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一章二節

「春日殿」

「はい」

 先輩の同僚に呼び止められ、陰陽寮の(ろう)料紙(りょうし)の束を細心の注意を払い崩し落さぬよう抱えて歩いていた武明は、そちらを振り向いた。

 その動きに、積みあがっていた料紙はぐらりと揺らぎ、慌ててバランスを保つ。 

「と、うわ」

 たかが紙と侮るなかれ。積み重ねればそれなりに重く、各所へとこれから回される暦を写したもの。一枚でも無くせば再び書いて配りなおさなければならない。

 なくしたその一枚の部署には迷惑を掛けてしまうし、よく思われないことは必至。

 印象と言うのはこういった職場ではとりわけ大事になってくるものなのだ。

「大丈夫ですかな?」

 聞きながらもその声音には体面上聞きましたという気配がしていた。

 それでも、大丈夫じゃないとは言えない。

「あ、はい。大丈夫です。何でしょうか」

 やや引きつったような笑顔を浮かべ武明がそう答えると、積み上げられた料紙、その上に更に和本が数冊載せられて。

「え」

「大丈夫なのでしたら、こちらもお願いいたします。 いやあ、噂には聞いておりましたが、さすがに優秀なご様子で。羨ましい限りですね」

 揺らぎ、今にも崩れそうなその状態をやっとのことで維持して、武明はその言葉を黙って聞く。

「図書寮に返却を頼まれていたものですので。今日中にお願いいたします」

 その声は、武明が断わることなど出来ないと知っていて紡がれている。それを感じつつも、武明は常と変わらずに返事をした。

「わかりました」

 せせら笑うような雰囲気を残したその姿が廊の先に消えた後、溜息と言葉が漏れる。

「……定刻に帰宅できそうにないな……」

 これ以外にも、まだ同じような感じで頼まれたものはたくさんあるのだ。実は。

「僕はそんな優秀じゃないんですけれどね。というか、本くらい自分で返してほしい」

 なんて、本人には言えないのだけれど。

 体面、印象。

 勤め人にとってそれはなくてはならないもの。

 絡みつく鎖だが、それによってつなぎとめられている部分もある。

 とりあえずさっさと片付けなければ日が暮れるのだけは確実だ。

 料紙を各部に配り、細々とした雑用を終えれば、吸い込まれそうに濃い紺碧の空には月が昇っていて。

「あー……。やっと、終わりましたよ。帰れる~」

 芯の粗方燃やし尽くされた灯台に照らされた室、文机に突っ伏し、ようやく帰れる状況になって気が緩んだところに、頭上から声が降ってきた。

「お疲れ様ですね。春日殿」

 びっくうううううっ! と急激に背筋を伸ばし、高速で居住まいを正す。

 そして、声の主を確かめればそれは思ったとおりの人。

「吉野様」

 見られた! その思いに全身から冷や汗が吹き出る。

「どうされました?」

 穏やかに少しだけ微笑んでそう問いかけられると、ますますだらけていたようで恥ずかしくなる。

 思わず挙動不審なほどうろたえる武明に、ついなはくすくすと微笑ましそうに笑みを零した。

「いえ、何でもありません! あ、あの、私に何か」

 にっこりと笑みを深くして、ついなはその横に腰を下ろし一冊の冊子を文机の上におく。

 ついなの方へ向いて座りなおし、武明はその本へと視線を向けた。何かの写本なのだろう。

 簡単に綴じてあるそれは、手ずから作られたのだとわかる。

「コレは?」

 まさかその手作りを図書寮に今から返しに行って来いというわけではないだろう。

 そもそも、ついなは先日の調伏以外で今まで武明に何かを頼むことも、まして雑用を押し付けたこともない数少ない一人だ。

 自分の仕事は自分の責任で行う。

 それを不言実行するのがついななのである。

「私の家にあったものなのですが、調伏の時に何か役に立つかと思いまして。私はすでに内容を覚えておりますし、もしよろしければ春日殿に役立てていただきたいのですが」

 どうぞ、と。

 ついなが文机から冊子を再び取り上げ、両手で武明の揃えた膝の前に置く。

(え……、つ、つまり)

 一瞬、頭の中が真っ白になる。

 まじまじとその冊子を見て、手に取りぱらぱらと頁を繰った。

 ぱたんと音を立てて閉じ、床に両手をついて頭を下げた。

 ありがとうございます、それだけを何とか搾り出し、お気になさらず顔を上げて下さいと言うついなの声に顔を上げたところで初めて思考が動き出す。

(嬉しい……。夢じゃないですよね)

 まだ今年陰陽寮に入ったばかりで。

 少し事情があって先輩とかその他の同僚とかに本来の仕事以外のものを押し付けられたり、何か色々いわれたりして、ちょっと凹んでいたりするのだけれど、それが何故かどうでもない。ちっぽけだと思えるくらい。

「……」

 心の中で嬉しさのこみ上げるのを感じて、それを表に出さないように押さえつつ、それでも僅かにそれが表情に出ている武明を見つめ、ついなは微笑んだまま頷く。

「それでは失礼いたしました。どうぞ、お気をつけてお帰りください」

 音も無く立ち上がり、ついなは室を出て行こうとする。

 はっとして、もう一度お礼を言わねばと立ち上がった武明を、ついなは言い忘れたことがあったというような感じで振り返った。

「春日殿」

「はい!」

 思わず元気の塊のような返事をしてしまい、顔を赤くした武明に、ついなは微笑みのままに言う。

「あなたがこちらに来てくださったことを、私は嬉しく思います」

 一つの間をおいて、微笑混じりの声は告げる。

「……頑張ってくださいね?」

 武明の目が、大きく見開かれる。

 ついなはそれだけ言って、振り返ることなく今度こそ室を出て行った。

 自分しか居ない室の中で、武明は顔を俯かせ、肩を震わせる。

 怒りではなく、悲しみでもなく。

「頑張るぞっ!」

 がばっと立ち上がって、拳を握りそう宣言する。 気合は十分。

(大丈夫! 頑張れる)

 嫌なことは尽きないけれど、それすらも今は気合に変えてしまおう。

 我ながら単純だとは思うけれど。

「やってやれない、ことは無い!」

 そう。やってやれない事は無い。

 もし駄目でも、それはそれ。

 決して、無駄にはならないはずだから。

 やってやろう。

 少しでも自分に出来る精一杯のことを。

 小さな冊子。それを胸に武明は不敵な笑みを浮かべる。

「そう。やってやれない事は無い。そして、この手が駄目なら次の手段を!」

 ずり落ちかけていた眼鏡を元の位置まで戻し、それが闘志か気力に寄ってか、キランと光る。

 帰宅の途につく前に、再びついなを見つけると、武明は一つの質問をした。

 少し驚いたように、けれど快くもたらされた答えに、新たな手段が目の前に現れる。

 それは意外なことに、偶然かそれとも必然か。

「いける!」

 ふっふっふ。

 自邸に戻り、自室の長持を開けつつ漏れたのはそんな言葉と笑い声。

 それは、部屋の近くを通りかかった親弟妹が思わず「何かあったのか」「大丈夫か」と囁きあうほどに、気迫のこもったものだった。

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