エッセイって懐疑主義者が書いた論文が語源って知ってた?
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2016 10/28
明日葉 キヨさんの「綺麗事」と「綺麗な事」の違いに対する感想を受けて加筆しました。
エッセイを書くにあたって最初にその「エッセイ」というものについて書いてみることにします。
エッセイ=懐疑主義者が書いた論文が語源。
私がそれを知ったのは、初めてエッセイという言葉を知り、エッセイという言葉が広く使われ始めた昭和30年代の半ば。
日本を制圧していた進駐軍が消えたというのに、未だに日本がアメリカに間接的に支配されていると誰もが感じていた頃でした。
IRAなどがテロリズムでイギリスに対抗していた事に、心情的に納得している人も多く、特に私くらいまでの米国に恨みの深い世代は、ゲバラなどのゲリラ活動を真似て、海外で反連合国闘争に身を投じるものもかなりいたようです。
ほとんどの人々は、家族を戦火で失った人だったため安否を気遣われなかったのと、公式に反米活動を行う日本人を認めたくなかった政府の意向で、国内でニュースとして取り上げられる事は少なかったようですが、元日本兵のゲリラ活動は、知る人ぞ知るという話でした。
公家と武士や豪族達に都合のいい大日本帝國憲法から米国と海外の財閥に都合のいい日本国憲法に変わって、新しい「法の下の平等」が始まっても、国民の八割を占める小作農家にとっては、「お上」が代わっただけという意識が強く、「私怨」や「旧勢力復興」のために暴力を振るうのは「農家」の生き方ではなかったのです。
農地解放という「皆のため」の利益を受け取り、家族を失った悲しみや怒りや憎しみは哀しさへと変えて、耐え忍ぶのが、「征服」され続けた「農家」の生き方でした。
国内の混沌が秩序と自由に変わりかけながらも、人々の心の奥に、恨みが燻っていた時代。
後に多くの物語などでノスタルジーと共に語られる昭和30年代とは違い、そういった負のエネルギーが強く残っていたのが、私の実感としての昭和30年代です。
この頃によく言われていたのが、日本の敗北は戦力のみによるものではなく、文化による敗北だという話でした。
これは、古い日本の常識は捨て、欧米の進んだ常識を学んでこそ、進歩があるという「欧米優越論」で、文明開化という言葉の持つ旧来の意味を「文明開花」という印象に近いものに書き換えて、その後の子供達に大きな影響を与えました。
当時のエッセイもそういった「戦後の常識」を広めるべく利用されていた気がします。
そういった古い価値観と新しい価値観の狭間で少年期を過ごした私は、随筆をエッセイと呼ぶようになったと知ります。
現代でこそ、新しい価値観の象徴のような「エッセイ」という言葉にとって代わられた「随筆」という言葉ですが、当時はまだ主流は古い価値観でした。
時代が変わり、アメリカに追従する事が政治屋にとっては出世の道でも、一般の社会を動かすのは、私の世代もそうですが、アメリカに親兄弟を殺された者達だったからです。
戦時中でもそうですが、占領されていた時代にも多くの大日本帝國生まれの人間が、米軍支配の日本国に逆らい、犯罪者の烙印を押されて殺されました。
そんな事実に向き合わずに済んだ人は、単なる噂だと長いものに巻かれ、事実に向き合った者達は、後の安保闘争へと多くが身を投じます。
公には米兵の私刑による被害の多くは存在しないものとされたからです。
人種差別はあたりまえで、警察は、民間を護る機関として機能せず、反米活動は国家反逆という戦前と真逆の常識で日本国は動いていました。
いわゆる戦後の混乱期という言葉で、今では片付けられましたが、当時の日本の都市部は、そういった酷い状況でした。
そういう記憶が受け継がれないのは、国民の多くが都市部ではなく、地方の農村に住んでいたからで、安保闘争が、国民の支持を得られなかったのも同じ理由でした。
「公家や武家」の殺し合いの理屈など、当時の多くの「農家」には縁遠く、武家や公家は米軍支配下で財産を奪われ組織的な実行力を持てず、マスコミは戦争犯罪者にされるのを恐れて米国に追従した者達が動かしていました。
ですから新聞もTVも、「そんな不確かな噂は報道できない」という大義名分で記事にしなかったのです。
長いものには巻かれろ。
臭いものにはフタ。
触らぬ神に祟りなし。
この三つの諺が「戦後の常識」となっていました。
幸い、私はそんな体験をした友人達と知り合ったのは後の事で、家族をレイプされた事も、接収という名目の略奪を拒んで家族を殺され、走れないような体にされる事もありませんでした。
ただ、アメリカ軍の空襲とたぶん艦砲射撃で両親を失っただけでした。
そう、たぶんです。
どうやって兵士が死んだのかさえ伝えられないほど、当時の日本は混乱していたのです。
この時に国家としての大日本帝國は滅びたと言ってよいでしょう。
極東裁判の場で、逆らう人間がどうなるのかという見せしめになり、一般の軍人達まで、その責任を問われ。
華族達は、財産を合法的に略奪され、地方豪族は財産を奪われ、それを復興に当てることで、生れたのが日本国でした。
言い換えれば、それが「米軍による日本の民主化」でした。
そういった事実を呑みこんだ者が生き残り、それ以外の者は殺されるか犯罪者として裁かれました。
それは特別な事ではなく、有用な植民地でも行われて戦後の連合国支配の国際社会の基本方針となります。
イデオロギーの違いによる米国とソビエト連邦=ロシアの対立による「代理戦争」が行われたのが「冷戦時代」と認識している若い人が多いようですが。
ルネサンス期の「神」と同じように。
「北朝鮮」で平等を基本にする「共産主義」など、信じられていないように。
ソビエト連邦でも「イデオロギー」などは、権力確保に利用するだけで、本当の意味で「平等」を目指す権力者などいませんでした。
「冷戦」とは、唯の植民地の間接支配を巡る争いだ。
海外の紛争地帯での現状を知る人々は、そう語っていました。
第二次大戦の勝者である「United Nations」。
戦前には連合国、現在は国際連合と日本では呼ばれている国家集合体の一員として、現在の日本国が7年にも及んだ米軍支配の「革命と粛清」によって誕生します。
そういった事実を体験したので、私は、今でも欧米の文化を評価はできても嫌いで、そのために多少の偏見はあると思います。
そんな爺の「エッセイ」ですが、良しなに願います。
さて、そのエッセイについての話。
エッセイという当時耳慣れない外来語の語源は、調べたところでは、モンテーニュの書いたもので、訳した意味は「試論」。
随筆という意味かと思っていましたが、感性を示すものではなく、理論を試みるものが、その語源でした。
モンテーニュと言えば、「懐疑論」。
全ての「常識」を再検証しようという16世紀ルネサンス期のフランス人らしい「聖書宗教の常識破壊者」です。
16世紀、聖書宗教を利用する利権組織が「神の代理人」と自らを騙り、「正義」も「常識」も「権威」も「人の価値」まで決めていた時代。
その社会体制に疑問を口にできるくらいに、商人達が力をつけ始めた時代です。
モンテーニュは、そんなルネサンス時代のユダヤ系フランス人です。
フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦をくりひろげていた時代の法律家でした。
公務員なのでカトリックの立場でしたが、プロテスタントにも人脈を持つ穏健派だった。
と言われていますが、当時のユダヤ系の人々の扱いを考えると、新旧両教派のどちらからもユダヤ系の商人達へのパイプ役と考えられていたという説に説得力を感じます。
そんな彼が「常識」というのを疑った気持ちは、私達の時代の多くの人と同じだったように思えます。
戦前の「国の常識」が戦後の「国の常識」に造り変えられていく事を、体感し体験していかねばならなかった世代。
「懐疑論」という判断の停止を選ばなければ、家族を殺された憎しみを理不尽に米兵に向けて「革命」に生きるか。
そうでなければ「戦前の日本」を憎んで「市民弾圧」に走るか。
という極端で暴力的な道が身近な選択肢としてあった「混沌」の時代だったのです。
「混沌」を「自由」と騙る人間に騙されないために、「懐疑論」は、「優柔不断」で極端な道を選ばないのではないと抗弁するための「理論」でした。
きっと、ルネサンス期という変化と混沌の時代に生きたモンテーニュも、それに似た体感と体験をしたのではないかと、当時の私は考えたのです。
全てを疑い何を正しいとするかの決断を、あえてしないと決める「判断の停止」がモンテーニュの「Les Essais」にはあふれています。
「自分ほど信用できないものがあるだろうか?」
「神とはどんな存在かなど、人間に解るはずがない」
彼の根源にはそういった「人間不信」が燻っていて、それでも「人は信じあうべきで援け合う生き方が美しい」と感じる心がエッセイの語源となった随想録からは感じられました。
その矛盾した自分への疑いが「人間とは不完全で矛盾した存在でしかありえない」という懐疑主義へと繋がっているかのようでした。
後に、「不可知論」という「個人の認識できないものの拒否」という「ある意味で自身と神の同一視ともいえる観点」にまでマイナスの発展をする「懐疑論」ですが、モンテーニュ自身は、そこまで無意識に傲慢にはなれませんでした。
「全知全能」でなければ「人類の可能性の追求」すら無意味などという「負の傲慢」ではなく、そこに至る前での「判断の停止」をモンテーニュは選びます。
16世紀の西欧人らしく「創造者」である事は「怖れ多い」と、神に代わる新たな価値観を創る事までは試みようとしなかったのです。
「自然に初めから存在した物質や生命でなく、名のあるものは全て、形があってもなくても、人が創りだしたもの」であるという「オカルトの否定」ができなかったからです。
実験的な証拠がない主張の真実性、正確性、妥当性を疑う「科学的懐疑主義」に至るほど「科学」は信仰を勝ち取っていない時代だったのだから当然です。
16世紀の欧州の感性では、「神の被造物である人間は最初から人間」でした。
決して、「かつて洞窟で暮らしていた裸の猿」と肉体的には同一でも、「社会の記録という外部の記憶装置」を得て「精神的に別個の存在」となった生物。
「精神的に進化する存在」などではなかったからです。
ましてや、インターネットという社会の縮図のような記録閲覧装置や水爆など、アカシックレコードやメギドの火のような「オカルトの領域」にしか概念すら存在しなかった時代。
「現代の人間の限界」とは「神の領域」だったのです。
未だ「神とは絶対にして不可侵」だった時代。
当時の哲学者や錬金術師にとっての「神の代理人が騙る常識」は、疑う事はできても、「否定」はできないもの。
現在の日本にとっての「アメリカ」のような権威だったのだろう。
当時の私の「エッセイ」に関する感想とはそういうものでした。
モンテーニュのように「懐疑論」で「戦後日本の常識」を語りながらも、「アメリカ」の否定はしない「随筆」。
エッセイは随筆と変わらないのに、昔からあった言葉とは違った名をつけた理由があるのか?
と思ったのは、調べる理由ではなく予想でしたが。
調べた結果、単なる欧米崇拝ではなく、「懐疑論」という意外な違いが随筆とエッセイの間にはありました。
けれど、それだからこそ、随筆でしかない文に随想も含む言葉であるエッセイと名づけて混同してしまっているのに、予想と同じ欧米崇拝を広める意図を見てしまいました。
もちろん、それだけでなく尺貫法をメートルやキログラムに変えるとか、古語表現を廃止するとかの公的改変や。
日本やアジア人の体型は格好が悪く、欧米人の体型が格好いいというマスコミによるマインドコントロールめいた「常識」を子供達に刷り込む宣伝など。
アメリカでは屈辱的とされる「進歩」を日本に押し付ける行為にも古い日本の陵辱的破壊を感じたものです。
アメリカではインチやヤードが、今でも「自国の伝統」を護ろうという人間によって使われ続け、日本ではそんな瑣末な事は伝統ではないと使われなくなっている事や。
欧米でアジア人の体型が格好よくて、欧米人の体型が格好悪いなどといえば、憎まれるだろうに、日本ではその逆が当然と思われている事。
現代でも感性を表現する随筆はエッセイと名乗って書かれ続け、随筆という言葉が使われなくなっているという事実は、その立証になっていると思ったものです。
オカルト否定による「懐疑論」を基にした 「エッセイ」を書こうという気になっただけで、「アメリカ」についてどうこう書くつもりはなかったのにこうなってしまったのは、それだけ、「日本国の常識」の出所が欧米に由来しているからなのでしょう。
こういった話は、頭の良い悪いではなく、知識として蓄える価値が低い時代の変化を経験しないと、論じる事ができません。
自分の感性や嗜好を作っている「常識」を疑う事は、弱い人間にとって怖ろしい事です。
特に「個人主義」という利己的な感情を当然とする考え方で「常識」と人格を作ってしまった人間には、自分自身を疑う「懐疑主義」とは、混沌そのもののように思えるでしょう。
けれど、人は強くなろうとできる存在です。
“ 人間は皆、弱いもの ”と認めて、それでも“ 強くなろうと努力する意志 ”を持つのが「甘さを捨てる」という行為です。
それを‘ 勇気 ’と名づけ、他者との争いのために利用とする人間もいますが、‘ 自信 ’と名づけ自らを鼓舞するのが善い生き方だと、私には思えました。
“ 人間は皆、弱いもの ”だから悪い事をしてもしかたない。
法律で裁かれないのなら、脅し奪い盗み殺しても、それは仕方がない事で許されるのだから、そうすべきだ。
そういった自らを律する事のない‘ 甘え ’を、甘さを捨てた厳しい生き方だという嘘で自分や他者を騙す生き方はしたくなかったのです。
決して、利己的である事が“ 甘さを捨てる ”事ではない。
何かを妄信したり自分の欲望だけを信じる楽な生き方という「甘え」を捨てて生きる。
それが甘さを捨てた生き方だと、当時の私は考えました。
そうでなければ、復讐欲を満たすために、テロリストになっていたかもしれません。
おそらく、復讐を望んだ事がある人は、誰もが知っているでしょうが復讐欲を満たすのは爽快で、部分的にでも成し遂げれば暗い達成感もあります。
復讐欲は、最後には復讐を望んだ原因すら忘れさせる麻薬のようなものです。
瞬時に燃え上がる怒りとは違い、じわじわと自分自身を焦がす熾火に例えられる復讐欲は、ゆっくりと心を焦がしていきます。
そして大事な人の思い出や怒りの原因となった大切な想いすらも薄れさせていき、憎い相手の苦痛だけを望むことで快感に浸るようになります。
物語を書くみなさんのために、フィクションで使われる例をあげるなら。
「あなたの愛した○○さんは、復讐を望むか?」
という問いの意味は言葉の意味そのままではありません。
“ 大事な人の思い出や怒りの原因となった大切な想い ”を思い出せという感情に訴えかける説得です。
その意味が解っていれば
「死者は何も望まない」などという復讐に固執する答えの意味も言葉どおりの意味でないと解ります。
人間は二度死ぬ。一度目は肉体の死で、二度目は忘れ去られる事で。
その言葉を実感できなければ解らないかもしれませんが、死者は何も望まないからといって、遺そうとする想いがなかったわけではありません。
だから、大事な人の遺したい想いを踏みにじって、自分の復讐欲を満たす決意。
あるいは、自らの心の傷にしか目に入らない‘ 甘え ’がその台詞にはこめられています。
「ムカついたから殺した」というのと変らないのなら、それは‘ 仇討ち ’としての復讐ではありません。
だから、多くの心ある人々は復讐ではなく、死者を悼み悲しみを哀しみに変えて生き続けます。
こういったフィクションは、それを実感として知っていた作者が同じ想いをもつ多くの人々に向けたメッセージでした。
「綺麗事を言うな」
フィクションで復讐に固執する人間が口にします。
それでも、どうしようもない衝動は存在するという事実を表す言葉です。
けれど、あくまでも“ 大事な人の思い出や怒りの原因となった大切な想い ”を忘れられないからこそ復讐するというのも、“ 綺麗な事が大事だったから ”なのです。
「綺麗事」は、表層だけの綺麗な理屈で
人の業や欲の泥に塗れぬ机上の空論。
「口先だけの綺麗事」は
信じていないのに利用している「綺麗事」。
「綺麗な事」は「醜い事=醜悪」の対極で
どこにでもあって世界を支える人が綺麗で美しいと感じる事。
大切にしたされたという情愛や、美しい思い出の源となっている普遍的な人の善性からもたらされるもの。
フィクションでいうなら
「人の善性による同意での世界統一」と「綺麗事による武力での世界征服」
というと解りやすいでしょうか?
だから、綺麗事を捨てるとは、一緒に綺麗なものも捨てて、醜悪なものを望み“ 欲望の奴隷 ”と成り果てる事です。
醜悪なもの嫌悪するものばかりのストレスの中で、自分自身も嫌いながら生き続けるような復讐を、自由意志で選ぶテロリストもどこかにいるかもしれません。
けれど、私は口先だけの綺麗事を言う“ 欲望の奴隷 ”は多く見ましたが、綺麗な想いを持ち続けたまま、醜悪な行いをする人間は見た事がありません。
そこまで人間は器用ではないし、一途ではいられない生き物です。
自分だけは特別で例外などという‘ 甘え ’を持つものほど、自分すら騙して“ 欲望の奴隷 ”に成り果てます。
自由であるという事は、奴隷ではないという事。
誰かの意図のままに動かされるのではなく、自分が正しいと考えた事を行う事。
そう望んだ事でなく、正しいと考えた事を優先させられる強さを持ち。
“ 欲望の奴隷 ”でなく、“ 感情の支配者 ”である事。
そして、それを実現するためには、自分の感情がどうして生れるのか?
どうして、その言葉や常識といった概念が創られたのか?
それを考え検証し続けられるのが‘ 精神の自由 ’で、それを正しいと口にできるのが‘ 肉体の自由 ’。
冷戦の中「欲望に溺れられる自由」を宣伝する混沌の時代の中で、エッセイというものについて考えながら、私はそうありたいと想ったのです。
エッセイって懐疑主義者が書いた論文が語源って知ってた?
どっとはらい。
年寄りの昔話を聞く機会の無い昨今。
老い先短い年寄りの愚痴まじりの戯言を、御聞きいただけるなら、誠に重畳。
今後ともよろしく
して頂ければ幸いです。
追伸
現代風の文章を心がけてはいますが古語表現などもつい使ってしまいます。
意味が解らない文は、調べてみてください。
それでも解らない場合や、あるいは解りやすく書こうとして却って解らなくなっている文章など、感想で御一報くだされば改稿や返信させてもらいます。
次回は、今回語れなかった「自由」と「混沌」についてのエッセイで。
「欲望の奴隷として生きるのが混沌なら、自由に生きるって双頭の鷲に騙されない事だよね?」
このエッセイに興味を持った方がいるようなら書こうかと思います。
そうでないなら、「こんなのはエッセイじゃないグチだ。年寄りのグチなど聞きたくない」と思われたのだと判断して、次は自粛するとしましょう。