一章四節
一瞬、全てのものが凍りついたような錯覚さえ抱かせるような声音で、その言葉を言った雨音は声と同様に今までにないほど冷たく鋭い色を瞳に宿していた。
「え。雨音殿? ちょっと」
待ってください。
そんな言葉を言わせない迫力があって、武明は心中でだらだらと汗を流す。
年など関係なく、本気で怒っている人物は怖いのだと、このとき初めて知った。
「楽は腕だけでやるものじゃない。けど、そう考えているヤツは嫌いだ」
吐き捨てるとまではいかないが、それに近いものを感じさせるような言い方だった。
さっと雨音は立ち上がり引き止める間も無く、今度こそ振り向きもしないで廊下の先に消えてしまった。
追いかけた方が良いのかもしれない。
けれど、どこかで何かが警鐘を鳴らしていた。
今いっても話す所か下手をすれば金輪際会ってくれないな気がする。
少なくとも、怒らせた訳を自分が理解しない限り。
「なんだか解らないけれど、まずかったかな」
何がまずかったのかわからないのが、一番の問題かもしれない。
(途中までは上手くいきそうな雰囲気だったけれど)
肩で溜息を吐いて、笛を見る。
「何が……いけなかったのかな」
笛が好き。
楽を奏でるのが好きだと聞いたから、そこから糸口が見つかればと思ったのに。
勢いで突っ走ってみたものの、あの一言で歩みが止められてしまった。
しおしおと花が枯れるように気持ちがしぼんでいく。
再びの溜息をついて顔を上げた時、真横から声が聞こえた。
「あら、可愛い坊やがどうしたのかしら?」
「うわぁっ?」
突然気配もなかったのに聞こえた声に、思わず飛び上がって素っ頓狂な声を上げて腰掛けていた廊下から庭に転がり落ちる。
下手したら首が危ない落ち方で、二重の意味で冷やりとした。
心臓の動悸を抑えるように片手を当てて、座り込んだまま声の主を見上げ、さらに衝撃を受ける。
「大丈夫? 坊や」
すっと手を差し伸べてくるその人は、妙齢の女性。
東域の女性は普通、伴侶や家族以外の前に出るときは扇などで顔を隠し、こんな風にからっとした笑顔で初対面の少年といえど、男性に手を差し伸べたりしない。
まずそこが驚きなのだが、このときばかりはその常識的な驚きよりも、他に目を丸くせざるおえないことがあった。
その髪の色。
他の地域には時折いると言われているが、東域では黒か濃い茶色がほとんど。目の色も同じくだ。
けれど目の前の女性は、そんな他域でも滅多に無いだろう色彩だった。
風に揺れ陽光に透ける柳の葉のような浅緑の髪に、長い睫に縁取られた大きく形の良い青みがかった緑の瞳。
肌は白皙の言葉が良く似合う、これは寒さの厳しい北域の特徴であるもの。
それでいて身に纏っているのはこの地域のもので。 濃紅梅の小袿がその肌と髪、何より生き生きとした表情に良く似合っている。
さらに、一番目をひきつけたのは顔立ちだった。 それは今さっき氷点下の視線と言葉を残して去っていった人物と似通ったところがあって。
同じ邸にいて、こんなにもくつろいだ雰囲気。 いると聞いたことは無いが姉君かどちらにしても血の近しい人で間違いは無い。
「あの……あなたは……」
「大丈夫なのかしら? お返事はしっかりしましょうね」
「あ、はい。すいません、大丈夫です」
「よろしい」
立ち上がって姿勢を正し、答えた武明を見て、目の前の女性はにっこりと微笑む。
手には一応扇を持っているのだが、開かれる様子も無く、顔を隠すことは無い。
姿勢と一緒に常識を思い出し、慌てて目をそらそうとした武明に女性は明るい笑い声を立てる。
「ああ、いいわよ。気にしないで。平気平気」
「いや、そういうわけには!」
「私が良いと言ってるの。坊やは従いなさいな」
子どものように、にっとした笑みを浮かべ、女性はそういった。
声にも表情にも自信が込められており、なんとなく従ってしまう。
けれど、さすがに坊やと呼びかけられるとは。
「坊や……」
なんとなく、色々衝撃なのだが。
見かけとしては自分より少しだけ年上という程度にしか見えない、良く見れば少女と言っても障り無い女性はコロコロと鈴の音を転がすような声で笑い言う。
「そうよ。ねぇ、可愛い坊や。あなたはもしかして雨音のお友達かしら?」
スススッと何か期待するような面持ちで女性が廊下の端ぎりぎりまで武明に近寄ってくる。
その言葉に武明は視線を彷徨わせたが、俯いて小さく首を横に振った。
先ほど友人になるどころか、二度と顔を見せるなといわれた立場だ。
「いえ、あの」
「違うの?」
途端に、女性の声が気落ちしたような色を滲ませる。
その声が本当に残念そうで、武明は思わず反射的に頭を下げた。
「申し訳ありません」
「……まぁ、仕方ないわね。いいのよ。こっちこそいきなりごめんなさいね」
ひらひらと手を振る女性はそう言ってその場に座った。円座などもないただ廊の板の上に。
やはりありえない行為だと認識するのだが、女性は一向に気にする気配もない。
「それで、可愛い坊やは何をそんなにお悩みだったのかしら?」
くるくると片手で扇を弄ぶように回して、聞いてくる。
「随分気落ちしていたようだけれど」
片手でぱっと扇を開き、裏にしたり表にしたりその絵柄を見たり。
初めて会った人物、しかも女性にそこまでは言えない。
それに未だに事態が飲み込めないのにそんなことを言われたって、上手く答えられなかった。
押し黙ってどうしたものかと内心大騒ぎの武明を、女性がひたりと見据える。
「返事も返せないのかしら? しゃきっとしなさい、しゃきっと」
怒鳴るでもないのだが、妙な迫力があった。
言われ、固まっていた口から勝手に言葉が出る。
「すいません、あの、実は」
言い出せば、おかしいと思う間もなく次から次へと事情を話し、全て聴き終わった女性がなるほどという顔で頷く。
「そうねぇ、それはあの子も怒るでしょうね多分。 でも、ようは当日組むだけで良いのでしょう? 坊やがそこまでする必要なんてないのではなくて? 放っておけば良いのよ。その日が過ぎれば、もう関わることなんて無いのだし」
そうなさいな。
軽く言う女性の声がするりと心の中に入ってくる。
「坊やはよくやったわ。 もう十分よ。 ね?」
穏やかな微笑みに思わず頷きかけて、思いとどまった。
風が頬を撫でていく。
踏みとどまったわけは自分でもわからない。
固まったように動かない武明を見据えて、女性の笑みが深まる。
一向に武明が頷かない様子に、女性は手にした扇を音立てて閉じて日差しのようにからからと笑った。
「あっはは、良い子ね坊や。本当に良い子。うん。気に入ったわよ?」
にんまりとした笑みを浮かべて満足そうに見つめてくる女性に、武明は戸惑いながらもただ頭を一つ下げる。
上機嫌といった風の女性が、閉じた扇を自らの口元に添えて、何かを考えるように一度廊の先を見た。
「あの」
「ねぇ、坊や。本当に嫌いなものに対する感情の表し方って知っているかしら?」
突然の問いかけに、言いかけた言葉を飲み込んで、武明は考える。
ここで答えを返さなければまた怒られる気がして。
「……睨み付けて避けるとか……でしょうか」
言った瞬間、落ち込んだ。
まさにそれをされたわけだから、自分で言うのも何だが結構地味に痛かった。
が。
「はい、はずれ」
べし。いつの間にか開かれていた扇が、軽く頭を叩く。
何度も言うが、普通の女性はこんなことはしない。
驚いて目を白黒させている武明に、女性は子供っぽい表情で言う。
「え。あの」
「はずれよ。しかも結構大きな、ね。いい? 本当に嫌いなものに対する感情の、正しい表し方っていうのはね」
開かれた扇の上に、一羽の蝶が止まる。
すぐに飛び立ったそれは庭の花へと移っていく。
「無関心」
女性の視線が、蝶へと。
その瞬間、それまでの子供っぽさは掻き消える。 緩い流し目のような視線を庭へと。
「あれと同じような感覚かしらね」
言葉と視線が示すのは、ひらひらと浮き飛ぶ黒に水浅黄の色が入った蝶。
「あれにとって、人は危害を加えてこなければ、ただの物。嫌いと言う感情はないでしょうけれど、居ても居なくても自分には関係の無い、ただの物。ねぇ、坊や。誰かの言葉に傷ついて、何か少しでも心に波風が立つ。あるいは人の心に何かしらの衝撃を与えるヒトのことを、本当の意味で嫌いだと言えるかしら?」