欲望の奴隷として生きるのが混沌なら、自由に生きるって双頭の鷲に騙されない事だよね?
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双頭の鷲と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょう?
欧州の歴史物語が好きなかたなら東ローマ帝国から神聖ローマ帝国そしてドイツやロシアにまで続く欧州貴族達の権威の象徴としての紋章と答えられるかもしれません。
でも、民主主義の時代なんだから、ただの国旗や記章につけられる模様にすぎないと考える人のほうが日本では多いかもしれません。
武家や豪族が使用したもので、自分達の家系の格を表す印。
そういったものを使用し続ける事は、封建主義の精神を引き継ごうとする行為だからです。
けれど、昭和から平成へと続く時代の流れで、紋章を模様と考える人間は増えていきますが、変らずにその意味を伝える人間もいます。
一つは、未だに残る祖霊崇拝の信仰を捨てられない田舎の元豪族達。
そして、大日本帝國の‘ 血統思想’や‘ 階級主義 ’を継承した政治に携わる家系の人間達です。
私くらいの年齢より下の戦後生れになると、多くは上流階級や地方権力者といった‘ 血統思想’や‘ 階級主義 ’を制度ではなく権威によって保とうという‘ 権威主義者 ’達でしょう。
この日本列島に今も住んでいる大日本帝國の常識で育ち、利権を継承した人間達です。
大日本帝國の常識などと言われても、冷戦終結後に生れた世代だと意味不明かもしれません。
‘ 血統思想’って何?
‘ 階級主義 ’って何?
と想う人もいるでしょう。
そういう方のために説明するなら、‘ 血統思想’とは、親バカの身内びいきを正しいと認めさせたい人間達が創った利権継承の理屈です。
ちなみに理屈とは、理を屈折させるのを目的とした、本質を捻じ曲げる詭弁で構成された理論のことです。
おまけに言うなら、屁理屈というのは、屁のような理屈で、臭くてスカスカで直ぐに誤魔化しだと解る詭弁です。
詭弁というのも耳慣れないという方に説明するなら、詭弁とは言葉を危うくさせる弁という字のように、嘘や誤魔化しを真実だと思わせる弁論。
簡単に言えば詐欺師のテクニックです。
だから‘ 血統思想’は、親が優秀なら子供も優秀だから利権や社会階級や財産といったものを世襲させるのが正しいという嘘と誤魔化しで出来た理屈になっています。
今でこそ、そんな理屈は非科学的だし、親が優秀でも子供は凡庸とか、逆に甘やかされてロクデナシになるなんて例がありふれているのが解ります。
けれど最速の情報伝達が人間の噂だった時代、征服者である武家や豪族が知識を独占し、下層階級にそれを伝える事がないために、その嘘は暴かれにくくなっていたのです。
そう。
自分達のろくでもない嘘を常識にするために、社会全体の進歩を妨害する愚民化政策の根源こそが、‘ 血統思想’と‘ 階級主義 ’です。
だから、基本的に大差がないはずの遺伝による差が強調され、20世紀でさえ‘ 優生学 ’という考え方を悪用して、嘘を暴かれないようにプロパガンダが反民主主義の‘ 血統思想’を信仰するファシストによって行われました。
次に‘ 階級主義 ’ですが、これは‘ 血統思想’から生れた理屈で、親バカが無能な子供に有能な補佐をつけようという目的があります。
だから‘ 階級主義 ’というのは、権力者が自分達に都合のイイ人間を優秀だと勝手に決める事が正しく、優秀な人間は多くの富を得るのも正しいという理屈です。
この‘ 血統思想’や‘ 階級主義 ’を法律と制度で正しいと定めたのが、王侯貴族。
大日本帝國で言うと天皇と華族。
更に日本列島の歴史を遡ると、朝廷の公家と幕府の武家達になります。
彼らは人口比率でいうなら圧倒的少数派です。
そういった一握りの人間が、暴力や利権を使って、自分達に都合のイイ社会を造るための理屈が、‘ 階級主義 ’だったわけです。
その後、古い制度で貴族の下働きだった商家の人間達が傭兵団を使っての下剋上を起こし、‘ 血統思想 ’は表の政治からは消えていきます。
生き残ったのが愚民化政策による誤魔化しの理屈や目先の快楽で市民を操る“ ナチスが言う第一帝国=ローマ帝国 ”の貴族が使っていた方法です。
資本家の富を不老不死の企業に託して護る事で、利権を継承する元老院のような資本家達が、大統領という皇帝を操る“ アメリカ第三帝国と揶揄される国家 ”と“ 自らを第三帝国と名乗ったナチスドイツ ”。
‘ 自由主義 ’と‘ 全体主義 ’という看板を掲げた‘ 商家 ’と‘ 武家 ’の‘ 権威主義者 ’が征服した国家でした。
この表向きは極端に対立する思想によって造られた国家の間で、第二次世界大戦を起こし、日本に資本主義を浸透させた太平洋戦争を起こした“ 権威主義者 の資本家 ” によって‘ 血統思想 ’は裏で生き残ります。
ちなみに、市民統制で軍人をコントロールするという現代の軍隊制度は、軍というものが、国家に雇われた傭兵団であるためです。
世襲制の軍人達に暴力で支配されないようにと、商家の人間達が考えた安全装置ということですね。
もちろん、今でも親バカや身内びいきのせいで、裏では議員の世襲と利権の引継ぎが行われていたりしますから、裏で‘ 血統思想 ’が生き残っているのは疑いようのない事実です。
形骸化した日本国王を存続させて、‘ 天皇 ’の呼称も変えずに掲げ続ける人間達は政治の場では多数派です。
‘ 血統思想 ’による権威を利用するために、日本の王家は象徴というものに祭り上げられました。
職業選択の自由に行動の自由を、実質取り上げられて、人権を制限された王家の人間達。
彼らを人間としてみる事すら忘れた‘ 権威主義者 ’達が、‘ 民主主義者 ’ですと名乗る滑稽さ。
かっては語られていた話ですが、今は、それを伝える者も少なくなり。
婚姻でコネを繋げる手法も未だに続き、有力議員とされる世襲議員は、米国の大財閥に都合のイイ法を造り続けています。
そして‘ 階級主義 ’の理屈も、軍隊のような争い合うための組織には不可欠なものなので、現代でも残り続けています。
なぜなら商家も闘争を正しい在り方と考える武家文化の下働きとして、富を奪い合う存在だったからです。
猿山の猿などのように群れを造る動物が、本能を基に群れを制御するシステムを基にしているので、人間を統制しやすく、互いに争うには便利な方法なのです。
その具体的な例に、“ 双頭の鷲戦略 ”というものがあります。
倒したい相手に対して、 攻撃と懐柔や右翼と左翼といった二つの極端なアプローチをして、混乱分裂させて結束力を奪う方法論で。
古代中国などでは離間の計などと呼ばれる戦術を、戦略規模で戦争のない平時に行う諜報活動です。
離間の計のように戦術として行われるのを“ 双頭の鷲作戦 ” などともよぶので原理は同じ。
人間の我欲や独善性を煽って不和の種を撒く。
フィクションの悪魔が、よくやっているアレです。
「魂と引き換えにどんな願いも叶えよう」
「力が欲しいか、ならばくれてやろう殺しあえ」
「愛する者を救いたいのだろう? ならば100人の命を捧げよ」
「可哀そうに、オマエが味わった苦痛と惨めさを、他のやつらにも味合わせてやろうじゃないか」
悪魔自体が聖書宗教のフィクションだという事を考えるなら、悪魔はそういう手法を使う貴族の事で、青い血が流れているなどという皮肉も、そういった悪辣さを表してるのでしょう。
本質は同じですが“ 双頭の鷲戦略 ”と‘ 離間の計 ’との違いは、個別の戦術や計画として行われるのではなく、無数の不和の種を内部抗争でもばら撒くのでコントロールが利かなくなりがちな事です。
世代を重ねての征服だと、自分達の創った嘘を信じ込むバカな跡継ぎが生れ、殺し合いなどで征服を支配に変えようとする良識を持った人間が消え。
その結果、大半の権力者が嘘を信じ込むと、組織は自ら撒いた不和の種で崩壊していきます。
バブルの時代にヤクザが地上げに使ったりもしている手法を複雑にして誤魔化しているだけで、軍事と外交などともったいぶっていますが、基本的にそんな原始的で危険な方法なのです。
ちなみに征服と支配は、本来は違うものですが、あまりに長く武家に征服され続けたせいで、ほとんど同じ意味で使われるようになった言葉です。
使い分けるには、支配という言葉が、人々の生活を支えるために集めた富を平等に再分配する共存原理で。
征服が、逆らう者を征して服従を強いる暴力原理だと忘れない事です。
「米帝の支配を打ち破れ」
そう主張する‘ 権威主義者 ’に。
「支配と征服の区別がつかないのなら利用されるだけだ」
と口にしたのは遠い昔でした。
「利用されたら利用し返すのだ」
「解っていて革命の為に利用している」
そう答えた者達が、利権に組み込まれるのに長くはかかりませんでした。
暴力原理で動くなら‘ 権威主義者 ’になるかテロリストになるしかないのだから当然の結果と嘆いたのも半世紀の昔です。
マスコミも政党も市民団体すら、利権について語っても、民主主義について語らなくなりました。
「常識として浸透したから、あえて口に出さないだけだ」
多くの‘ 自称有識者 ’は語ります。
けれど、その常識は‘ 権威主義者 ’が‘ 民主主義 ’を形骸化して滅ぼそうとするとは語りません。
民主主義は多数決で、独裁じゃなければ民主主義。
そう考える子供達を多く見てきました。
‘ 権威主義 ’による征服が支配で、人間は支配されなければ生きていけない。
それが、‘ 権威主義者 ’の常識です。
‘ 自称有識者 ’のいう常識とはそういうものです。
政治とは、その“ 誰も表立ってまでわざわざ口に出していない常識 ”を当然と考える人間によって行われています。
“ しょせん、人間など唯の動物だ ”と考える人間を増やし、そういった人間を、下種だと見下しながら猿山の頂点に君臨しようという精神性を正しいと騙るのが‘ 階級主義 ’で。
利権を護るために争いあう負の連鎖を造り続ける貴族文化の生き残りである資本家一族が、国家を征服しているのが現代社会で、ローマ帝国と変らぬ手法で敵対利権を潰すための戦争が起こされ続けている。
それは言い換えるなら‘ 階級主義 ’によるシステムは、人から精神文明を奪い、原始の時代、洞窟で毛無の猿のように暮らしていたころと同じ‘ 弱肉強食 ’という理屈で行動する事を正しいと考える存在に貶めるために使われる手法で。
つまり、共存を根幹とした精神文明を逆行させる性質を持つ方法論なので。
人類を破滅に導く悪魔に例えられるのが 権威主義者 ’の在り方なのだ。
かつて、そう語られていた言葉は、常識にはなりませんでした。
科学が戦争によって進歩したというような嘘で誤魔化しているが、物質文明も、破壊するための技術にリソースを割くために歪になり、全体として生産性は下がる。
要は軍の維持費や武器を開発する予算を他所に回せればどうなるかという話で。
それが現代でもできないのは、国家に依存した中産階級以下に力をつけさせないために、国家同士を争わせ、軍産共同体を育てて、強国を金銭の力で操る人間達が権力を握り続けているからだ。
そういった事実は、陰謀論であるかのように騙られます。
陰謀論などでは組織として語られますが、実際は欧州貴族文化のように手を組んだり争ったりする‘ 権威主義者 ’による利権組織の群体。
天皇が日本の権威主義者の象徴であるように、双頭の鷲とは、その“国際利権 ”の象徴です。
私が若い頃、彼ら‘ 権威主義者 ’を批判する人々は、‘ アカ ’というレッテルをマスコミに貼られていました。
‘ アカ ’はソビエトを中心とした‘ 権威主義者 ’の勢力に属する‘ 自称共産主義者 ’を指す蔑称でした。
そう、冷戦時代まっただ中の戦後昭和の事です。
冷戦がイデオロギーの戦いだと宣伝されていましたが、そうでないと気づいた‘ 民主主義者 ’にも、‘ アカ ’のレッテルを貼って、誤魔化した。
いわゆる精神的暴力を使った‘ アカ狩り ’の横行した時代です。
社会主義国家でも、‘ 民主主義者 ’への粛清が物理的暴力を使って公然と行われていた時代でした。
資本主義国家で、そういったものが行われなかったかというと、ケネディやキング牧師などの暗殺を始め、無実の罪をきせたりと、公的組織を使わない暴力が行われ続けました。
民主主義による自由競争経済を正しいと宣伝しながら、平等な競争を邪魔し、自分達に都合のイイ管理競争とした西の‘ 権威主義者 ’。
平等な非競争社会を正しいと宣伝しながら、平等な立場を否定した‘ 階級主義 ’で軍事国家を造った東の‘ 権威主義者 ’。
そういった明らかな矛盾に。
イデオロギーを護る気などない‘ 権威主義者 ’のただの利権争いが、冷戦だと当時も今も多くの人が気づいていました。
ここまでくると、ピンと来た人もいるかもしれません。
第二次世界大戦に冷戦にテロ戦争。
極端に対立する理屈を口にする人間が争いあう構図が生れる理由。
それは、争いの中でしか存続できない‘ 権威主義者 ’の造った多数の利権が“ 双頭の鷲戦略 ”を繰り返すからです。
それは遡れば武家や貴族などの“ 争いを生業とする人間達 ”の文化です。
古くは小説や映画、ドラマやアニメやマンガにラノベによって“ 争いを生業とする人間達はカッコよく、地道に争わず世界を支え続ける者はカッコ悪い ”と無意識に刷り込まれ続け、日本でも“ 和をもって尊しとする農民文化 ”は、都会では消えつつあります。
スクールカーストという精神的封建主義を、中世貴族と変わらない精神性の子供達が造り、差別主義がイジメを生み出す構図などが、その証でしょう。
こういったイジメは、別段、今に始まったわけではなく、‘大日本帝國などの‘ 権威主義 ’勢力が強い時代には公然と存在しました。
身分が上のものや先輩を不快にさせるのが無礼だという不公正な理屈が法制度で認められていたのです。
それが表向きは民主主義を謳うようになっても残り、差別主義として蔑まれる事もなく、イジメとしてマスメディアが取り上げる。
そんな混沌を自由と宣伝する人間までいます。
昔はそうではなかったこれは欧米化による堕落だと騙る‘ 似非文化人 ’も多くいます。
‘ 権威主義 ’の否定という民主主義の本質を失った“ 利権の勢力を多数決で表面化しただけの金権政治 ”と。
闘争を前提とした経済を勝利するための企業倫理も政治倫理も捨てたマスコミを含む‘ 官民癒着 ’。
欧米の権力者が、“ 米国で行われている社会の混沌化 ”で日本を統制した結果で。
愚民化による勢力分断で少数の人間が造った利権のために国家がルールを創る“ 無数の双頭の鷲戦略 ”こそが混沌化の原因でしょう。
社会の縮図であるインターネットでも似たような事は行われ、都合の悪い情報を隠せないときは、真偽の怪しく感じる話から、明らかな嘘まで、その情報を覆い隠すために、多量の情報が組織的にばら撒かれます。
そして、権力のみが情報の真偽を確かめられるように、プライバシーという概念を創り、更には法で縛り、個人主義を加速させ、社会的弱者を孤立させる事で利権を守るのです。
あまり、知られてはいませんが、プライバシーとは、謀略を日常的に使用する貴族の防諜を権利として広めたものです。
後ろ暗い秘密がなければ必要ないものなので、かつては、あまり必要とされていませんでした。
それが、ここまで広まったのは、情報が広く公開され、詐欺の技術が、職業犯罪者にまで使われだしたからなのでしょう。
終戦当時から、米軍統制下でそういった常識の変化を‘ 権威主義者 ’の属米政治家が画策し続けた“ 多くの人間を共犯者として配下に加える勢力拡大策 ”の結果です。
その初めにあったのが、教育現場での言葉狩りや理系優遇といった日本文化の根源の破壊でした。
古語表現や情緒や感情表現などの複雑さが、非効率的だったから日本は戦争に負けたのだ。
言葉は単純なほうがよいから、文語と口語を統一して文語を衰退させよう。
細かく分類し違いを見る事で理解するという科学的手法を真っ向から否定する話ですが、それを正しいと宣伝して、世代が代わるごとに、語彙は少なくなり文学は衰退していきました。
それは、誤魔化されやすい人間、誤魔化しに気づき難い人間を増やす愚民化政策の基本でした。
それでも、戦後教育の第一世代までは、誤魔化しを誤魔化しと気づく人間も多く、戦前の教育を受けた世代も元気でした。
だから、冷戦がイデオロギーの戦いだという宣伝は、権威主義者 ’による平等を訴える‘ 民主主義者 ’に対する双頭の鷲戦略だと、言う人も多く。
若い頃の私も、そう結論づけた人々の一人でした。
マンガやTV番組などで“ 世界征服を企む悪の秘密結社 ”などというフレーズが使われだし、世界を‘ 権威主義者 ’による負の連鎖から解き放ち一つにしようという考えは悪であるという刷り込みが始まったのも。
‘ 民主主義 ’を“ 唯の多数決制度 ”と考えさせる愚民化政策が始まったのもこの時代です。
日本では民主主義を弾圧する組織の構成員が生き残り、警察に組み込まれたため、‘ 権威主義者 ’は“ 双頭の鷲戦略 ”で民主主義を学んだ学生に‘ アカ ’のレッテルを貼り弾圧しながら、反米勢力を右翼と左翼に分裂させました。
“ 天皇の権威 ”を利用する‘ 権威主義者 ’達、いわば
大日本帝國の残党とでもいう旧支配の利権。
連合国支配に組み込まれた属米利権。
在日朝鮮や部落などの大日本帝國の被差別者の利権。
社会主義を利用した反体制の利権。
操る者と操られる者、利用する者と利用される者が入り混じり争う物理的精神的暴力原理の混沌。
当時の私はノンポリのレッテルを貼られていましたが、学生運動や安保闘争というものの実態を、そう感じていました。
連合赤軍や過激派などの市民団体に政党などといった利権組織と距離を置きながら活動をしていた多くの運動家はそうだったのです。
組織活動に資金を供給する人間は‘ 権威主義者 ’の“ 双頭の鷲戦略 ”の手先ではないかと疑問を口にするそういった人々には‘ 無政府主義者 ’などのレッテルが貼られ意見を封殺されることも多かったように思えます。
ラブ&ピースなどという言葉を知っている人もいるかもしれませんが、平和運動で全面核戦争の脅威に対抗した人々もそういった人々です。
やがて、理由なき反抗などという言葉が生まれ‘ 権威主義者 ’への批判は、思春期の子供の反抗みたいなものだという印象操作をマスコミが始め、学生運動の新たな芽が摘まれ、日本の民主主義は骨抜きにされて形骸化していきます。
理想の反対にあるものが悪徳であるのに、理想の反対語は現実であるなどという理屈と一緒に、自由と平等と平和を謳う‘ 民主主義者 ’は現実を知らない子供のようなものだというレッテルが貼られるようになり。
学生運動に関わっていた人間は挫折感を味わい、多くは‘ 懐疑主義 ’を胸に社会に埋没し、一部はテロに走り、一部は草の根的な活動を続けます。
そして冷戦時代が終わる頃には、老齢となった‘ 民主主義者 ’が社会を退き始め、米国の‘ 権威主義者 ’に追従する属米政権により‘ 民主主義者 ’が造ってきた制度や法が壊され、格差社会が訪れます。
その第一歩がバブルによる終身雇用の最終破壊であり日本は虚栄の中で大切なものを失っていきました。
ちなみにアメリカとの協調をアピールした政権が、属米政権で、任期が短期化する傾向の中、米国の要求と国内の利権の調整をする必要があるので長期政権となります。
正直者が馬鹿をみるのは、あたりまえ。
理想は敬遠されるのが当然。
弱者を切り捨てるのが常識。
生きるとは戦いなのだから、騙し奪い合う狡さが大事。
そんな世の中で、誰かを踏みつけにして、我欲を満たす事が幸せ。
そんな‘ 権威主義 ’の理屈で“ 権威主義の奴隷 ”が、一見格好良く見える言葉で飾られた新しい常識を創り。
疑う能力を奪われた家畜のように生きる人間達は、‘ 社蓄 ’という言葉が広まっても、自分だけは“ 権威主義の家畜 ” であると気づかず。
やがて、‘ 権威主義 ’の負の連鎖を断つ事も、自由も平等も平和も望まず、社蓄という‘ 権威主義者 ’の奴隷であることも受け入れた世代が‘ 権威主義者 ’として成り上がる事が幸せなのだと騙り始めます。
このサイトを知りテンプレと呼ばれる作品群を読み、私が感じたのは、そういった‘ 権威主義者 ’の常識でした。
‘ 権威主義 ’の印象操作が、現代の子供達の常識として定着しているのだという実感とともに、日本の民主主義の衰退も感じてしまいました。
もちろん、そんな世相とは別に、地道に頑張っている人達がいるから、この世界は成り立っているのですが、そういう人達が、心ない人間のせいで苦しむ事も少なくはない現状。
戦後は終わった、という言葉の裏で、今は戦前だと印象づけようという人間達が蠢き、世界中で不穏な動きが見られます。
地道に頑張っている人達が、なんとかコントロールしようとしても、‘ 権威主義 ’の理屈が暴走すれば崩壊はいつか訪れるでしょう。
人類が自分達自身を滅ぼす力を手に入れる前なら、負の連鎖と正の連鎖の均衡が破れても滅びは訪れませんでした。
終末思想もフィクションですんでいたのですが、既に人類はかつてはフィクションだった滅びの神話に追いつきました。
精神文明の土台がなければ物質文明は崩壊します。
その崩壊を人類の絶滅に近づけるほど負の連鎖が進行しないように。
かつて警鐘を促していたSFなどのフィクションは廃れ、ファンタジーから人間性が剥ぎ取られた作品群が生れるというのに、不安を感じるのは歳を取った証なのでしょう。
おそらく、今の子供達が大人になる前に、私は消えているので、尚更そう思うのかもしれません。
欲望の奴隷として生きるのが混沌なら、自由に生きるって双頭の鷲に騙されない事だよね?
とっぴんぱらりのぶう
さて、次回ですが経済というのが何かという話で、冷戦時代に語られ、今はあまり語られない話。
「世の中カネとコネとか、力と金が全てだとかいうけど、紙幣は紙だから、カネじゃないよね?」
という話にしようかと考えていますが
今までの話の中で
ここの理論展開が飛躍しているとか、これは理論ではなく理屈になっているなどの感想があれば
その感想を基に当時と今の常識を検証しようと想っています。
例によって
このエッセイに興味を持った方がいるようなら、何かは書こうかと思います。
そうでないなら、「ボケ老人の愚痴を聞くのは飽きた」と思われたのだと判断して、次は自粛するとしましょう。