおく処置をとった」
昨夜、私たちが天空露天風呂に入ったとき、熊林は、理真が今言ったように湯船の一番奥にいて、私たちが出るときも、ずっとその場所から動かなかったことを憶えている。ということは、その時点で椎谷は転落死しており、崖下には死体がすでに転がっていたという可能性が高い。
「そうしているうちに」と理真は続け、「熊林さんの脳裏に閃いたのね、何十分もかけることなく、しかも、絶対に迷うことなく死体のある場所まで行ける最短距離があることが。熊林さんは、露天風呂に自分以外誰もいなくなった時間を見つけると、即座に動き、その最短距離を使って死体のもとに辿り着いた」
「その最短距離というのは、もしかして……」
丸柴刑事が呟くと、理真は頷いて、
「そう、熊林さんは、湯船の縁を乗り越えて崖を下っていったんだよ」
私は、ごくりと唾を飲み込んだ。確かに最短ルートだ。しかも、絶対に迷いようがない。露天風呂で見た熊林の裸体を思い浮かべる。長身で、程よく筋肉がつき均整の取れた体つき。彼女なら、あの崖をフリークライミングで降りることも不可能ではないだろう。照明となるものは月明りだけで心もとないが、慎重に、手探り、足探りで行けば。私は理真の話に耳を戻す。
「崖下に辿り着いた熊林さんは、死体の処理に取り掛かる。とはいっても、死体を移動させて他の場所で死んだように見せかける、なんていう手は使えない。大人ひとりの死体を運搬するなんて、大変な大仕事だからね。しかも、現代の法医学を持ってすれば、死体が動かされたことは容易に看破されてしまうし、熊林さんが気付いていたかは分からないけれど、転落した岩肌の椎谷さんが後頭部をぶつけた箇所には、はっきりと血痕も残ってたしね。
でも熊林さんは、絶好の死体の処理方法を思いついていた。それを思いついたからこそ、危険を背負って裸で崖を下りるなんていう荒技もやる気になったんだろうね。その方法っていうのが、椎谷さんの死体から服をすべて脱がせて全裸にすること。あの崖下で裸の死体が発見されたら、どう思われるか。それはもう、入浴中に誤って転落してしまったんだと、こう考えられること間違いない。熊林さんにとって恐れるべきは、須仁田ミーシャこと椎谷さんが転落死した理由が、“女湯を覗こうとしたことによるもの”だという不名誉を看破されることにあった。入浴中の事故死であれば、作家の名前に傷がつくことは回避できる。その工作の目的、すなわち、入浴中に転落死したことに信憑性を持たせるために、熊林さんは崖を下りる前に、いったん脱衣所に駆け込んでバスタオルを持って来ると、それをたっぷりと湯に浸し、肩に掛けてから崖を下りた。椎谷さんの体を濡らすために。いくら死体を裸にしたって、体や頭髪がからからに乾いた状態だと、“本当に温泉に入っていたのか?”と疑念を持たれてしまう恐れがある。少なくとも数時間は死体は発見されないという保証でもあれば、転落してから温泉水は乾いたんだと思ってもらえる可能性もあるけど、その段階では、死体はいつ発見されてもおかしくない状況にあったからね。全裸で温泉水に濡れた死体が湯船真下の崖下に転がっていれば、これはもう、誰が見ても入浴中の転落死と捉えてもらえる」
あっ、と丸柴刑事と私は同時に声を発した。これで、椎谷の死体にまつわるすべての謎が解かれたことになる。硬い岩肌を転がって転落死したにしては外傷が少なかったのは、転落時は服を着ていたため。死体だけでなく、その周辺の地面も濡れていたのは、上で濡れたバスタオルを絞るという手段をとったことにより、死体だけをピンポイントで濡らすことが出来なかったため。
「死体への工作を終えた熊林さんは、椎谷さんから脱がせた服を着て現場を去る。その際には当然、服だけでなく、部屋の鍵や携帯電話といった、椎谷さんが所持していた物品もすべて回収することも忘れない。でも、現場での仕事は無事終わっても、まだやることは残っている」
「なに?」
私が訊くと、
「脱衣所に戻ることだよ。熊林さんは脱衣所に自分が着てきた服――おそらく浴衣――と、さらに貴重品ボックスに部屋の鍵を残してきてしまっている」
「そうか!」
「浴衣を着て鍵も持ったうえで崖を降りるということも当然考えたんだろうけど、濡れた体に浴衣を着たら肌に張り付いて極めて動きづらくなるし、いつ脱衣所に客が入ってくるか知れない状況だから、体を拭いて乾かす時間も惜しい。素手で崖を降りるなんていう仕事は両手両脚をフルに使う必要があるから、鍵を持ったまま行うなんて無理。口に咥えるのも落としてしまう危険が高いしね。だから熊林さんは、死体を濡らす工作のため絶対に必要になるバスタオルを持ち出すだけで精一杯だった」
「なるほど」
「さらには、椎谷さんを入浴中の事故死に見せかけるためには、彼自身が着てきた浴衣を逆に脱衣所に残す必要もあるから、どのみちもう一度脱衣所には戻ってこなきゃいけない。自分の残した浴衣を、そのまま椎谷さんのものと思わせることは出来るわけないからね。だって、脱衣籠の中には、浴衣だけじゃなくて下着も残されているから」
「そりゃ、そうだ」
「で、死体への工作を終えたあとの熊林さんの行動をなぞると、次のようになる。
林を抜けて旅館に戻った熊林さんは、椎谷さんが身につけていた鍵を使って椎谷さんの部屋に入り、浴衣と下着と、タオルなどの入浴用具一式を持ち出す。ここで使う下着は、現場で死体から脱がせたものを使ったんだろうね。着替え用の下着だと着用した痕跡がなくて怪しまれるしね。当然、その下着は熊林さんは着用せず、懐に入れるなりしてそのまま持って来た。浴衣も、さも一度着用済みに見せかけるため、一度自分で着てみたのかもね。もちろん、頭髪なんかが付着しないよう細心の注意を払って。死体を濡らすために使ったバスタオルは、いったんそこに置いておく。で、脱衣所へ戻るわけだけれど、ここで、その時点での時間が何時だったのかが問題になる」
「どう問題になってくるの?」
「露天風呂が女湯か男湯かで、脱衣所に入る際の格好を変える必要があるからだよ。もし、その時点で零時前、つまりまだ女湯の時間帯だったら、何も恐れることはない。そのまま脱衣所に行って、脱衣籠から浴衣を、貴重品ボックスからは自分の鍵と椎谷さんの鍵とを、それぞれ入れ替えるだけでいい。入浴はせずに脱衣所を出て行くことになるわけだけど、部屋に何か忘れものをした、みたいなふうを装えば怪しまれることもないだろうしね。でも、時間が零時を回って、すでに男湯に切り替わっていたら」
「女性の熊林さんでは、入ることは不可能」
「そう。で、実際に時刻は零時を回っていた。だから熊林さんは、椎谷さんから脱がせた服を着たうえで、さらに帽子をかぶって髪を押し込み、マスクを着用して顔を隠す。そうやって男性に変装して脱衣所に行かなければならなかった。熊林さんは背が高いから、男性に成りすますことも難しくなかっただろうね。で、椎谷さんの部屋を出る際には、ドアにストッパーを噛ませて完全に閉じないようにしていくことも忘れない」
「どうして?」
「この旅館のドアはオートロックだから。最終的に、今自分が着ている服は椎谷さんの部屋に戻して、椎谷さんの部屋の鍵は脱衣所の貴重品ボックスに中に残していくことになるんだよ」
「そうか、鍵を持たずに椎谷さんの部屋に戻ってくることになるわけだから、ドアを閉めてしまったら、オートロックが利いて部屋に入れなくなる。すなわち、椎谷さんの服を部屋に戻せなくなってしまうと」
「そういうこと。脱衣所に入る際も、なるべく人の少ない隙を狙ったんだろうね。首尾よく、浴衣と鍵とを、それぞれ入れ替えることに成功した熊林さんは、誰にも怪しまれることなく脱衣所をあとにする。服を着ているのに浴衣を持っているという状態は、端から見たら変に思われる可能性があるので、浴衣は上着の下に隠してたんだと思う。一連の仕事をやり終えて安堵した熊林さんは、脱衣所から戻る途中、動き回ったことにより暑さを感じて帽子とマスクを外す。ここまで来たらもう男性の振りをする必要もなくなったわけだしね。そこを……」
「あっ! 宗くんたちに目撃された!」
理真は頷いて、
「このときの熊林さんの服装は全身黒ずくめだった。それがすなわち、椎谷さんが崖を上る際に身につけていたものだということは、暗闇に紛れるためという目的でその服装をチョイスしたんだと考えられる。ひいては……」
「椎谷さんの目的は、人目をはばからなきゃならないような、やましいこと」
「うん。ちなみに、宗と長谷川くんが熊林さんを目撃したのは、零時半過ぎだと言ってた。熊林さんがこれまでの一連の作業を完了させるためには、一時間はかかるはず。ということは、熊林さんが椎谷さんの死体に工作をするために崖下に下りたのは、十一時半頃ということになる。私と由宇、唐橋さんが夜の露天風呂に入ったのは十時半頃だったから、それから一時間も、熊林さんは湯船の一番奥に陣取り、崖下の死体を他人の目に触れさせないようにしながら、露天風呂に誰もいなくなるのを待っていたわけだね」
私はため息を漏らした。一時間も温泉につかり続けるとは。私ならのぼせてしまうだろう。理真も同じことを考えたのだろうか、大きく息を吐いてから、
「椎谷さんの部屋に戻った熊林さんは、着ていた椎谷さんの服を戻し、自分の浴衣に着替えてバスタオルも持って部屋を出る。ドアはオートロックだから勝手に施錠される。こうして全ての工作を終えた熊林さんは、ようやく自室に戻った。あとは、誰かが死体を発見したときに備えて受け答えのシミュレーションを考えておくだけ。椎谷さんが自分と一緒にチェックインしたことは従業員が憶えているだろうから、必ず死体の身元確認のために呼ばれることは分かっていたからね。で、この身元確認作業のことを考えているうちに、熊林さんの頭の中に、もうひとつの計画が浮かび上がってきたんだと思う」
「計画?」
私が訊き返すと、
「そう。熊林さんが椎谷さんの死体に工作を施したのは、ひとえに作家、須仁田ミーシャの醜聞を隠蔽するためでしょ」
「そうだね。女湯を覗こうとして事故死したなんて、絶対に知られたくないはずだもんね」
「熊林さんの目論見としては、九時から零時までの露天風呂が女湯になる時間帯の前後、六時から九時と、零時から三時。このどちらかの時間帯で椎谷さん、すなわち、須仁田ミーシャは転落死してしまったんだ、という結論を警察に出してもらうのが理想なわけだけれど、詳しく捜査することによって、その結論に達しなくなるかもしれない。実際、私たちは入浴中に人が転落したなんて事故が起きたら、居合わせた入浴客が気付かないはずがないと考えて、お客さんに片っ端から聞き込みをかけたわけじゃない。もし、その結果、六時から九時と、零時から三時、この二つの時間帯で事故死の可能性が否定されたとなったら、違った方面からの捜査が行われることになる。それで女湯を覗こうとして事故死したという結果に行き着くかはまた別だけど、そうなったときに備えて、熊林さんは第二段階の工作を実行することにした」
「あ、それが……」
「そう、須仁田ミーシャが覆面作家であることを利用して、自分と椎谷さんが入れ替わること。もし、事故死した男が女湯の覗き目的の末に死んだのだいう結論が導き出されたのだとしても、その当人が作家本人とマネージャーとでは、名前が被る被害には大きな差が生じる。すべては秘書がやったこと、じゃないけど、犯人がマネージャーなら、作家は監督不行届の謝罪をすれば済む話だからね」
「なるほど……。でも、これほど堂々と入れ替わりをやってのけたということは、もしかしたら、須仁田ミーシャこと椎谷保巳さんは、編集者を始めとした出版関係の人にはいっさい顔を合わせずに、打ち合わせなんかには、いつもマネージャーである熊林さんを代理に参加していた可能性もあるね」
「でも、印税が振り込まれる口座や、納税の履歴を調べれば、須仁田ミーシャとして活動していたのは椎谷さんのほうだと、すぐに分かっちゃうわけだし」
「そうか」
現代においては、こういった社会生活を営む上での規則とその記録によって、あるいは、DNA鑑定による個人識別技術で、社会的にも物理的にも、誰かが他人に成りすますという犯罪はほぼ成立しえない状況になっている。無味乾燥というか、情緒が失われた世界になったともいえるが、それだけ社会が健全で、世の中の仕組みが完成されているということなのだから、歓迎すべきことであるのは確かだ。
「でも、これだけの危険と手間をかけたわけだから、彼女の“須仁田ミーシャを醜聞から守りたい”という気持ちは本物だったんだと思う」
理真のこの言葉には私も賛同する。もし熊林が、椎谷が事故死したことを利用して自分が須仁田ミーシャに成りすまし、椎谷の財産を我がものにしようという動機だけで動いていたのであれば、死体を裸にして入浴時の事故に見せかける必要まではないはずだ。それこそ“マネージャーの不祥事”として謝罪するだけでいいのだ。私も理真の言ったとおり、“須仁田ミーシャが女湯の覗きを行っていた”という事実をまず抹消することが、彼女の第一義だったのだろうと思う。それは、とりもなおさず、熊林自身が、須仁田ミーシャの作品と、それを読んでくれる読者のことを大切に思っていたから。
「さて……」残りのお茶を一気に飲み干した理真は、「その辺の事情も含めて、熊林さんに話を訊きに行こうか」




