一章一節
春花 ―― はるはな ――
明るい日の光の下、白い蹴鞠がぽんと高く青い空を飛ぶ。
色も鮮やかな衣を纏い遊びに興じるのは年端もいかない童子たち。
軽やかな連鎖が、ふとした拍子に外れて、白い蹴鞠はころころと。
輪の外でずっとそれを見ていた子供の下へ転がっていく。
「はい」
足元に転がってきたそれを拾い上げ子供は仄かな期待をこめて童子たちに差し出す。それを見た童子達は一様に顔を見合わせると、無言で子供とは反対方向へ歩き出だした。
「待って、これ」
とてとてと、子供が蹴鞠を持って近寄ろうとした時、それは告げられた。
侮蔑と、拒絶の色をした瞳で。
「穢れが移る」
壱
遙かな大洋に浮かぶ限りなく真円に近い形をした大陸「ハルト」
東西南北それぞれ大国が治め、言語が大陸全体で統一されてから随分と経つ。
人間、妖、精霊そして動物たち。
様々な種族が住まうこの大陸で、今回紡がれるは東の物語。
東域の国「占唐」
春は桜の濃き薄き咲き乱れ、まるで夢のような場所と謳われる国。
碁盤の目のような路地の都、そこで起こったお話。
それは晴天の霹靂だった。
「ああ、春日殿。すまないのだけれど、少しよろしいかな?」
目の前にいるのは、自分が尊敬する憧れの人。
この陰陽寮を目指したのはひとえにこの人がいたからだと言っても差し支えの無い、あらゆる意味で目標にしているお方。
陰陽の博士、吉野ついな。その人だった。
烏帽子と直衣。それは自分たちと変わらない仕事の姿だが、細いのに決して頼りない印象は無い、整った顔かたち。
目鼻立ちはすっきりとしていて、涼やかな目許を柔らかく細め優しい完璧な微笑を浮かべ、今、そこに。
妻子を持ったれっきとした既婚者の二十七歳で、自らも周囲に妻と子を心から愛しているといっているにも関わらず、世間の姫君や内裏勤めの女房達の間で根強い人気を博している。
さもありなん。そう思わずにはいられない人なのだ。
と春日武明、十二才で元服もやっとの少年は目の前の人を見て心の中で熱く力説していた。誰も聞いてはいないのに。
そして武明はといえば、顔自体は悪くない。
だが、男としての凛々しさとは遠く、まだ少年のあどけなさが抜けない。
丸眼鏡が時折ずり落ちてくるのをなおす仕草など、まだまだ子供ね、と従姉妹の姫たちからからかわれてしまうような感じである。
元から顔立ちは母親似で、雄雄しさよりも穏やかのほほんな雰囲気がぴったりしているというのも理由の一つのようだ。
「へ? ぼ、いや、私でしょうかっ?」
我ながらすっとんきょうな声が出たと武明は感じて、思わず頬を染める。
そんな様子を見ても憧れの人の完璧な微笑みはいっぺんも崩れない。
形の良い唇から、笹の葉が揺れるような静かで清浄な響きの声音が言葉を紡ぐ。
「そう。春日殿、あなたに少しばかりお願い申し上げたいことがあるのですよ」
春日武明、十二才はその日、浮かれまくっていた。
今をときめく尊敬する陰陽寮の星。ゆくゆくは頭か蔵人陰陽師かと噂される、憧れの人に直々に頼みごとをされ、こうしてお邸に呼ばれるという出来事に遭遇していたのだから。
香の残り香だろうか。白檀のような仄かで甘い香りがする。
ついなの私室へと通され、勧められた井草を編んで作られた敷物の円座に正座する。
その直後、簀の方から僅かな衣摺れの音がして、入室の断わりと共に童が姿を見せた。
蘇芳に白を襲ねた梅衣の童水干に黒いみずら結いの髪、幼い子供特有の柔らかそうな肌、黒かと見まごう紺色の大きく丸いぱっちりとした瞳。
緊張にだろうか、やや引き結ばれている唇はぷっくりとして、紅はなくとも自然と桜色に染まっていた。
その姿や同じ寮に所属していることから男の子だと知れているが、纏うものを女子の衣装に替えればわからないかも知れない。
「春日殿、これが今回一緒に同行させていただく私の子。名を雨音と申します」
そう言ってついなは自分の脇に控え、同じく正座した雨音に挨拶を促す。
ついなの頼みごととは、その子である雨音と共に最近都で噂の怨霊を調伏してほしいというものだ。
陰陽寮というのは、大まかに三つの役割を持つ。
一つは宮中ひいては都のための暦の作成。その暦と同じく常に人と暮らしに関わる時刻を観測し、反映させる漏刻の役。
二つ目は暦とも関係のある星々の観察と記録を行う天文の役。
そして三つ目。武士とは違えど、人の世を騒がす妖威を狩る陰陽師という形の役目。
本来、陰陽師とは役職の名前なのだが、いつの頃からか怨霊調伏のものをそう呼ぶようになっていた。
役目としてはその三つであるものの、実際は大貴族でもない限りその職だけで生活をしていくのは大変で、個人的に病気快癒の祈祷依頼などを受けていたのも一因かもしれない。
薬で治らぬ病の最後に頼むのは病魔自体の調伏と言うわけだ。
そんな陰陽寮。
武明はそこで陰陽生という雑用に少し毛の生えた程度の、駆け出し新人として動いている。
対する今回の同行者、雨音。
ついなの子としてその力は十分らしく、まだ幼いという言葉でも差し支えない外見、元服前で仮とはなっているものの陰陽寮に籍を置く。
表向きは雑用とされているのだが、実際は他のものと対等に仕事に向っていると話を聞いたことがあった。
それはどうやら事実のようで、今回自分と一緒に組むことになったと、そういうわけだ。
「は、はい。よ、よろしくお願いします。雨音殿」
少し緊張した面持ちで烏帽子の落ちない程度に頭を下げてから、浮かれて頬を染めたままの笑顔で握手を求めるように片手を差し出し、武明は雨音を見た。
しかし武明の笑顔とは対照的に、雨音の表情は硬く、欠片の微笑すら浮かんでいない。
貝のように押し黙っている。
「…………」
「……雨音」
(あ……れ……?)
一向に握られることのない差し出した片手。
自分の子に溜息をつくようなついなの声に我に返ってもう一度相手を見れば、睨みつけるような視線が向けられていた。
「あの……あ、雨音殿?」
ただひたすら深い紺の瞳が鋭さを帯びて武明を射抜いていた。
それでも差し出した片手を下ろすに下ろせなくて、固まる。
(――――気まずい。とてつもなく)
ひやっとした汗の雫が、背中を滑り降りていく。
雨音の瞳には親しみや子供の無邪気さなどはどこにもなく、訝るような警戒心と野生の動物の威嚇にも似た色が宿っていた。
「雨音」
ついなの少し叱るような声音に、雨音がゆっくり一つ瞬きをする。
座り揃えたそのひざの前に小さな両手をついとついて、礼儀正しく礼をして、ゆっくりと面を上げた。
「……ただいまご紹介に預かりました。吉野ついなの子。雨音と申します。春日殿」
引き結ばれていた口から、その言葉は流れ出た。 ついなのものとは違う、少し高めでどこか春の風を思わせるような、涼しさの中に花のような甘みのある声だった。
気まずさは変わらず漂っているが、一応は向こうの返事が返ったことに武明は差し出していた手をよろしくと振る方向へと変える。
だが、そんな武明の様子を見ても雨音の睨むような視線は変化を見せない。
それどころか、眉間にしわが寄ったように見える。
(な、なんで?)
その表情のまま、雨音は静かに立ち上がるとやおらくるりと踵を返し、その小さい姿は武明に背を見せた。
「え。あの、雨音殿?」
思わず、心の中と同じ戸惑いが声と言葉で口から零れ落ちる。
「雨音」
武明とついなの声に、一度だけその足が止まる。 それでも振り返ることはなく、雨音はそのまま一言を残してさっさと自室へと去ってしまう。
いわく。
「紹介が終われば、もう用はないと思います」
あまりの言葉に武明の目が丸くなる。
その横で、ついなが再び溜息のようなものをついたのがわかった。
「申し訳ない。春日殿」
自分の子供の不始末を謝るのは世間一般常識的に当たり前なのだが、憧れの人に心から申し訳なさそうに言われると、こちらが逆に謝りたくなる武明だった。
「へ? あ、いえいえ! 全然。大丈夫です。気になさらないで下さい」
先ほどの調子が残ってしまっていたのか、思わず手を振って気にしないで下さいと言ってしまってから、自分のその手を振るなどという行動に赤面して俯く。 目上でなおかつ憧れの人に対して、あまりにも砕けすぎている所作だと感じたのだ。
所作にはむしろ微笑ましそうに笑み、武明の言葉についなが苦笑する。
「今まで、何人か組ませてみたのですが、いつもあの調子で。再び続いた試しが無いのです」
けれど、と。ついなは言葉を紡ぐ。
「春日殿なら、あの子とどうにかやれるのではないかと思ってお願いしたのですが」
それはどういう事なのか。
武明はどこからそう思っての事なのかと、興味に突き動かされ聞いてみた。
「私なら?」
武明の言葉に、ついなは袷から扇をそっと取り出し、指先で僅か開く。
「あの子は今年、九つ。春日殿は十二だったと記憶しています」
「あ、はい。そうですが」
「歳もわりあい近いでしょう。それに」
「はい?」
何でしょうか? と首を傾げる武明に、ついなは言いかけた言葉を飲み込む。
ゆるやかに首を振り、手にした扇を少し開いて口元を隠す。
「いえ。ただの私の勘です」
あまり気にしないで下さい。
微笑んでそう言われれば、武明としてはそれ以上食い下がれず、どこか釈然としないまま、とりあえず頷く。
(それにしても……あれで九つ)
背は自分よりも小さかったし、髪もみずら結いの黒髪。
服装だって童子のそれだったが、あの鋭い光を帯びた紺の瞳は到底、元服もまだの童とは思えなかった。
可愛げとかそう言う問題ではなく、実際の年齢よりも大人びて見えるのはあの瞳の所為だろうか。
自分が九つの時など、あんな光を宿すようなことはなかったと思う武明だった。
向けられただけで、見透かされているような、どことなく不安になる感覚を与える、それほどに強い光の瞳。
(強い……んですかね?)
不意に、何故かそんな疑問が浮かんだ。
調伏の技量ではなく、強い光だと思ったことに対しての、疑問。
射るような強さは確かに感じたが、どこか違和感を覚える。
「あの子をよろしく頼みます。仕事に関しては、問題ないはずですので」
その原因を探ろうとして思考が遊ぶ前に、ついなの前だと思い出し、意識を戻す。
「はい。あ、ですが……雨音殿はまだ元服も済んでいないのですよね?」
確認するような響きになったのは、暗に危険が伴うことに同行させて良いのかというものを含んでいた。
今までもこなしてきたとはいえ、それがどの程度のものか。
どちらにしても、武明は雨音を護るつもりでいる。 まだ子供。危険にさらしたくは無い。
本当なら、そんな子供に危険を伴うようなことはさせたくないのが本音だ。
ついなはその言葉と武明の表情に頷きつつも、苦笑混じりに声を零す。
「ええ。……とはいえ、現在の陰陽寮では実際問題、人手が足りません。これは頭にも許可を頂いておりますので」
その才に頼る性質故に、実際に術を行使できる数は寮の中でも極めて限られている。
所属している大体のものが見えることは見えるのだが、ずっと見ていられるもの、道具や禊無しでもみえるものは少ない。
多分、全体の三割にも満たないだろう。
調伏だけが陰陽寮の仕事ではない。
時刻や暦、そんな感じで見えない人でも陰陽寮で働いているが、実働部隊はいつも慢性的な人手不足なのだ。
「御安心を。雨音の意志でもありますし、実力としても問題はないと、今一度申し上げさせていただきます」
「承知いたしました。では、後日調伏の際は雨音殿と合流して」
「よろしくお願いしますね。……春日殿」
「はい」
きりっとした面持ちでついなに答えてそちらを見た。
いささか不安が残るものの、これは憧れの人に信頼され期待されていると言う証。
なんとしても、その心に応えたい。
みなぎるやる気、その勢いで心に誓いを立てる。
(雨音殿と協力して成功させる。きっと初対面であれだったんだ。次はもっと打ち解けて……いや、次が駄目でも徐々に!)
君なら雨音とうまくやっていけると思う。そう憧れの人に言われたのだ。
是が非でも頑張らねば! そう思い、武明は翌日から来る日に備えて少しでも関係を良くしようと、暇を見つけては雨音を訪ねることにした。
したのだが。
この時、武明は自分の考えが甘かったと後になって思い知ることになろうとは思いもしていなかった。
「も、 門前払い……」
あの日から早速、文を送ったりしてみた。
お加減はいかがですか、から始まり、好きなものや趣味まで相手のことを知り、自分のことを知ってもらうため書き綴り、まるで恋文のように花を添えて送ったりしたのだが一向に返事は来ない。
来ない返事に、それならば会いに行こうと思い立ち、おとなう旨をしたためた文を数日前に送った。
もちろん、ついなの許可はとってある。
むしろどんどん遊びに来てくれると嬉しい、というありがたい保証つき。
なのだが、そうして訪ねていくと門扉は固く閉じられていて。
「そんなに僕は嫌いですか……雨音殿」
ずるずると扉にもたれかかって、乾いた笑い声をもらす。 笑い声と共に当初の勢いも流れ出ていく。
(少し性急……いや、しつこかったかな?)
もう少し文の返事を待つべきだったか。 それとも、その文自体が気に入らないと思われてしまったか。
はふぅ。そんなため息をついて、扉に背を預けて座り込む。
人の家の前だと思うが、昼間だと言うのにここは人通りがあまりに少ない。
今だって、自分以外目に映る範囲に人はいないのだ。
ついなは出仕していて、帰るのは夕刻だろう。
武明はといえば、非番だったからここにいる。
「初対面で、どこがいけなかったのかなぁ?」
思わずそんな言葉がころがり出た。
本当に、仲良くしたいと思って振舞ったはずなのに。
握手がまずかったのだろうか? それとも根本的に人間として嫌われるようなことを他にしたとか?
他の方ともあんな感じで、と。
ついなは言ってくれていたが、よく考えれば本当の意味で慰めの言葉だったのではないだろうかとも、今は思えたりする。
結局、ずるずると底なし沼に沈んでいくような感覚で、このどうしようもなく開いたような距離から抜け出せない。
ずり落ちたメガネを押し上げて、尽きないため息にひざを抱える。
どのくらいそうしていたのか、いつの間にか空は茜。
そろそろ帰ろうかと立ち上がろうとした時、戸を隔てて足音がした。
「雨音殿?」
もしやと思って尋ねてみるが、返事はない。
けれど、確かにそこに誰かが居る。
少しだけ返事を待つためでもあるがそこに居てみた。
結局はその待つ間に、一言の声もなかったが、去る気配もしなかった。
茜空。黄色から赤へと景色を照らす光が変わる。
築地から少しだけ見える桜の花が風に揺れ、花弁が一枚揺れ落ちる。
「そろそろ、帰りますね。また、来ます」
それでも構わずに、声をかけた。
届くことはないかもしれないけれど、それでも何も言わなければ距離は開く一方で。
無駄でも、何も言わないよりは幾分マシだと信じた。
戸を隔てた相手に見えるはずもないけれど、笑顔を浮かべ言う。
「また来ます」
繰り返して、約束のように。
戸の向こう。それでも動く気配はない。
踵を返して武明が去って行く足音が消えても、気配はずっと留まっていた。
揺れ落ちた桜の一欠片が涙のようにぽつりと、地に落ちるまで。