04 冬の唄・夢の跡(6)
6
──息が熱い。
体育館の鋭く凍った大気が僕の体に取り込まれて、赤熱して排出される。思考する機械になったような、そんな気分である。
破裂音じみた空気の振動と共に、コートを白い線が切り裂いて、僕の手でそれを遮り、白い線を再び描く。
もう、何度目の打ち合いだろうか。最早数えてなんかいないし、数える意味さえ消失していた。
さっきまで肺が痛かった、足も腕も膝も肘も痛かった。けれど、今はもう、そんなものは感じない。
ただ、射線を読んで、走って、打ち返す。
時速百キロを超える羽が、この狭い世界の中で、しかし縦横無尽に駆け回る。まるで、失った体を取り戻すかのように、体を失ってからの蓄積した時間を圧縮して吐き出すように。
かつて、空を巡っていた時などよりもずっと早く、空を斬る。
──僕らだって同じだ。
お互いに、言いたいことはあった。言わなきゃいけないこともあった。
それでも、僕と匠はあの秋の、生徒会選挙の日から、それを口にはしなかった。ただ単に無意味に時間を重ねて、ただ曖昧な笑顔と悪ふざけを重ねて、何時まで経っても一つ掛け違えたボタンをそのままにしておいた。
けれど今、この瞬間それが外れていくのが解る。
言葉はない。あるのはただの争いだけだ。
けれど、僕らは今、確かに無為に失った時間を、取り戻している。この短い喧嘩の中で、一年以上の積年を、加速させ圧縮させ、ぶちまけてしまっている。
わだかまりが、溶けていく。一番仲がいい悪友との、仲が良かった故のわだかまりが、今ここで。
思考の合間。飛来した白線を打ち返す。今度は右に、しかし匠は難なく食らいついてくるだろう。あそこまで諦めの悪い奴はそこまでいないだろう。
そうして。
──ああ、そうだ。と。
今解った。と
僕は、唐突に理解した。
匠の、あの諦めの悪い男の目的は、確かに『やり残したこと』を、完遂することだったんだ。
軽口でも何でもなく、例え言語になっていなくとも。
本気で、ただ本気で、言葉を交わして、喧嘩をすること。『あの時』──あの秋の日に、やりそこねたことを、やっておくべきだったことを、やること。
それは、そう。最初に匠に喧嘩をふっかけられた時から、僕だって十分に理解していたことだったんじゃないのか?
だって──匠のやり残したことは、そっくりそのまま、僕のやり残したことなんだから。
そうして。そこまで思考が巡って。
ばちり、と。この試合が始まって初めて、匠と目が合った。削りあうような視線のやりとりがあって、コンマ数秒、、
「「ふは」」
と、二人そろって破顔した。
まるで、にらめっこで引き分けるかのように、噴出した。その一瞬で、白い点が僕の正面目掛けて飛来する。それをどう打ち返すか、反射的に脳が動き、しかし。
ここで左に揺さぶって、一気に攻めていけば──いや。と僕は理性でその反射をかみ砕く。
いや、もういいや。
もう、難しいことは、抜きにしよう。戦術書なんて燃やそう。哲学書なんて破って捨ててしまえ。
頭空っぽでいいじゃないか。
だって、ほら。
「「──は、はは! はははははは!」」
この喧嘩は、ただ、こんなにも愉快なんだから。
◆
それから──僕の思考が途切れてから、どのくらいの時間の後か。
白い羽が勢いよく地面を叩き、そして、全ての決着が──。
◆
もう。声は、出なかった。
試合終了のホイッスルの音よりも大きく聞こえる、まるで耳元で鳴っているかのような自分の呼吸を、必死で抑えこもうとして、失敗する。大きく息を吸って、肺が燃えるような熱を放った。
膝から崩れ落ちそうなのを堪えて、前をむく。千鳥足でコートの中央、ネット際まで歩き、震える右手を差し出す。反対側、ネットの向こうには、同じように方で息をするがいて。
熱のこもった手が、僕の手を握り返す。
僕らは今日何度目かの視線を合わせて、今日何度目かの笑いを共有して。
そして、
「「──っしゃーした!」」
もう、言語になっていない、ただ息を吐き出しているだけのような声で、僕らは感謝の言葉を、交わした。
互いに最後の力を振り絞って、ありがとうございました、と。
それが、あらゆる意味での、僕らの決着だった。
◆
「ぐあああ! 暑っ!」
「うわ、床冷た」
コートから離れた、休憩スペース。体育館のステージ際にあるその隅っこで、二人して、床に倒れこんで、そんな感想を漏らす。
どうにかここまで這いずるように移動してきたもの、僕はもとより匠もしばらく動けそうにない。思い出したかのように、肺が痛む。指が震える。足が軋む。
けれど、頭の中は、ここ一年の間のなかでも飛びぬけて澄み渡っていた。言い換えるならば、心が軽くなった、とでもいうのだろうか。
喧騒は、遠い。先ほどまで僕らがいたその中心は、もう誰かにとって代わられている。そもそもの規模も小さくなっているからだろうか、そこはかとない寂しさが感じられた。
「ちくしょう。湯気出る勢いで暑いぜ。こりゃクールな男の称号は返上だってのな」
「そんな称号は最初から与えられてない」
「なん……だと……」
「なんでそこで迫真の驚愕するんだよ。怖いよ」
けれども、そんな中でも僕たちの掛け合いは実にいつも通りなのだった。いやむしろ、少しだけ、軽快になったような。
「あー、心臓ヤベー。悠、俺さ──いまスゲー生きてるぜ」
匠の方向から、そんな満足げな声がする。生の実感、命の所在。そんなものが、きっとその左胸に感じられているのだろう。何故解かるか、って、そんなの僕も同じだからに決まっている。
けれど僕は、同意の言葉を放り出して、変わりにぽつりと。
「……なあ匠」
「ん?」
「お前さ、何で」深く呼吸を一つ「今さら何で、こんなこと」
解っていることを、もう知っていることを疑問として口に出す。
やり残したことがあるのも解る。それをそのままにしたくなかったのも解る。
けれどやっぱり、それだけじゃないことも、解っていた。
僕との喧嘩は、手段であって目的じゃない。目標の一つではあるけれど、目的ではない。それもまた、僕にはなぜか解っていた。匠の眼の光が、そう言っていた。
沈黙が通り過ぎる。
ふう、とため息が白色の靄となって消えていって、匠が口を開く。
「──本気でやっておきたかったんだ、何か一つ。いや、何もかもを」
匠は、普段より数段真面目な声で、こちらから視線を外し、天井を見上げたままそう言った。
「去年さ、『あの日』──選挙の演説会の日に、壇上で生徒会長をお前に譲るって決めた時も、全く悔しくなかったわけじゃない。言っておくが、会長になれなかったことにじゃねえぜ? 今のこんな中途半端な俺がやるより、こいつがやったほうが、きっと楽しくなるんだろう、って解かっちまったことが、だ」
「…………」
真意を語る匠を僕は見ない。天井のライトが、僕の網膜に判を押す。
「だから、俺はその場で譲った、あの壇上で対抗馬としていたはすのあのステージの上で、あろうことかお前を推薦る、と叫んだ。その場で棄権した。──でもそれは、やっぱり間違いだったんだ。俺はあの時、自分がやったらお前がやるよりつまらない生徒会になると解っていても、それでも、闘って勝つべきだった。選挙に勝って、その上で、本気で『楽しい生徒会』を目指すべきだったんだよ」
僕はその言葉を受け止めて、反芻する。そして一つの感想を絞り出す。
やっぱりな、と──。僕は匠を見る。
「だろうさ。だって、お前はそれにも気づいていたんだろう?」
匠の首がこちらを向く。驚きと呆れ顔を一緒に混ぜ込んだような、微妙な表情を張り付けていた。けれど、僕の口は構わず動き続ける。
「自分が立ち向かうべきだった、ってそんなことをあの時点で、あの秋の日に、あたりまえのように気づいてたんだろ? だから僕はそれを知りながら怒らなかった。怒れなかった。あの頃の僕は青臭さも抜けて、うすっぺらい仮面をつけて笑っていただけの、友香に言われた通りの駄目な人間だったから」
あの少女に、嫌われても仕方のないくらいの、どうしようもない奴だった。今もそれは変わっていないのかもしれないけれど、少なくとも仮面を被るのは止めた。
去年のあの、冬の日から。
今年のあの、春の海から。
僕は、昔からつけていた仮面を脱ぎ捨てて、少しずつだけれど体当たりで生きてきた。自分なりに、臆病者なりに。
だから、僕は今、怒りをぶつける。あの秋の日に言えなかった怒りを、僕自身と匠へとぶちまける。
「だからお前はあんな、言葉遊びみたいな、適当な理由ではぐらかしたんだ。本当に心から自分に資格がない、と思うなら理由なんかいらなかった。それらしい嘘なんかいらなかった。お前は、自分を騙すために嘘をついたんだよ、匠」
──王の器は俺にはない。そいつが解っただけだぜ。
それがどうしてあんなことをしたんだ、と詰め寄る僕に、匠が後に語った。後に騙った理由だった。
理由と里中。
──王の凵の欠けた名前。苗字。俺はきっと、生徒会の長には向いてない。
そんなもの、ただの子供じみた言い訳だ、って僕は知っていたはずなのに。
「ホントのところさ、匠。あの時、あんなふざけた理由で会長を降りたお前を、おもいっきりぶん殴ってやりたかったんだよ、僕は」
ふざけるな、と。正々堂々闘いやがれ、と。
僕は、きっと、そうするべきだったのだ。出来なかった自分を、責める位ならば。
逃げれずに、ずっとこれめで縛られ続けるくらいならば。
「ああ、そうしときゃ良かったんだ、俺たち。そうしときゃよかった。あそこで、殴り合いの喧嘩でもおっぱじめてりゃよかったんだろうぜ、恥も外聞も何もなく、ただ、純粋な喧嘩を。──今みたいにな」
「この喧嘩。今度は、僕が勝ったぞ」
「ああ、俺が負けた。負けたんだ。畜生、やっぱり、負けちまうんだよな」
全く困ってない口ぶりで、負けたことなどおくびにも出さず匠は言う。けれどそれは、勝ち負けにこだわっていなかったが故の適当な明るさではなかった。
「なあ、悠。ちょっと聞いてくれるか? 俺の恥ずかしい独白だ」
「……手短にな」
「俺はさ、けっこうなんでも出来ちまうんだよ。昔から、人並みからちょっと上くらいには、ちょっと本気出せばたどり着ける。いや、正確には出来なかったことがないんだが。そんで中学二年生な俺は思っちゃった訳だぜ、ああ、人生ってちょろいんだな、って」
「だから、上手いこと生きてきた。適当に、飄々と。最低限のことだけを」
「でも違うな。やっぱ人生って難しいわ」
「あの選挙で自分には出来ないことがあるって、解って。どうにもうまくいかない恋があって。本気で勉強して、アイツと同じ大学にうかったけどさ、ギリギリだった。当のアイツだって、ここから本気でアプローチして、それでも振り向いてくれるかどうかなんかわからねーし」
「そんで今もだ。今も。本気でやって、お前に負けた。悔しくてたまらないぜ、今」
「……そうは、見えないけどな」
僕は言う。小さな声で。またしても、返ってくる答えを知りながら。
「いや、本当、悔しいぜ。負けて悔しいって、はは、どれくらいぶりなんだろうな、俺」
匠はそう言って、そんな言葉の割には実に嬉しそうに、笑ったのだった。
それは、見ているこちらが羨ましくなる位に、眩しい表情だった。抜けるような、冬の青空のような、澄んだ笑み。
「本気でやったら勝敗はどうでもいい、とまでは言わねえが、本気の失敗にこそやっぱり価値がある。今さら、今になって、そんな単純なことに気が付いたぜ。おっと、とはいえ、おっかねえ女が睨んでるからな。ちょっとはいいとこ、見せておかねえといけねえけど」
まだまともに芽生えてないような愛想尽かされたら、たまらんぜ。なんて、くつくつと喉を鳴らした。
「惚気やがって。──羨ましいよ、お前ら」
なんだか、そういう真っ当な関係が羨ましい。
僕はまだ、そちらのわだかまりは解けていないから。きっと、一生解けることはないだろうから。
ああ、でも。そういえば。
「そういや、さっきさ──いや」思わず口に出しかけて思い直す「やっぱなんでもない」
「なんだよ」
言えよ、気になるぜ、と。匠は口を尖らせた。
口を滑らせた僕の失態だ。それに、さっきの今でまたやり残したことを作るのは忍びない。
「笑うなよ?」
「笑わねえよ」
信じるからな、と、しばし逡巡して、僕は話す。
「──さっきさ、走ってる途中、友香の声が聞こえた気がしたんだ」
「中ごろの打ち合いでさ、流石にポイントとられるんじゃないかっつー、高くて遠い球でさ。一発で届かない、って解った。でもその声が聞こえた瞬間、気付いたら食いついて全力で打ち返してた」
遠い球だったそれは、追いついてみればただの絶好球でしかなかった。
「悠さん、って。そんな呼び方一回もされたことないし、めちゃくちゃ遠かったから、やっぱりたぶん幻聴なんだろうけど。でも、聞こえた気がしたんだよ」
その後そっち向いたら逃げられたけど。やっぱり幻聴か。こんちくしょう。
「くく。くははは。ひー」
「……笑うなって言ったろ」
大爆笑じゃないか。
それでもまだ、匠は笑って。くくく、と。悪い悪いなんて、軽く謝りながら、
「事の真偽なんて、どうだか知らんけどな。ああ、確かに、今日一番の一撃は、間違いなくそれだったぜ、悠」
意地の悪い顔でそんな風に、言ったのだった。
7(蛇足、あるいは小心者の唄)
「さて、そろそろ仕事に戻るぜ」
「先に行っててくれ。僕はもうちょっと、ここで寝てる」
ぱたぱたと手を振って、匠を促す。困った。思った以上に体が言うことをきかない。僕の地力は、やはりそこまでたいそうなものではないらしい。
「おーけーおーけー、早く来いよ?」
そんな僕の状況を察したかのように、苦笑う。
「ああ。努力する」
僕の筋肉と関節が、だけれど。
「あ、そうだ、悠」
「ん。なんだ、匠」
立ち去ろうとした匠が、ふ、と何かを思い出したように世間話でもふるような気軽さで、問う。
「俺のやり残した事はもう、これで無くなったけどさ。お前はどうよ?」
「僕?」
「お前の鎖も、早く解けるといいよな」
「鎖?」
「そう、鎖。解っていることを聞き返すのは悪い癖だぜ、悠」
鎖。あの秋から僕のことを雁字搦めにしていた鎖はもう、実のところとっくの昔に緩まって、柔らかくなって、その気になれば腕の力だけで、自力で引きちぎることも、出来るはずだ。
けれど、僕はそうしない。それが出来ない。
それはきっと、みっともない姿になってしまうから。
「別に、みっともなくてもいいだろうよ。そんなもん、いつも見せてるぜ、お前も俺も」
お前は、自分の為に、って言葉を覚えた方がいいぜ。と、そんなことを背中ごしに言い残して、匠は小さくなっていった。
残された僕は、一人、深く息を吐く。
ぽつりと。
「──だけどさ、匠。僕はそれでも、あの後輩の前では、あの後輩の前でだけは、格好つけていたいんだよ」
尊敬なんかされなくてもいい。僕と同じ気持ちを彼女にも抱いてほしいなんて絶対に思わない。
けれど。だけれど。実のところ、もう一度『あの言葉』を言われるのだけは、絶対に嫌なんだ。
解ってる。こんなもの、僕に勇気がないだけの我儘だ。
僕は匠のように、体を張って誰かを笑わせることも、堂々と喧嘩ふっかけることも、負けてこんなに笑うことも出来ない。そんな勇気はない。実のところ矮小な、みっともない男なのだ。
そんなことは解っている。知っている。
「……楔だな」
楔。そう楔だ、僕の心臓に深く穿たれた楔。たとえ鎖を引きちぎった所で、その一部は楔に掛かってぶら下がる。ゆらゆらと、みっともなく。
けれど僕は心臓に突き刺さったその楔を抜くことが、出来ない。
怖いから。
『あの言葉』は嘘なんかじゃない、と。再び肯定されてしまうのが、怖いから。
だから、僕はせめておとなしくしていよう。鎖で縛られたまま、楔で穿たれたまま、僕の努力が僕を傷つけてしまわぬように。ただ、見栄を張って、見得を切って、卒業まで。適当ながらもよき先輩でいられるように格好つけていよう、と決意する。
……ああ、そうだ。
もう、認めてしまおう。認めて、楽になって、それから封じ込めてしまおう。
僕は、天井の強い光を遮るように左手を伸ばし、
「──友香」
小さく、彼女の名前を呼ぶ。
「ゆか、ユカ、友香──」
みっともなく、何度も、叫ぶように。一生、言葉にすることはないと決めた思いを彼女の名前の形にして、吐き出して。白い靄にして、消してしまって。
そうして僕は、僕の中にかすかに残った欠片を封じ込める。心の奥底に封じて、鎖で巻いて、楔を打つ。
何のために?
決まってる。
──夢にでてくる程に。幻聴が聞こえてしまうほどに。
もう、どうしようもなく好きになってしまった彼女を、僕の想いで煩わせてしまわないように。
◆
僕らのやり残した事は雪のように解けて、消えて。
僕のやり残した事は、芽吹く様にまたもや顔をだした。
そうして──また、春がやってくる。




