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二章二節

 雨音はその一言だけを残して、後の句が告げない。 それもその筈。 何故か武明が泣いていた。

「怪我とか、大丈夫……。 痛いところは」

「……別に」

 お前に関係ない。 そもそも何でお前が泣くんだ。 雨音はそう言おうと口を開いたのだが、どうしてか躊躇われて結局言えない。

 ぽろぽろと透明な雫を両方の目から零している自分よりは年上の少年に、雨音はうろうろと視線を彷徨わせ、しまいには困りきった顔で手を伸ばした。

「あ、あれ。 すいません、これは」

「なんでお前が泣くんだ」

 呆れたような声音でごしごしと、未だ退いても膝を突いて心配していた武明の頬に伝うそれを、雨音は自分の水干の袖で拭う。

 いささか荒いようなその手つきも、乱暴と言うよりは慣れていないと言った方が良い。

「す、すみません」

 恥ずかしい。 いや、格好をつけたいわけでもないけれど、こんな年下の自分が守って当然の子供の前でこの体たらく。

 しっかりしよう。 切実に心に刻む武明だった。

 ちらりと、武明の顔から手を放す雨音を見れば、呆れた表情ながらも怪我はなさそうに見える。

(良かった。 怪我はなさそうで……)

 ほっとした思いが表に出ていたのか、それを見た雨音が口許を硬くして胡乱げな視線を向けた。

「わざとじゃないだろうな?」

 心なし、声が冷たさ一段増しだ。

「何でそんなことを、しなくちゃならないんですか。 違います」

 じとっとした紺色の瞳。 いつもは丸く大きなそれが今は半分くらいで呆れた色に染まっていた。

「…………」

 物凄く疑わしそうな眼で見られている。

「疑ってませんか? その顔」

「別に。 わざとじゃないなら、ドジとしか言いようがないと思っただけだ」

「ど……」

 確かにそうかもしれないが。 それにしたってもう少し言い方というか、 何かあるはず。

 だが、先ほど自分でも思ったことで否定も出来ない。

 さりげなく沈んだ様子を見て、雨音は一度表情に焦りに似たものを浮かべたのだが、ショックで沈んでいる武明には見えていなかった。

 何かを言いかけて雨音は桜色の唇を引き結び、結局何も言わずに歩き出す。

「あ、雨音殿」

 何処に? とその後ろから武明がひよこよろしくついて行く。

 声を返さないが追い返す素振りも見せないので、ついて行っても良いのだろう。 その歩みが向ったのは、帰りに寄れと雨音が言った場所。

 ついなの仕事をしている室だった。

「おや。 二人で来たのですか」

 訪れた二人を見て、ついなは微笑を浮かべる。

 その微笑に、雨音は「来たくて一緒に来たわけじゃありません」的なものを浮かべていたが。

「父様がお呼びになったので連れて来ただけです」

「うん。 それでも、一緒に来たね」

「……」

 にこにこにこにこ。

 一遍の崩れも無い完璧な微笑みに、雨音だけでなく武明も何も言えない。

 しかし、

(流石は吉野様っ)

 と、武明の方は何だか若干雨音の沈黙とは違っていたのだが。

「さて、春日殿。 退出の刻にお呼びして申し訳ありませんが、少しよろしいでしょうか?」

「はい。 何でしょう」

 居住まいを直して、武明はついなの前に座した。

 その様子をむすっとした表情で見つつ、雨音は何も言わずについなの視線に促されて武明の横に座る。

 座るのを見てから、ついなはおもむろに口を開いた。

「調伏の日取りが決まりましたので、お知らせしなくてはと。 七日後、場所は萩原の近くある屋敷です」

 ここですと言いながら地図を指し説明する。

 手順などの確認をして、退出するころには陽が月と入れ替わる時間帯だった。

 茜と薄紫色の混じり合うような空。

「では、失礼いたします」

「よろしくお願いいたしますね。 ……雨音、お前も帰りなさい。 私はまだやることが残っているから」

 武明が室から退出する時、同じく帰るように言われた雨音はその言葉に何か言いかけて、結局何も言わなかった。

 そしてスタスタと歩き去りそうなその雨音の後を、武明は慌てて追いかけようとして、自分がまだ押し付けられた仕事の途中だと気づいて声を上げる。

「雨音殿! すいません、待ってください」

 ついなの邸は、陰陽寮からそれほど離れているわけではない。 けれど、子供一人で歩かせるには時間も時間だ。

「すぐ終わらせるので、少し待っていてくれませんか?」

 武明の抱えた仕事に、雨音は訝しげな顔をする。 そもそも、こいつは先日自分の言った事を覚えていないのか? そう雨音の顔には書いてあった。

「……自分の仕事も定時に終わらせられない奴が、調伏など出来るのか?」

 雨音の呆れた声音と瞳に武明は視線を泳がせる。

「いえ、あの、これは……」

 何と説明したものか。 体よく押し付けられた仕事が終わらないのです、とは流石に言えない。 流石に。

 しかし、言い淀んでしまったのが運の尽きだったのか、それとも雨音が変に化け物じみて勘が良いのか、兎にも角にもその幼さの残る顔に呆れとは別の感情が混じった。

「…………。 お前のじゃ、ないのか」

 そう言って、雨音はじっと武明を見て、のたまう。

「馬鹿か。 お前」

 そこには怒りのようなものが滲んでいた。

「押し付けられたなら、突き返せ」

「それが出来たら楽なんですが……そうもいきません」

 バレた事でもう何も言えなくなった武明だが、雨音の眉間に寄ったシワを和ませようとそう言って頬をかく。

「そうやって、へらへら笑ってるから押し付けられるんだ」

 一刀両断である。 返す言葉も無い。

 武明も一瞬、遠い目になった。

「そうですね。 そうかもしれません」

「わかっているなら! ……何だ、何かあるのか。 笑うな!」

 雨音の様子に、くすくすと武明は笑った。 苛立ったように、雨音が武明との距離を詰める。

 その衣の端を掴み、はっきりと怒りの色を瞳に宿して言った。

「笑うな馬鹿。 何がおかしい!」

 猫が怒って毛を逆立てるような様子に、武明は込み上げた笑みに震える肩を堪えながら言う。

「す、すいません。……ありがとうございます」

 武明の礼の言葉に、雨音は奇妙奇怪なものをみたような胡散臭げな色を瞳に浮かべた。

 人に馴れない動物が警戒する様子と似通った雨音へ、武明は膝をついて視線をそろえ手を伸ばす。

 武明の指先が伸びて自分に触れようとしているのを察して、びくりと雨音の身体が震わした。

 大きな紺色の瞳に痛みに似た怯えの色が浮かぶ。 その色があまりにも悲しい色に思えて、とっさに伸ばした手を引っ込めそうになるも、その頭に置いて軽く撫でる。

 武明は雨音と目線を合わせて笑った。

「ありがとう、雨音殿」

 もう一度、その言葉を口にする。

「な……」

 何が。 そう言いたかったのだろうか。

 雨音がはっきりと言葉に出来ないのは、怯えと困惑の所為なのかもしれない。

 覗き込んだその瞳が『どうして』と声なく問うているように思えて、武明はちくりと胸に小さな痛みを覚えた。 同じではないかもしれないけれど、その問いに思い出す。 その問いを抱いた時を。

「やめろっ」

 雨音が声を上げる。 わからなければ、怒気にしかきっと聞こえない声。

 けれど武明には悲鳴のように聞こえていた。

 頭を撫でる武明の手を雨音は振り払い、一瞬だけ辺りに視線を走らせて安堵したような気配を漂わせる。 その様子が示すもの。 すぐに雨音は武明を睨みつけた。

「触るな」

 紺色の瞳は揺るがない。 それなのに、今にも泣きそうに見える。

「…………」

 強い拒絶のその下に、見え隠れする感情。

 それは酷く懐かしく、そして哀しい。

「雨音殿」

「…………」

「私……僕は、あなたと手を繋ぎたい」

 目線を同じにしたまま静かに、武明は振り払われた手を、雨音に差し出した。 拒絶された手を、もう一度差し出す。

 仕事だからじゃなく、自分として向き合いたいと思ったから、公言葉はやめて。

「僕は、あなたと友達になりたい」

 大きな紺色の瞳が瞠られ、懸命に動揺を押し隠そうと揺れた。 ほんのりと色づいた小さな唇を、そっと雨音が噛み締めたのは、一瞬。

「……いらない。 俺はごめんだ」

 応えずに微笑む武明に、雨音は一歩後退りをした。

 怯えと困惑に瞳が揺れているのを見て、武明は一度手を引っ込める。

 武明の手が引っ込められた瞬間、雨音の瞳に影が落ちて僅かに顔が俯く。 しかしその顔が次の瞬間にまた驚きに固まった。

 立ちながら、触れるか触れないかの柔らかさで頭を武明が撫でたから。

 手が離れて、雨音が顔を上げれば、そこにはどこか楽しそうな笑顔があった。

「一緒に帰りましょう。 雨音殿。 ……だから少し、待っていてください」

 その言葉が、何故かもう一度「大丈夫ですよ」といわれた気がして、雨音は言葉を失った。

「すぐ終わらせますからね。 平気です。 慣れているので早いですよ?」

 武明が笑う。 勝てない。 そう思ったのかは定かではないけれど、雨音はその顔を途方に暮れた子供のように見つめて、やおらその抱えたものの一つを奪うように引き取って、悲鳴のように言った。

「お前に任せてたら、帰れそうも無い!」

 言って駆け出した雨音に、慌てて武明は後を追う。

「あ、雨音殿。 走ったら叱られますよっ」

 小さなその背を追いながら、小さく武明は呟いた。

「今度こそ、僕は逃げない」




 誰だって、傷つくのは嫌だ。

 信じて、裏切られるのは、嫌だ。 その相手が好きなら、尚更に。

 裏切られたら、怖くなる。 それなら、最初から信じなければいい。

 雨音は後ろから走ると怒られますよと声を掛けてくる武明にそう思った。 決して信じてはいけない。 信じるのが怖い。 父以外の人間は、いつだって簡単に手のひらを返す。

 上辺は優しいのに、その裏側を見てしまったら、違う。 瞳の奥にあるのは、言葉とは違う色。

 それを見たくない。 もう見たくない。

 だから、人間なんて、大嫌いだ。




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