二章一節
弐
寮内を雑用係の下っ端は慌しく駆けずり回る運命だ。
「ええと、これが村雨殿のところで。こっちが暦生の……」
両脇に料紙の束と書簡を抱えて武明は夕刻の寮内を、走ると叱責が飛んでくるので、競歩で歩き回っていた。
自分の分量はすでに終わっているはずなのに、いつものようにその両腕にはまだ仕事が残っている。
(早くしないとっ)
早くしないと今度は夜勤の者が続々来てしまう。 そうなると定時どころか丑三つ時に帰宅となりかねない。
なんとも悲しい運命だが、流石にそれだけは是非とも遠慮したいと思って、動く。
その甲斐あってか徐々に減っていく仕事に帰宅への道が見え始めた頃。
「春日殿」
背後から声が掛かった。
丁度最後の仕事を終えた時に。今、終えたのに。
「……はい、なんでしょうか?」
心の中で涙を流し、やや引きつった笑顔でそちらを振り向いた。
佐上直継、同じ陰陽生だが武明より少しだけ早く入寮した人だ。
少しとはいえ、先輩であることに変わりない。
冷たそうに整った顔立ちだが、そこが良いのよと女房たちの間でも人気がある。
「顔色が悪いな。大丈夫か?」
そうは言っているものの、冷ややかな表情はそれが単なる社交辞令の上での言葉だと語っていた。
(慣れたんですけどね)
何故か入寮当初からこの少し先輩には良く思われていない。
武明としては何かした心当たりが無いだけに困惑もあるのだけれど、それも流石に慣れる。
慣れてもやはりこういう時は地味に沈むなぁ、とか思いつつ。武明も大丈夫ですと返した。
たとえここで「無理です。本当に疲れてます」と言っても結果は変わらないだろう。
むしろ悪化する可能性さえある。
「そうか。流石は春日殿だ。その程度ではお疲れにならないと」
疲れてるに決まってるでしょう。
本気でそう言いたい所だが、言ったらそれこそ大事になってしまう。
とりあえず聞き流して、早く押し付けられるならその仕事も終えて、帰りたい。
そう思って相手の言葉を待っていた。正確には押し付けられるだろう仕事を。
けれど、その口から出たのは思っていたものではなく。
「まぁ、そうでもなければアレと共に行動など出来ないものですからね」
「アレ? ……申し訳ありません、アレとは?」
指すものが解らなくてそう返すと相手は辺りを窺い、人気がないと確認すると声を潜めて言う。
「吉野様の仰せでアレと組むと聞き及んだのですが」
吉野様。
仰せ。組む。
それらの単語に連想されるものは一つ。
思い至り、しかしその言い方に不快を覚える。
「ええ。雨音殿と協力してと給わっておりますが」
アレなんて呼び方は、嫌な呼び方だと思った。自分が呼ばれたのでなくても。
人は、物じゃない。
「気をつけたほうが良いですよ。あれは人ならぬもの。背を向ければいつ襲われるともしれない」
「え」
何を言っているのだろう?
そう考えが顔に出ていたのだろう。
先程よりもさらに静かに、囁きも同然で相手は言ってくる。
「アレは、ハザマなのですよ。何をお考えになってか、吉野様は妖の者を妻君になさったと、これは多くのところにて囁かれておりますが、春日殿はご存知でなかったのですね」
この大陸でハザマとは、種族と種族の掛け合わせで生まれたものを指す。
たとえば、人と妖など。
多種族との交わりで生まれたものを全般的にそう呼ぶのだ。
気をつけろというのは、ハザマには「狂い」というものになる者が多いと言うことから注意するもの。
狂いとはそのままの意味で、強い破壊行動や異常な嗜好に走るものを指す。
(誰がそうなると? 雨音殿が? あの……)
まだ九つの幼い、子供が?
「……そんな噂があるとは、存じませんでしたが。あくまで、それは噂なのですね?」
正直に言えば、馬鹿げていると思った。
それでもそれを馬鹿正直に口に出すことは出来ない。
武明の言葉は相手の期待していた言葉ではなかったようだ。
相手は少し眉をひそめ、軽蔑とも侮蔑とも言える色を混ぜた視線を遣してくる。
「そうでしたね。春日殿は吉野様のお取立てで。これは余計な事を言ってしまいましたか」
(何だろう……今、すごく……)
気持ち悪い。
ぞわりと腕や足に何か不快なものが触ったかのように思えた。
先ほどから佐上の語る言葉は、酷く気持ちが悪いと感じてしまう。
「いえ、そのような。ただ、あくまで噂なのでしょうと。私は」
「まぁ、そういう春日殿には案外似合いかもしれませんね」
言葉を遮るように、相手の声と視線が響く。
自分と異なるものを良しとしない、目。
その目には見覚えがあった。
だから”思い当たった”のだ。気持ち悪さの正体に。
「アレと。そうそう、共に行動すると言うことでしたね。それでは同伴してしばらくは出仕を控えていただけると、助かります」
ひたりと冷たい視線が注がれる。
「穢れを持ち込まれては、困りますからね」
「っ」
喉が凍りついた。
何も考えずに相手を睨み付けそうになった絶妙の間で、第三者の声が聞こえた。
「それは、大変失礼いたしました」
空気が音を立てて凍る。
しかし凍ったのは武明だけではなかった。
息をするのも苦しいような時間は、きっと実際には瞬きほどだったのだろう。
だが、とても長く感じられた。
床板を踏むと言うにはまだ軽い。
自分たちよりも頭二つ分は小さい童水干姿で、雨音は武明と向かい合っていた相手の数歩手前の背後に歩み寄って足を止める。
「佐上殿、その節はこの身至らずご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。お加減はいかがですか?」
佐上は、形の良い眉をひそめ嫌々とした風に言葉を返す。
「大事ありません」
決して背後の雨音を振り返ったりしない。
その表情も、見えないだろうからと浮かべられているのだろうが、こちらを見つめてくる雨音の紺色の瞳がはっきりと見なくてもわかっていると言っていた。
その瞳と武明の目が合う。
雨音の口が、声を出さずに動く。
黙ってろ。と。
そして、雨音は佐上へと声を続ける。
「そうですか。それならば安心いたしました。……申し訳ありませんが、春日殿に少しばかり伺いたいことがございますので……」
「好きになさるとよろしい。私はもう済みました。失礼」
そのまま、佐上は武明の脇を通り過ぎていく。
心なしかその足音は早く、まるで逃げるようなものだった。
「あま」
「父様が呼んでる。帰り際によって行け」
それだけ言ってくるっと雨音は武明に背を向ける。 素っ気無い声と態度はいつもの事だったが、それが傷ついている証のように思えて半ば反射的に、その背に手を伸ばす。
「待ってくださ」
「!」
しかし、踏み出した一歩が自分の裾を踏みつけていた。
「わ、わわ!」
ぐらっと視界が揺れ、盛大な音を立てて廊下に倒れ込む……、
「……あれ?」
にしては痛みが少ない。痛いことは痛い。
けれど、何か変な痛さというか、廊下と自分の間に何かがあるような感じがする。
その間にあるものが、くぐもったような声を上げて。
「う、わぁ!? あ、あああ、雨音!」
声に顔から血の気を引かせ、がばっと身を起す。
(頭とか! どこか強く打ったりは!)
見事に下敷きにしてしまった。潰した。
どこか怪我でもしたのではないかと、呻きながら頭と背をさすっている雨音を見る。
顔をしかめつつ、そんな武明の視線に気づいた雨音は「良いから行け」と言おうとして、ぽかんと目を丸くした。
「え」