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人は忘れる生き物だからいつか忘れるのだろうけれど、こうして手をつないで歩いた事実が消えるわけじゃない。

 

 いつか君の心から僕がすっかり消えたら。

 記憶を無くす病気をテーマにした映画を見て、そう考えた。

 病気にかからずとも人には忘却がある。

 使用頻度の高い記憶は取り出しやすく、頻度の低い記憶は取り出しにくくなる、ある意味合理的な造りだ。

 が、消えたのが知識ならば学習して身に着ければ良いが、思い出はそうはいかない。

 己が歩いてきた道筋であり、周りと築いてきた関係性だ。

 この手でしっかりつかみ取り、どんなに大事に握りしめていても、いつかはどうしようもなく指の隙間からこぼれていってしまうものではあるのだが。

 君と僕はただのクラスメートで、まともに話した事すらない。きっと己は君の思い出の片隅にすら残るまいと、思っていた。

 だが、映画を見て、無性に切なくなった。一過性の感傷だ。少し感化されただけ。

 なのに、鼻をすすりながら映画館を出たらばったり君と会った。買い物をしていたのだろう、近くのブティックのロゴが入った袋を()げている。

 何て偶然だろう。

「……ずっと、好きでした」

 気付いたら、驚いて立ち止まる君にそう言葉がこぼれていた。

 君のアーモンド型の目が丸くなる。

「あ、好き、です」

 過去形で言ってしまった事に気付いて言い直すが、うわっつらを取りつくろうよりも伝えたい事があるはずなのに、肝心な事は何一つ言葉にならない。

 どんな言葉ならこの気持ちは伝わるのだろう

 長い髪を掻き上げる指の形が綺麗だとか、それで露わになる首筋にドキドキする……ってのは言えない。変態くさい。絶対引かれる。ドン引きだ。

 笑った時によく目をつぶるクセがある君。長いまつげが頬に影を落として、口の端にちょっとシワが出来るのが可愛い。

 考え事をしている時に少し口をとがらせて、耳たぶを触るクセ。教師に授業中指されて、君はそこに答えを導くスイッチがあるみたいに耳たぶを引っ張る。答えられる時もあれば、わかりませんとうつむく時もあるのだが。ずっと、君の耳と思考回路についての不思議が訊いてみたかった。

 言葉を探す僕の思考は目まぐるしく迷走し、頭の中にあるたくさんの引き出しを片っ端から開けて回る。

 中に君が好きだという気持ちだけが詰まっているのに。これを君に全部見せられたらきっと伝わるのに。

 中にはきれいなだけのものとは言えないものもあるので、全部は見せられないだろうが。

 こんなにたくさんの記憶も、きっといつかは。

 僕の中からも、いつかは大好きだった君は拭い去されるのだろう。

 言うならきっと今しかないのに。

 実際には数分も経ってはいないだろう。もしかしたらほんの数十秒くらいしか経ってないのかも知れない。

 君はポケットから今日の澄み切った空みたいな水色のハンカチを差し出した。

 言葉が出ない代わりに緩んだ涙腺からまた涙がこぼれていて、僕は慌てて袖で拭う。悪いからいい、と言ったが、どうにも止まらなくて、いいから使って、と君は気にしないでというように笑う。

「いい映画だったんだね」

 柔らかい笑顔のまま映画館の電子看板を見上げてから、僕に首を傾げて訊いた。

「どんな映画だったの?」

「記憶が、無くなる病気で」

「記憶喪失?」

 君は僕の手をつかんで引いた。

 僕は君とばったり出くわした入り口で突っ立っていて、通行の邪魔になっていた。それだけではなく、どうも周りに注目されていた様だ。

「いっぺんに全部消えるんじゃないんだ。ゆっくり記憶が消えていって、周りにいる人を、忘れてしまう」

 説明しながら、何でこんなにじろじろ見られるのだろう、と考えて、思い当たった。僕は出会い頭に告白して泣き出した男だ。軽く恥ずか死ねる。

「友達も、家族も、」

 愛する人さえ。拳を握ったつもりが、柔らかなものをきゅっと握りしめてしまって、あれ、と思う。

 何故か僕は君とナチュラルに手をつないで、手を引かれて歩いていた。

 きゅっと握り返されて、泣いてるせいじゃなく顔に熱が集まる。

 わけのわからない叫び声が上がりそうになった。

「忘れちゃうんだ」

 切ないね、と前を向いたままの君の目が言う。

「好きなとこも、好きだった事も忘れちゃうの?」

 思い出も、関係性すら。

「恋人が、彼女が忘れるたびに『はじめまして』から始めて、どんな風に告白したか、どこでデートしたかとか、彼女に話すんだ」

 彼女のアーモンドの形をした目が僕を振り返る。

「彼女が忘れてしまっても、彼が覚えてる」

 彼の記憶も、決して完全ではないだろう。人間は、忘れる生き物だ。

「彼女はそうしてまた恋人を好きになる」

 そして、また、忘れてしまうのだが。

「いい映画だね」

 君はぽつりと言った。

「いい映画だった」

 周りにいる人達がたまらなく愛しく思える、いい映画だった。

 いつか記憶は消えてしまうだろう。それでも、消えてしまうからといって、行動するのは無意味じゃないはずだ。というより言わずにはいられなかった。

「たとえいつか忘れてしまうとしても、言っておきたかった」

 誰にも知られる事も無く己の中で消えてしまうなら、なかったのと変わらない気がして。

 聞いて欲しかった。

「言ったら満足した?」

 君は首を傾げた。僕とつないでるのと逆の手でしきりと己の耳をつまんでいる。

「考え事?」

「うん?」

 君は逆側に首を傾げる。

「だって、耳いじってるから」

 考え事をする君のクセ。

 指摘すると、君は「ああ、ホントだ」と目を丸くする。気付いてなかったのか。

「何となくね、よく目が合うな~って思ってはいたんだ」

 耳を引っ張りながら、君は前を向いて呟く様に言う。

「でも、気のせいかなって。目が合った気がしても、何となくちょっと視線ずれてたり、したし」

 自意識過剰とか思われるのヤだし、と君は苦笑混じりに髪を掻き上げ、耳にかける。多分こうして白い首を注視してたりしたんだろう。いや、今はちょっと赤い、か?

 恥ずかしいから視線をそらしてました、と白状するのは恥ずかしいので黙秘させて下さい。これはもう消えた方が良い記憶な気がする。多分今消えて良い記憶だ。抹消したい。

「自分でも気付かなかったクセを知られちゃうくらい、見られてたんだと思うと、何か私、すごい鈍いね」

 歯切れ悪い君の、耳も首も赤い。ずっと前を向いてる少しうつむきがちなかおも、赤いのかも知れない。

 時折もじもじと動く指先が僕の手をトントンと叩いて、君が照れている事を伝える。きゅっと握ると、君は不意に立ち止まった。

「ねえ、その映画、いつまでやってるのかな」

 ええと。

「確か、今月いっぱい、かな」

 こちらを振り向かない君の、形のいい丸い頭に答える。

「また観たいって思える映画だった?」

 僕は、君の事を見ていたけど、まだまだ何も知らないんだなと思う。たとえば、こんな風に遠回しな誘い方をする事とか。

「うん。でも、また泣いちゃうかも知れない」

「そしたら、また私がハンカチ貸すよ」

 垂らした釣り針の擬似餌が誘う様にきゅっと握られた手を、僕は握り返す。

「じゃあ、一緒に見に行かない?」

 うん、とうなづく君の、きゃしゃな肩からふっと力が抜けるのが見えた。

「いつにしようか」

「その前に、どっか入らない?」

 通りを行く人達が迷惑そうに僕達を避けていくので、今度は僕が君の手を引いた。

 赤いかおをうつむかせ、はにかみながら、うん、と君はうなづく。

 記憶はいつかなくなってしまうが、僕達もいつかあの映画の恋人達みたいに記憶を分け合えるだろうか。

 たとえいつか忘れてしまうとしても、誰かに話せば、きっとカケラくらいは残るはず。

 だからきっと、この気持ちも、行動した事も、無駄じゃない。

 きゅっと君の手を握ると、握り返されてまるで「そうだね」と言ってくれてるような気がして、あたたかな気持ちになった。


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