第2章 運命の選択事件 中編
「さあ、選びたまえ!」
ネコカガミモチは、カウンターに並べられた三枚の札を示す。それを横目に宗が、
「うるさい! 俺はこんな茶番に付き合わな――」
「『A』!」
宗を無視して、唐橋知亜子が叫んだ。
「おい!」
「こら!」
宗と尚紀は即座に反応して突っ込む。
「『A』か……」
ネコカガミモチは、知亜子が選択した『A』の札を、そっと宗たちの方向に押しやり、
「本当に、これでいいのか?」
「なに?」
確認され、思わず宗は着ぐるみの顔を見た。
「本当に、これでいいのか……ニャ?」
「今さらネコ語?」
「いいわ」
尚紀が突っ込み、知亜子は選択を変えない。
「ふっふっふ……」
ネコカガミモチは、幾分声のトーンを落として不気味に笑うと、
「あっ!」
「何を!」
「まさか!」
次の行動を目撃した三人は驚愕した。ネコカガミモチは何と、知亜子が選ばなかった二枚のうち『B』の札を手に取り、くるりと半回転させたのだ。そこには、表面と同じく白抜きされた『ハズレ』の文字が躍っていた。
「お前! どういうつもりだ?」
宗が食ってかかるが、ネコカガミモチは表情ひとつ変えずに(着ぐるみなので当たり前だが)、
「変えるか?」
「えっ?」
「変えてもいいんだぞ」
「……何を?」
「今からでも、『C』に変えてもいいと言っているんだ」
「――!」
呆気に取られて声も出ない三人を前に、ネコカガミモチは、「フッフフ……」と笑みを漏らすと、
「これぞ、古町商店街流奥義『モンティ・ホール・ジレンマ』!」
「お、奥義だとぉー?」
「な、何だそりゃあー!」
宗と尚紀が驚きの声を上げる横で、知亜子は、
「……『モンティ・ホール・ジレンマ』。そういえば聞いたことがあるわ」
「な、なにー?」
「し、知っているのか、唐橋ー!」
「『モンティ・ホール・ジレンマ』
挑戦者が賞品獲得を目指す、アメリカのテレビ番組『Let's make a deal』の司会者モンティが、ある挑戦者に仕掛けた駆け引きのこと。
挑戦者の前には『A』『B』『C』三枚のドアがあるが、賞品が隠されているドアはひとつだけであり、残る二つはハズレとなっている。この状況において、挑戦者がドアAを選んだところ、司会者のモンティは、残る二枚のドアのうちドアBを開け、それがハズレであることを開示したうえで、挑戦者に『ドアCに変更しても構わない』と告げたという。
このことが1990年に雑誌『パレード』のコラムで紹介されるや否や、『ドアを変更した場合と変更しなかった場合、当たりを引く確率が高くなるのはどちらか?』の問題をめぐり、多くの読者、数学者らを巻き込んだ論争に発展した。
なお、ドアAのまま変更しなければ当たる確率は当然3分の1だが、ドアCに変更した場合、その確率は3分の2になる。よって、『ドアを変更したほうが当たる確率は高くなる』が正解である」
「……民明書房刊『賭博拳法録 渦威寺』より」
「違うから。民明書房じゃないから。ネットで調べたから」
知亜子は自分のスマートフォンの画面を宗に向けて突き出す。
「つ、つまり」と尚紀が、「『C』に変更したほうが、当たる確率が高くなるってことか?」
「そうよ」
「……何で?」
尚紀は宗の顔を窺い見た。宗は腕組みをして胸を張り、
「……そんなこと俺が知るか!」
「おい!」
はぁー、と額に手を当てた知亜子は、
「いい? 最初の段階では『A』が当たりの確率は3分の1だよね」
「異論なし」
「それくらいは俺にも分かる」
宗と尚紀が頷いたことを確認すると、知亜子は続けて、
「ということは、残り3分の2は『B』か『C』のどちらかが当たりの確率ってことになるよね」
「……ぬう」
「……お、おう」
宗と尚紀の顔色が怪しくなってくる。
「でも、司会者が今まさに、『B』と『C』の二つのうちの『B』はハズレであると開示してくれたわけだから、3分の2で当たる確率は『C』ひとつだけがそっくり受け継ぐってわけ。どう?『A』が当たりの確率は3分の1だから、何と、倍になったでしょ」
「……」
「……」
宗と尚紀は神妙な表情で顔を見合わせた。
「……あのね」と、知亜子は小さく嘆息してから、「三択で数字が小さいから分かりにくいんだよ。じゃあさ、もしこれが、百択だったら、どう?」
「ひゃ、百択?」
尚紀が頓狂な声を上げると、うん、と知亜子は、
「私が『1』を選んだとするよね、そうしたら、司会者は『2』から『99』までの98枚の札を一気に開けて、その全部がハズレであることを開示するの。で、最後に残った『100』の札に変えてもいいよ、と告げる。これならどうする?」
「……変えたほうがいいに決まってる」
「ああ。確率の計算云々関係なく、直感で分かる」
「でしょ」知亜子は、にこりと笑うと、「というわけで、私は『C』に変え――」
「待った!」
『C』の札に伸びかけた知亜子の手を、宗の声が止めた。
「な、何?」
「宗、お前、今の説明で理解したんじゃなかったのか?」
知亜子と尚紀は怪訝な顔で宗を見る。その宗は真剣な表情で、
「確かに、唐橋が解説してくれたように、この場合『C』に変えた方が当たる確率は高くなることは間違いないだろう」
知亜子と尚紀は、そのとおりだ、とばかりに深く頷く。
「でも、それは」と宗は、「あくまで確率上だけでの話だよな」
「……えっ?」
知亜子は伸ばしかけていた手を引っ込めた。
「この問題に挑むには、確率上だけでは計れない、ある要素のことを無視は出来ないと思わないか?」
「……その、要素って何だ?」
尚紀が首を傾げると、
「司会者の思惑、だよ」
宗は知亜子と尚紀を見てから、その鋭い視線を司会者、すなわちネコカガミモチに向けた。
「司会者の思惑?」
「どういうことなの?」
尚紀と知亜子も、鏡餅の体に猫の頭部を持つ怪人に目を向けた。着ぐるみの奥で『中の人』の目が光り、三人を見返した、ような気がした。
「このゲームの司会者は」と宗は、「三枚の札のうち、どれが当たりかを知っていることになる。でなければ、『B』がハズレだと開示できるわけがないからな」
「確かにそうね。司会者が当たりの場所を知っているという要素は、『モンティ・ホール・ジレンマ』が成立するための絶対条件のひとつ」
知亜子は頷いた。ああ、と宗は、
「であれば、司会者が挑戦者に、ハズレを引かせるために『モンティ・ホール・ジレンマ』を仕掛けてくるということも考えられるんじゃないか?」
「あ!『モンティ・ホール・ジレンマ』を逆に利用するってことね!」
「ど、どういうことだ?」
尚紀の疑問に、宗は、
「もし、唐橋が最初に選択した『A』が当たりだったとしたら、どうだ? その可能性は十分にあり得るだろ。3分の1なんて、そんなに低い確率の博打じゃないからな。唐橋が当たりである『A』を選んだことで、俺たちにハズレを引かせたいと考えていた司会者は、最初に選択したものから、もう一方に選び直すほうが当たる確率が上がる『モンティ・ホール・ジレンマ』という現象があることを俺たちに教えて、ハズレである『C』を引き直させようとした。唐橋がハズレを引いた場合は、当然そんな余計なことはしないで、すぐに札を開いていた」
「……うっ」
「司会者の……思惑……」
尚紀は息を呑み、知亜子は唸った。ああ、と宗は、
「司会者は『B』がハズレだと開示したあと、本来であれば『モンティ・ホール・ジレンマ』がどんなものかを俺たちに教えようとしていたんだろう。『B』がハズレだと開示したあと、わざわざ『モンティ・ホール・ジレンマ』なんていう名称を言ってきたからな」
「だが、たまたま唐橋がそれを知っていて、説明を受けるより早くスマホで検索したってわけか」
「そうすることを期待していたのかもしれない。その方が自然だからな。で、俺たちが何もしなかった場合には、自分から解説をしていた」
「そして、『モンティ・ホール・ジレンマ』に従えば、選択を変更したほうが当たる確率が高くなるということを知った俺たちが、ここぞとばかりに『C』に変えるのを、こいつは手ぐすね引いて待っていたと?」
「……まだそうと決まったわけじゃない。今俺の言ったことは、全て俺自身の憶測に過ぎない。そういう可能性もあるってだけだ」
「だ、だが、宗」尚紀は、訝しがる目を着ぐるみの司会者に向けて、「お前の言ったことは十分あり得ると、俺は思う。そもそも、わざわざ自分たちに不利になるような『モンティ・ホール・ジレンマ』なんていう現象を口にしたというのが、怪しい」
「……ああ」
宗も、ネコカガミモチに視線を刺したまま呟いた。
「ふふふ……」ネコカガミモチの作り声が漏れ、「さあ、どうするかね。『A』のままか、それとも『C』に変えるのか……」
「どうする? 俺は宗に任せるぜ。お前の選択なら信じられる」
「私も」
尚紀と知亜子は、くじの命運を宗に委ねた。
たったひとつの事柄を除けば、安堂宗は、ごく普通の高校生男子だ。その「たったひとつの普通でない事柄」というのは、彼の姉に関することだ。安堂宗の姉は名を安堂理真といい、いわゆる「素人探偵」として活躍している。本業は作家であるが、彼女は高校時代の同級生である江嶋由宇を相棒として女性同士のコンビを組み、警察の要請のもと不可能犯罪の捜査に協力をしている。そして実際その期待に応え、いくつもの事件を解決に導いているという実績がある。そんな「素人探偵」の弟ともなれば、周囲から同じような「名探偵ぶり」を求められるのは自然の摂理であり、そして、宗自身もまた姉の血を受け継いでいるのか、「高校生探偵」として、校内で起きたいくつかの事件を解決したことも何度かあった。このことが、ここ土壇場になって尚紀と知亜子が宗に全幅の信頼を置いた理由だ。
その「高校生探偵」は、一枚が「ハズレ」と開示されている三枚の札を挟んで、ネコカガミモチと真正面から対峙している。
「ふっふふ……」再びネコカガミモチが声を発した。「私が敵か味方か、計りあぐねているようだね」
「……お前、何者なんだ?」
「さあ、『A』か、それとも『C』か」だが、怪人は宗の問いかけに答えぬまま、「決断のときだよ……安堂くん」
「――!」宗は目を見開いた。「俺の選択は……」