BAt aDULt 切る斬る伐る
(注1)タイトルにスペルミスはありません。
(注2)気を付けてください。
誰かが死ぬことを決めた。
毛布にもぐっていると、時々、昔のことを思い出す。
七歳。
小学二年生の時に暮らしていた、2DKのアパート。三階建て三号室までの、計九世帯。夕焼け頃に役所のチャイムを聞いて友達と別れ、202号室のドアを開けると、怒鳴り声と悲鳴と、物の壊れる音が聞こえた。
自分が帰ったことを気付かれないように、そっと子ども部屋に向かった。部屋の電気はついていなかったけど、弟と妹が、息を潜めるように座っていた。
三歳の妹が、息を潜める事を覚えていた。なぜかその光景が、目に焼き付いて離れなくなった。
しばらくすると、母がコンビニのおにぎりを持って、僕らの部屋に持ってきた。それが確か、八時半くらい。僕たちは、九時には寝ていないといけなかった。急いで食べて、三人で寝た。
三歳の妹。五歳の弟。七歳の僕。
最後に眠るのは大抵僕だった。遅くまで眠れないでいると、また隣の部屋から怒鳴り声が聞こえてきた。
どうしても眠れなくて、「うるさい」と抗議しようと思って、ふすまを少しだけ開いて覗くと、顔のすぐ近くを携帯電話が横切って、タンスの角に当たって真っ二つになった。まだスマートフォンのない時代。二つ折りの携帯電話が、文字通り折れて二つになっていた。部屋の奥の方では、母が横に倒されて、よく知らない男に足で踏みつけられていた。
よく知らない男とは、僕が小学生になった頃からここで暮らしているけれど、やっぱりよく知らない。あまり知りたくもなかったのかもしれない。
その男のことは、当然憎かったけど、母のことも憎かった。なんで平和だった実家を出て、こんなクズ人間と暮らしたがるのか理解できなかった。自分が弱っている時ばかり優しい振りをするし、僕らの気持ちなんて全部分かったつもりになっているみたいだ。
何も分かっていないのに。こんなに憎まれているなんてきっと想像したこともないはずだ。
だけど、そんな母が踏みつけにされているところを見て、「いい気味だ」とも思わなかった。
可哀想だなと思って。怖いと思って。そして、頭がくらくらするくらい苛立った。
理由はよく分からない。でも心の底から嫌悪した。
弟が部屋を出るときに、勢いよく襖を閉めた。襖は、ガンッと大きな音を立て閉まった。すると、部屋にいた知らない男は「何だその態度は」といって、玄関前の板の間に、三時間弟を正座させた。
母が買ってきた箱のアイスを妹が「これ好きじゃない」といった。
母は、袋ごとアイスを投げつけて、だったら返してこいと怒鳴り散らした。
僕は怒られる度に泣いていた。悔しくて、襖に穴が空くまで毟った事もあった。ポスターをグシャグシャにして破り捨てた。図工の時間に作った作品も全部壊した。
それを見つかってまた怒られた。「なんでそんなことをするんだ?」だって。なんでそんなことも分からないんだ。
アパートの壁は薄くて、床も薄い。サッカーボールを床に落とすと、下の階のおじさんが怒鳴り込んでくる。
学校に行くときは隣のおばさんに挨拶するし、一階の角のおじいちゃんともよく喋った。三階のどこかに住んでるらしいおじさんは、四角いメガネをしていて、包丁でも持って出てきそうな目つきをしていた。
でも誰も、僕らが泣いていても、母が悲鳴を上げても、訪ねてくることは一回もなかった。来るのは僕たちに文句を言いにくる時だけ。大人は大人に怒鳴りに来ない。
大人は皆嫌いだ。
皆憎い。
皆クズだ。
皆死んだ方がいい。
死ねばいいんだ。
大人が死ねば、誰も、僕も、弟も妹も、怖い思いをしないで済む。
毛布の中で、奥歯を噛みしめ、こめかみをひくつかせながら、泣きながら。毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩毎晩。どうやって大人を皆殺してやろうか考えた。
でも、考えれば考えるほど、いろんな問題があった。
まずどうやって殺そう。どこまでやれば、大人は死ぬんだ?
ひとり殺したらもうそこで警察に捕まるんじゃないのか。殺す順番は? まず確実に殺さなきゃいけないのは誰だ。殺した後の生活はどうなる。ちゃんと生活はできるのか。祖父母の家が近いから、それは大丈夫かな。小学校にはもういられないだろうな。昔からの友達も、毎日いっしょに登校してる友達も、放課後遊ぶ友達も。多分みんな会えなくなる。それでもいいのか。でも、もしそうなったとしても、大人を殺すことの方が重大だ。こんな生活には、もう耐えられない。
……それならば。
それならいっそのこと、自分が死ぬと言うのはどうだろう。
祖父母や友達はきっと悲しむ、だけど一番簡単にこのゴミみたいな大人の世界から解放される。逃れられる。そうだ。そう。なんだ、自分が死ぬのが一番楽じゃん。やりたい事もない。もちろん夢も。
そうして僕は、自分が死ぬ段取りを考え始めた。
頭にいろんな物を思い浮かべる。
ペンキの剥げたベランダの手すり。台所の包丁。学校にある縄跳び、屋上、焼却炉。近くの公園の池。どれもピンと来なかったけど、ベランダから飛び降りるのが一番楽かなと思って、毛布から顔を出して、ベランダを覗こうとした。
そのとき。隣で寝ている弟と妹の顔が目に入った。
暢気な顔で寝ていた。隣で僕がこんなに苦悩しているのも知らずに。なんだか幸せな寝息を立てている。
別に大好きな奴らではない。すぐ僕の真似をするし、友達と遊びに行くときについて来ようとするし、面倒見なきゃいけないし。生意気でムカつく事もよくある。だけど、大人みたいに憎くはなかった。
こいつら、僕が死んだらどうなるんだろう。その後もずっとここで暮らすのかな。こんな場所で、あんな奴らと、生きていくのかな。
だったら、今ここで、一緒に殺してやった方がいいのかな。
また悩んだ。悩み続けた。
何日も。
その間も、怒鳴り声。悲鳴。鳴き声。破壊音。
どう考えても、僕が弟たちを殺して、その後に自分も死ぬのが、一番いい方法だと思う。でもひとつだけ、分からないことがあった。
弟たちは、将来に、やりたい事があるかもしれない。もっと幸せになれるかもしれない。ゴミクズな大人なんていくら死んでも構わない。でも、こいつらから、これ以上大切な物を奪うなんて、やっていいはずがない。でも、自分だけが死ねば、きっと自分の分も弟たちがこれから苦しんで行くに違いない。
なんだよ。
だったら、僕も死ねない。死ぬわけにいかない。
そして、あんなクズの母でも、もしかしたら弟たちには大切な母親かもしれない。
なら、それを奪うこともできない。
なんだよ。
なんだよ。なんだよ。じゃあ何も変えられない。
弟と妹たちの為に、死なないことを決めた。
それが僕が、七歳か八歳か九歳の夜の話。正確な日はもう忘れた。
成人式の日に、同窓会があった。
小学校の同窓会に顔を出すと、四年生の時の担任の先生が手紙を二枚ずつ配っていた。
十歳。二分の一成人式と題して、十年後の自分と家族宛に手紙を書いていたらしい。正直まったく覚えていなかったから、読むのが楽しみだった。
同級生と話しながら自分宛の封を開く。だいたいみんな、へたくそな丁寧語でおもしろくもないことが書いてあった。僕のも例に漏れずだ。
もう一枚の手紙は母宛だった。でもこんな物を渡すほど、母とは仲良くもない。
愚かで憎い大人にならないために沢山勉強して、暴力に屈しないために沢山鍛えた。だから、昔のように、強く当たられる事はない。けど自分も大人になってよく分かった事がある。やっぱり母は、クズだ。まともな会話は不可能だった。何度も譲歩しようとしたけど、不可能だった。
だから、こんな手紙は渡せないと思う。
別に険悪ではないし、成人式にも嬉しそうな顔で送り出されたけど。母の頭の中には、都合のいいことしかつながっていない。何も考えてはいない。だから、論理的な会話はできないのだ。そのくせ感情的だから、厄介だ。すぐにキレる。
だから、この手紙はこのままなかったことにして、捨ててしまおうかと思った。
でも、ゴミ箱の前まで来て破り捨てようとしたとき、不意に興味が沸いた。十年前の僕は、あの母にどんな言葉を贈ろうとしたのか。
自分くらい知っても損はないだろう。
きっと空っぽの言葉ばかりが並んでいるのだと思う。外の封筒は綺麗で、キラキラとした、女性の先生が選んだのだなと納得できるデザイン。
綺麗な家族愛みたいなものが育まれることを期待して先生はこういう企画を立てたのだろうけど、封がしてあるのに中身のない封筒なんて、安っぽい粗悪品みたいだ。
粗悪品の家族愛。
粗悪な大人に向けた、安っぽい愛情。
気持ちが悪いな。やっぱりこれは、誰かに見せる事はできない。
丁寧に封を破ると、便せんが一枚足下に落ちた。
そこには、とてもシンプルな一文が書かれていた。
今朝見た母の顔を思い出す。
十歳の子どもに、こんな事を書かせてしまう人間が、
『はやく死ねよ』
どうしてあんな風に笑うことができるんだろう。
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全てのヒトが、優しい心を持っていますように。