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一章五節

「……」

「人によって好悪の表し方は違うのでしょうけれど、相手に興味があるから傷つき、時に好くものではなくて? もとより、無関心の相手にはその情すら生まれぬものだと、私は思うのだけれど」

 言ってから武明を見て、女性は立ち上がる。

「年を取ると説教くさくて嫌ね。空気は暗くなるし、割に合わないわ。まぁ、ともかく言いたかったことはね、本当に嫌いな相手には怒ったりしないってことよ」

 はい、しめっぽいのはお終い!

 少女のような女性はパンッと両手を叩いて、思い出したように首を傾げた。

「ああ、そう言えば。何か先ほど言いかけていたわね。何だったのかしら?」

 実に話の切り替えの早い展開に、武明は言葉を詰まらせ、やがて聞いてよいものかと女性を窺い見る。

「何かしら? 私ははっきりしないのは嫌いよ。はい、一・二・三」

「うわ、あ、あの、お幾つですか!?」

 容赦の無い秒読みと嫌いという言葉に急いだ結果、口から出た言葉は色々省いたそれだった。

「…………」

「…………」

 一瞬にしてどちらの動きも止まる。

 にこにこと微笑んだままの女性が、何故かやたらと怖く感じるのは錯覚だろうか。

 ふぅ、とため息を一つついて、女性は武明に声をかける。

「坊や。一つこれからの人生において大切なことを教えてあげるわね?」

 だらだらと背中を汗が伝い落ちていく。

 暑いどころか自分の周りだけ極寒な気がするのに、汗は一向に止まらない。

「女性に歳を聞くからには、それなりの覚悟が必要なの、わかるかしら?」

 コクコクと上下に首を振り、ついで深く一礼。それくらいの迫力が女性にはあった。

「申し訳ゴザイマセン」

 心中では叫びながら、現実では絞り出すような声で。

 武明がそう言うと、女性は頷いて。

「よろしい。そうそう、もうお帰りかしら。だったら、帰りは門をくぐってちょうだいね。築地から出入りされると、痛むのよ」

「あ」

 指差された箇所を見やると、確かに瓦がずれていたりとかしている。

 勢いというのは怖い。やったときはあまり考えていなかったのだが。

(よ……吉野様のお邸に僕!)

 不法侵入した挙句、損壊を。

 勢いに任せてよく考えればとんでもないことをした。

 あの時の自分が何を考えていたのかと思うも、後の祭り。

「あら。嫌ね、別に坊やだけのせいでああなったわけじゃないわよ? ちょっと、大丈夫?」

 文字通り真っ白になった武明を見てぎょっとした女性がそのショックを和らげる為かそんなことを言った。

「も、申し訳、あの、僕そのっ」

 あわあわとうろたえたその頭に、少しだけ閉じた扇が小気味よい音を立てる。

「落ち着きなさい。大丈夫よ。あれはあの人とあの子も関係しているから。まったく、二人ともというか、この地域の出入り口は門ではなく築地なのかしらね。 とりあえず、帰りをおとなしく門から行ってくれればそれでよいわ」

 だから落ち着きなさい。

 そう言われて、あまつさえ笑われてしまえばそれ以上取り乱すことも謝ることもできない。

 武明は顔を赤くしつつ申し訳なさそうに頷くしかないのだった。




 自邸に戻って廊を自室に向かいとぼとぼと歩く。

 出かけたときとこの意気消沈した様子を思い比べた家族は、一体この頃の武明はどうしたのだろうと色々気を回していたのだが、誰も幼子に怒られて帰ってきたとは思いもしない。

「はぁ……」

 文机の上に頭を載せて、頭の横には先日ついなから貰った本がある。

 そこから元気を貰おうというかのように頁を捲って、流麗な筆跡に引き込まれるように読み進めた。

「ん? あれ? これは……」

 捲ったページを少し戻ったりして、ふと見つけた変化に何度も確かめる。

(……吉野様の筆跡じゃない?)

 所々、補足や注意書きのようなもの、大切な部分を教えるように印のつけてある箇所が見られたのだが、それは似ているようで違うものだった。

 整ってはいるが、流麗というには幼い。少し小さな文字。

 まさか。そう思うと同時に、否定が浮かぶ。

(違い、ますよね。だってあんな……)

 そう考えて脳裏を過ぎったのは、あの女性の言葉。 そして、態度が硬化する前とその後の雨音の表情と声。

――― お前の音は嫌いじゃない。

――― 帰れ。二度と顔を見せるな。

 開きかけた心を、閉じたのはおそらく自分の言葉。 何がそのきっかけになったのか。

――― 練習しなければ、当然だと思う。

 音を立ててかちっと何かが欠けていた場所にはまるような音がした。目を見開いて、手元の本をもう一度まじまじと見つめる。

 本文を書き写したのは確かについなだろう。けれど、ついなだけが使ったにしては多い書き込み。

 使っていたのは随分前と言っていたのに、まだ新しい色を残す補修の跡。

 書き込み自体は色も濃く、もしかしたら武明に渡される少し前に施されたのではないかとさえ思える。

 あの女性ということも無いとは思う。

 だが、武明は何故かそれが女性ではないと直感していた。

 これは、多分。

 幼さの残る文字に触れて、瞳を閉じる。

「確かに、そうですよね。僕だって、同じようなことを考えたはずなのに」

 苦笑いのような色を含んだ呟き。そう。同じことを思ったはずなのに。

 自分に出来る精一杯のことをやろう、やったことは無駄にはならないはずだと、そう思ったはずだった。 それなのに、あの時に口から出たのは、正反対の言葉。

 何が雨音を怒らせたのか、その心を再び閉ざしたものが解る。

「まだ。間に合うかな?」

 本を手に、武明はそう呟き料紙と小筆をとった。 まだ間に合うだろうか?

(間に合わないとしても、それでも今度こそ)

 そう思うと同時に、ふと浮かんだ光景があった。 幼い頃の、それは後悔。

「そっか……僕、前にも」

 あまりに苦くて、忘れられないのに、人間はそういうものを記憶の奥底に沈めてしまう。そしてそれは同じようなものを味わった時にまた顔を出す。

「君に、伝えられていたら。それをまた繰り返すなんて、しちゃ駄目ですよね」

 伝えなければ伝わらない。以心伝心、そんなものは滅多に無い。

 だから、人は言葉や仕草を生み出した。それさえも、人によって様々で。

 伝えたいことは、上手く伝わらない。時に解りやすく、時にはとても解りにくい。

 しかし、絶対に伝わらないと言うことは無いだろう。相手に心がある限り。

「始めは……」

 さらさらと筆を滑らせる音が転がる。

 そしてこちらも相手にわかって欲しいと思う限り、思いを伝える方法は生み出されていく。

 あまねくすべてを繋ぐ絆のように。

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