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一章三節

「こんにちは。雨音殿」

「…………!」

 天気は快晴。

 こんな日は庭に繋がる廊で笛でも吹こうか。

 そう思って出てきた雨音は、築地塀をよじ登っりその上で笑いながら手を振る相手を見て、音を立てて固まった。

 じわじわと瞬間冷凍が解けてくると、引きつったような表情を浮かべ胡乱な視線を向ける。

「何をやってる?」

 雨音の訝しげな声に、あははと申し訳なさそうに笑って武明は返した。

「門が開いていなかったので」

 なのでこちらから! そんな感じで答えてから眼鏡を直す武明に、雨音の胡乱から冷たい視線に変わった紺の瞳が向けられた。

「帰れ」

 取り付く島もない一刀両断の言葉。

 いつもならここで凹んで帰るのだが、武明は築地塀の上で体勢を立て直す。

「というわけで、吉野様のご許可もありますし。先日ちゃんと先触れもしましたので、お邪魔します」

「なっ」

 予想外の武明の言葉と行動に雨音が驚いて動きを止めた間に、武明は築地塀から庭に飛び降りた。

 若干着地に華麗と言うには程遠い感じがしたが、とりあえず庭に降り立つ。

(引いて駄目なら押してみろ。そう、門がだめなら塀から入れば良いだけのこと!)

 明らかに何か間違っているが、今の武明にはそんな事はっきり言って意味を持たない。

 雑用で鍛えた動きで、あっという間に雨音のいる廊の端近くまでたどり着き。

(ふっ。最低限の動きと足運びで床に積まれた書物を避けつつ目的の棚まで辿り着くこの技術! 雑用の成果!)

「少しお話しましょう。雨音殿」

 なんて言ってさっさと廊に腰掛ける。

 その様子に雨音はあまりの衝撃に言葉も出ないのか、もしくはどう対処して良いのかわからないのだろう。

 にっこり。そんな擬音が聞こえそうな笑みを向けてくる武明をとりあえず睨みつける雨音だが、動けない。

「ほらほら、そんな怖い顔してないで。良いお天気ですよ。あ、唐果物(お菓子)持って来たので、一緒に食べましょう。甘くて美味しいですよ?」

 座って狩衣のあわせから白い包みを取り出す武明。

 その様子を見た雨音は口を開く。

「誰が」

 お前なんかと。

 そう言おうとしたのだろう。けれどその言葉は言い終わらない。

「うわっ」

「はい、とりあえず座りましょうね」

 腕を引かれ、ストンとその隣に座らせられる。

 不意を突かれたといえ、相手の言うままに座ったような形になり、雨音は怒りを込めてギッと音がしそうなほどの視線を武明に向けた。

 何と言うか、その視線だけで小鳥とかが逃げそうな迫力だ。

 すぐさま罵倒するような言葉を言ってやろうと雨音が口を開いた瞬間、すかさず何かが口の中に放り込まれる。

 反射的に口を閉じた。

 そして、その口の中にほろりと崩れてじんわりと広がる甘みに、押し黙る。

「金平糖。美味しいでしょう?」

 自分でも一つ口に放り込んで、武明はそう言った。

 頷きかけ、はっとしたように再び不機嫌そうに武明を睨みつけた雨音だったが、いつもと違うその不屈の微笑みに、その雰囲気に何やら押され、「うっ」と声を漏らしたきり結局何も言えない。

 うろうろと視線を彷徨わせ、いつの間にか逃げ出さないようにとでも言うように掴まれている片袖の袂を見て、小さな眉間にしわを刻む。

「放せ」

「放したら逃げるでしょう。別にとって食いやしませんから。ね? ちょっとだけでいいから、お話しましょう。あ、雨音殿は笛を吹くんですか?」

 片手にある龍笛を捕まえているのとは反対の手で指差し言う。

「お前に関係ない。いいから、放せ!」

「じゃ、吹いてくれたら放します。一曲だけ。一曲で良いですから」

 でなければ絶対に放しませんよ?

 どこまでも無敵の笑顔で言われた言葉に本気を感じ取り、雨音はしばらく心中で葛藤を繰り返していたようだが、何かを諦めたように武明を睨みつつも言う。

「吹くのに邪魔だ。放せ」

 最後は苛立ちながらもそう言い、武明に手を解かせて雨音は笛を構えた。

 歌口にその唇を軽く押し当てて、息を吹き込む。

 一呼吸の後、晴天に音の翼が広がった。

 高く高く、春の空を舞う鳥のように。

 自由に伸びやかに。

 笛の音にあわせて風の流れるような音。

 風に吹かれた桜の花弁が陽光に透けながら踊る。

「…………」

 曲に集中しているからだろうか。

 横目で伺い見た雨音の表情は柔らかく、その音が空に遊ぶように楽しげに見えた。

(ああ、本当に)

 笛を吹くことが、好きなのだと、わかるような表情で。

 ぽかぽかとした陽の光。響く音は楽しげに。

 短い曲が終わり、ゆるやかな笑みを浮かべて奏者へと拍手を贈った。

「…………」

 笛を手に、雨音は武明を見る。

 それは曲を奏していた時のような柔らかな笑顔ではないが、これまで向けてきた睨み付けるようなものともまた違う。

 多分、困惑という表現が一番相応しいような気がした。

「雨音殿、上手いですね。きっと将来は良い楽師になれる」

 何かを言いかけて、雨音は口ごもる。

「あ。今、お前ごときにって言おうとしましたね?」

「……言ってない」

「でも思ったでしょう?」

「……思ってない」

「本当に?」

 にやっと口元を歪めて、からかうように雨音を見る武明に、雨音の眉根が寄った。

「思ってないって、言ってるだろ」

「うーん。そうかな?」

 ちらっとそんな風に言いつつ、横目で雨音を窺い見る。

 むっとした表情で見ている雨音の様子に、武明は密かに笑みを浮かべた。あと少し。

「思ってない。……そんなこと」

「どうですかねー」

 武明の言葉に、すでにむっとしていた雨音の声が明らかにもう一段不機嫌になった。

「思ってないって、言ってるだろ。それに、腕も知らないのにごときなんて思うか!」

「それもそうですね。じゃ、お返しも兼ねて私も一曲。丁度笛も持参しておりますし」

 待ってましたと言うかのように、武明は笛筒を取り出した。

「は?」

 言葉を雨音が聞き返すより早く、武明は自分の笛を構えて吹き始める。

 雨音の曲とは反対に、どこかぎこちなく指使いも所々間違えていたり、拍子も狂った箇所がある。

 同じ曲だからこそ、その違いは顕著に現れて、吹いている自分でも酷いものだと思った。

 だが、途中でやめることはしない。

 技術は追いつかなくても、雨音と同様、音を楽しむように最後まで。

 雨音はその音を聞きながら、ゆっくりと無言で目を閉じる。

 そのまま座って、吹くのをやめさせようともしない。

 ただ、聴いている。

 最後の節を吹き終わり、武明は笛を下ろす。

 頬をかきながら座っている雨音を見遣った。

「大分酷いでしょう?」

 ゆっくりと開く紺色の瞳。苦笑いの武明を見て、雨音はぽつりと言う。

「酷くは無い。下手だけど」

 溜息をついて雨音が立ち上がるのを見て、武明は手を伸ばしかけてやめた。

 一曲吹けば放すと約束したのだから。

 それでも声だけはと。

「雨音殿」

 立ち上がってくるっと踵を返したその背に呼びかければ、振り返らないけれど声が答える。

「喉が乾いた。……ついでに持ってくるから、待ってろ」

 パタパタと小さな姿が廊下の向こうに消えるのを見送って、武明は頬が緩むのを感じた。

「下手って……」

 はは、と笑い声がこぼれる。

 正直だなぁと呟いて、青い晴天を仰ぐ。

 ゆっくりと流れる白い雲。

 膝の上には随分長いこと手をつけずにいた自分の笛が載っている。

「母上にも父上にも聞かせられないな。こんなの」

 頑張れ頑張れ。

 お前はきっとやれば出来るから。

 そんな言葉を言われて、けれどついに期待には応えられなかった。

 一度も、父も母も下手だと口に出したりしなかったのに。

 武明には自分の腕前がどの程度なのか、その頃にはもうわかっていた。

 楽の名家と呼ばれる春日の長子がこの有様などと、知られれば事だろう。

「才が無いのはどうしようも無いんだけれど」

 幸いなことに、弟や妹たちは自分とは違って確かに名家の才を継いでいる。

 お家断絶とかは心配しなくて良さそうだ。

 だが、自分が楽の道で大成することは絶対にない。

 雅楽寮に進むことが今まで大前提だった家は、さすがに頭を悩ませた。

(母上と父上には悪いとは思ったけれど)

 それでも、実はその楽の才が無いことを、武明は悲しんではいなかった。

 雅楽寮で楽師となるよりも、ずっと前からなりたいもの。

 行きたい場所があったからだ。

 楽の才が無いその代わりのように、常人には見えないものをみる能力があった。

 楽がこなせれば、両親は必ず雅楽寮に入るしか許さなかっただろう。

 それが当然でもある。

 だがその才が無いのなら、少しでも身分の向上が望めそうなほかの部署へと行くことも許される。

 名家の名に傷を付けるよりもましだ。

 そういった事情があったが、念願の陰陽寮に入れたのが嬉しかった。

(誤解もありますけどね)

 その事情を公言するわけも無い。

 だから中には勘違いをして、楽の名家で雅楽寮うたりょうではもう飽き飽きしたからちょっと気まぐれに優秀な長男が入ってきたのだと、そう思う輩もいるらしい。

 とんだ誤解だ。

 つらつらとこれまでの事を思い返していると、小さな足音が聞こえてきた。

「ほら」

 手に黒塗りの角盆。

 二人分の茶が入った椀を危なげない足取りで運んできた雨音は、一つを武明に差し出す。

「ありがとう。雨音殿」

 程なくして一杯の温めの茶を手に戻ってきた雨音からそれを受け取り、武明は喉を潤すそれを春の日差しの中で目を細めて飲んだ。

 対する雨音はどうして良いのかわからない。

 そんな面持ちで突っ立ったまま視線をせわしなく庭や廊へと彷徨わせ、やがて意を決したように顔を武明に一度向けるも、やはり決まり悪げに視線を床へ落しつつ口を開く。

「お前の音」

「はい?」

 ぽつりとした呟きのような言葉に、武明は雨音を見る。

 口を開いたは良いもののどう言って良いのか言葉を探しているような雨音の様子に、武明は言葉の続きを静かに待った。

 息を吸い込んで、雨音が顔を上げる。

 迷いの色はあるものの、刺々しい光は消えた紺色の瞳が武明を真っ直ぐに見る。

「音自体は、嫌いじゃないし酷くも無い」

 正直それは微妙な言葉だと思うのだが。

「ど、どうも」

 言った方も悩むだろうが受けた方もどう返して良いのか悩みどころである。

 少しばかり悪戯心が湧いて、付け加えるように苦笑いを浮かべて言ってみた。

「でも下手だとは思ったのでしょう?」

 武明の返しに、雨音は素直に一つ頷く。

「練習しなければ、当たり前だと思う」

 さっくりきた。

 躊躇いも無く頷かれてそんなこと言われれば、少しの悪戯心で自分が言ったとはいえ、やはりちょっと痛い。

 観念したようにその場に座る雨音を横目に、空を仰ぐ。

「練習しても、私はきっと駄目ですよ。元から才が無い」

「才……?」

 訝しげな雨音の声に、武明は頷く。

「そう。才。元々もっている才能です。それがなければ、いくら努力したって……駄目でしょう?」

 何気なく言った言葉だった。

 が、それを口にした瞬間、氷点下のごとき温度を纏った声が突き刺さる。

「帰れ。 二度と顔を見せるな」

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