04 冬の唄・夢の跡(5)
5
そして、一月二十四日。
運命の日。
僕たちは、一つの境界を挟んで、対峙していた。
僕と、匠。二人の間にまだ、言葉はない。ただ、張りつめた緊張が僕たちを隔てている。
お互いの手には、対等に一つの獲物。長物と呼ぶには短すぎるそれは、けれど、この喧嘩においては、十分すぎるくらいの代物だった。これがないと戦えないほどの意味を、有していた。
沈黙が続く。噂を聞いて集まった外野のざわめきも、最早雑音ほどにも感じない。
「……ついに来たぜ、この時が」
最初に口を開いたのは、匠だった。心なしか、声が震えている。
「……ああ、待ってたよ。いいね、久しぶりに心が躍る」
僕もそれに答える。自分の声も震えていることに驚いて、それが武者震いだと、理解した。匠もきっと同じ感覚だろう。
「言っとくが、悠。俺は本気だぜ?」
「解ってるさ。解ってる。安心しろ、本気を全力で叩き潰す。それが僕の信念で、僕そのものだ」
「ここを超えたら、きっともう、戻れないぜ」
「戻るつもりはないさ。僕たちは、進むんだ」
そう。ここがポイントオブノーリターン。僕たちは、ルビコンの対岸へと向かう。
立会人の準備が整えば、じき開幕の笛がなる。さあ闘えと声がする。
それがきっと、賽だ。もう戻れない。振り直しは叶わない。
けれど。それでも。だからこそ。
僕たちは、進む。
前へ前へ、ひたすらに前進を。
後ろを見るのは、文字通り後からでいい。今はただ、前を向け。足を進めろ。
守りなんていらない。こと戦場において、攻めの対義語は、攻めだ。
「──は」
白い息を吐いて、赤熱した脳と脈打つ心臓をそのままに、ただ、思考だけを冷たく研ぎ澄ます。
匠との問答は、自然に終わっていた。
必要が無くなったのだ。聞きたいことは既に聞いた。答えるべきことは全て答えた。
後に待つのは、問答無用の闘いだけ。
「…………」
無言で視線を、前へと、闘うべき相手へと、向ける。瞬間、ぎちり、と軋む音がする様な視線のぶつかり合い。
全く同じタイミングで、向こうもこちらを見てきていた。
「──ふは」
思わず、嗤う。獰猛な笑みだった。鏡はないけれど、よく解る。きっと、目の前の男は、僕と同じ表情をしているのだろうから。
「いいぜ、悠。お前、最高だ」
「その言葉、そのまま返すよ」
必要性を破って、最後に現れた言うべき言葉。そのやりとり。
それを契機と見たかのように、立会人が動く。彼女がその小さな右手を振り上げて、そして──
「「さあ──愉しい愉しい喧嘩の時間だ!」」
──賽は、投げられた。
◆
「で? 一体なんな訳? これ」
「喧嘩、だそうですよ」
冬の寒さに延々と当てられてその腹の中にたっぷりと冷気を蓄えた体育館。生徒会役員たる友香と秋穂は、白い息を吐き出しながら、そんな会話を始めていた。
話題は、今目の前で繰り広げられている壮大な戦いについて。
「喧嘩、ねえ」
「はい、喧嘩です」
秋穂はまぶしそうに天井を見上げた後、
「……私には、二人楽しくバドミントンで遊んでいるようにしか見えないのだけれど」
心底呆れた、とそんな言葉を吐き出すように口にした。
「ええ、奇遇ですね、秋穂さん。私にもそう見えます」
大きく首肯し、友香は見回す。
彼女らが立つ、それなりに大きな体育館のコートは、緑色の大きなカーテンのようなネットで細かく区割りされ、戦い──フットサル、バスケ、そしてバドミントン、と三つの競技が同時並行で行われていた。
学年を問わない生徒達の歓声、汗、シューズが焦げる音。
そんな青春の気配で満たされたこの会場で行われているのは、そう、闘い──もとい、第45回翔講館高校校長杯争奪球技大会である。
学校行事である以上、この大会の運営も立派な生徒会仕事の内である。体育委員と合同で動いてはいるものの、何分大規模であり、毎年引退した三年生まで引っ張り出しての大仕事となっている。
現に今、目の前の試合の審判をしているのは、生徒会書記である朱音であった。
シャトルの流れに体がついていっていないようにも見えるが、なぜかジャッジは的確で、「いんー、あうとー」などといつものウィスパーボイスで攻防の結果を告げている。
結果的にこの試合、奇しくも先代の生徒会役員が勢揃いといった様相である。
そう、本日行われる試合の中でも、今、秋穂と友香の目の前で繰り広げられているのは珠玉の部類に入る。なにせ、事前に全校生徒の噂になるほどのマッチ、顔を知らぬものなどいない元生徒会長と元副会長の全力の一騎打ちである。
噂には、どうやら何か賭けているらしい、だとか、副会長が昨年のリベンジマッチを挑んだ、とか、受けと攻めはどっちなんだ、とかそんな内容も含まれていて、集客効果は抜群。いくら行事好きな生徒達でもこれほどまでは騒ぐまい、といったギャラリーの群れがコートを取り囲んでいる。試合内容も、高速ラリーが平均一分以上続くような、噂に違わぬ白熱具合で、この辺りだけ人々の熱気で少し暖かいほどだった。
秋穂と友香はそんなギャラリーの渦の一番外にいるが、その周りの生徒が気を使ってしゃがんでいるため特等席のような見晴らしで観戦出来ていた。しかし、当の本人たちはというと、
「なんだか最近、あの二人がそわそわと浮き足立っていたのはコレの所為なの?」
「はい。負けられない戦いがここにはあるらしいですよ?」
「逃げていい戦いこそあれ、負けていい戦いなんてそうそう無いと思うのだけれど」
一般生徒程盛り上がってはおらず、世間話に興じていた。学校指定のジャージに、運動しやすいように、と友香は髪を高めのポニーテイルに、秋穂はうなじ近くで二つに分けてアップにしていた。抜群の知名度を誇る生徒会役員の、見慣れない姿にそわそわしている男子達も多いが、当の本人たちは全く気に掛ける様子もない。
「友香はこの、喧嘩? の経緯詳しく知ってるの?」
「噂と、悠先輩からちょっと聞いたくらいですが、実はかくかくしかじかで──て、匠さんから聞いてませんでしたか?」
「聞いてないわ。興味もないもの」
「あー」
これは手ごわい。匠さんでも苦労するはずですね、と頬を掻く。
「毎度思うのだけど。どうしてこううちの学校の男子連中ときたら、お祭り好きなのかしらね。こうも熱くなって」 こうも、と言うのは、主に目の前で高速ラリーを繰り広げている見知った男子二人の様子を指すのだろう。
「話は聞いてましたけど、結局意味は解りませんでした。先輩まで珍しくのっかちゃって。どうやら私たちには考えもつかないような理由があるみたいですよ?」
「男ってのは、ホント、よく解からないものね……」
その言葉に、友香はぴこん、高結のおさげを揺らして、
「いえ、向こうからしてみれば、女だって負けてないかもしれませんよ? だってほら、アレ」
見てくださいよ、と彼女が指さしたその向こう。向かい側Aコートでは、ダブルス戦のトーナメントが行われているはずであり、それは実際女子生徒ペアと教員チームペアで繰り広げられていたのだが、しかし、その中に、
「やだー、はるかこわーい。きゃぴっ」
齢不相応なくねっくねっとした動きで、ピンク色のジャージを身にまとった物体が一つ。
「とてもじゃないですけれど、あの言動は理解しがたいものがあると思います、私」
遠くではピンクの物体X、もとい、自称人間の生徒会顧問、遥法子教諭が男性教諭とペアを組んで参加していた。遠目に背中が見える程度なのに、動きも言葉も最早人知を超えているのがよく解る、という凶悪仕様である。
「これは……すごいわね……」
普段ならば、大抵のことに辛辣なツッコミを入れるはずの敏腕役員が、ただただ引いていたという事実に、現状の異常さは推し測っていただきたい。
「死ぬほどあざといですね。というかあの年齢であのあざとさはもう憐みしか生まない気がします」
「相手の女子ペアが全力で怯えていることに気付いてないわ」
「男性教諭が自分のほう向いてない時はスゴイ勢いで動いて、次のあざとアクションの準備してますね」
「……獣の目よね、あれ」
ついでに一瞬で接近と後退を繰り返して、男性教諭の汗の臭いも嗅いでいる。そして浮かべる恍惚の表情。怖い。ここまでくると最早男女とか関係なく怖い。
傍から見ると、恐怖と戦慄の衝撃映像でしかないのだが、当の男性教諭は全く気づいていない。それどころかあざとく転んだ遥に対して、『だ、大丈夫ですか遥先生!』と手を差し伸べたりしている。あの人は、このまま毒牙にかかってしまうのだろうか。
合掌、ですね。と、友香は心の中でこれまで犠牲者となった数々の男性陣とこれからそうなるかもしれない目の前の若い教諭に対して哀悼を捧げた。
──その時。
ぎゅりん、と。
遥の首が動くのを、確かに友香は見た。
「な、ななな何です今の! 完全に人間の動きじゃないですよ首だけ百八十度回ってませんでしたか──ってうわあ!? 怖い怖い怖い! 何か『若いからって調子のってんじゃねーぞ小娘が、ああん?』って耳元で聞こえる! あれ絶対口パクなのに!」
「……前から思ってたけれど。割とどうかしてるわよね、あの生物」
は、ははは、と、あまりの否定出来なさに、思わず友香が漏らした苦笑いが引きつっているのは、体育館の寒さの所為だけではあるまい。
強すぎる情念、というか怨念の籠もった言葉は距離どころか時空でも超えるのだろうか。
「婚期に焦ると、女って皆ああなるんでしょうかね……」
少し本気でそんな未来の可能性を考えてしまった。いや、しかし、あんな不可解な存在が容易く生産されてしまうのならば、今頃地球は|怪生物・独身三十路越女の支配する恐怖の惑星になっていること間違いなしである。あり得ないあり得ない。
しかし、そんな風にいくら自己否定を繰り返しても、まったく拭い去れない不安が友香の胸の奥でとぐろを巻いていた。取り除くための微かな希望、秋穂のクールな返答を期待して、友香は彼女に視線を送る。すると、秋穂は唇に、曲げた人差し指を当てて、何やら考えこんでいた。
……いつものポーズではあるが、心なしか、少し、額に冷や汗が滲んでいるような。
「え、ちょっと待ってくださいちょっと待ってください」深刻な声で「……もしかして地球って、もう?」
「……大丈夫よ。……多分」
「励ましの声に力が無い! そして何ですそのひどく悲しそうな表情は!? やっぱり駄目なんですか? この星はあんな宇宙生物達に乗っ取られるんですか?」
「……私達は、気をつけなきゃね」
「否定は、してくれないんですね……」
友香が泣きそうな声で嘆く。ああなりたくはないなあ、と心の底から思っていると、でもまあ、と秋穂が言う。心なしか冷たさが緩んでいた。
「私達は、そうね。きっと大丈夫でしょう」仄かに口元が笑う「だって、ほら──」
秋穂は、それ以上言葉を繋げず、ただ、目の前のコートを見た。つられて、友香もその視線の行き先を追う。
そこには、流れる汗も周りの目も声援も関係なく、只ひたすらに高速でラリーを続ける、どこまでも楽しそうな男が二人。
「ああ」
なるほど、と。少女は、ただ優しく笑って、頷く。
主語も述語もない、曖昧な言葉。誰がどうでどうなる、とかそういう具体的な事は二人とも口に出してはいなかったけれど、お互いの言いたいことは、なんだか、それで十分伝わったような気がしていた。
「ホント、そうなるといいですね」
私の場合、望みは薄そうだけれど、と胸にこみ上げるナニカを嚥下した反動で、友香の声に少し違和感が混ざった。知ってか知らずか、
「まあ、私の方は、もう少し根性磨いて貰うつもりだけれど」
「手厳しいですね……」
やはり、この二人の関係にもなかなかどうして難しい部分があるのだろうか。邪推であることを承知しながらも、友香は秋穂を見上げてみた。腕組みをして観戦を続けるその立ち姿は、凛とした雰囲気そのままだ。けれど、
「……まあ」思いついたように「今もどうやら修行中のようだから。そうね、気長に待ってあげようかしら、ね」
そう言った秋穂は、凛々しさの中からほんの少しだけ微笑みを覗かせていて。その姿は、友香の瞳には、普段よりもずっと大人びて写っていた。
卒業を間近に控えながら、上級生たちは今だに成長を続けているように感じていた。先輩達は、なぜこんなにも輝いて見えるのだろうか。そんな疑問を、友香は自身に投げていた。
「私は、もう少し、頑張らないといけませんね……」
私とあの人は、きっと身近でありながら、遠い。自分は果たして秋穂と匠のように、あんな風になれるのだろうか、なんて考えると、そんな弱音が友香の中から溢れて、思わず口をつく。
『あの人』の背中は、どれだけ手を伸ばしても、きっと届かないような、そんな距離で──。
「頑張れ、先輩!」
ふと思いついて、勢いのままに、そうやって、群衆の向こうに叫んで見るけれど──
「あれは、もう聞こえてないわね……」
──ほら、こんな風に、届かない。
「そう、ですね」むう、とふくれたように「まったく、どれだけ夢中なんですかね!」
自分でも驚くような、明るい声。あ、失敗しちゃったかな、と友香は自覚する。横目で伺い見た秋穂はけれど「まったくね」そんな風に、ただ時計を見ていて、
「ほら、友香。そろそろ仕事の時間よ」
そんな風に、すっかりいつもの調子で呼びかけて、背を向けていた。
「あ、はい。行きましょう!」
一拍遅れて振り向いて、その背中を追う。
けれど、秋穂の背を追いかけて数歩進んでから、友香がふと、足を止めた。きゅ、と靴がないて、コートに向き直る。
んー、と天井を仰ぎ、ふう、と息を吐き、あー、と何やら逡巡して。
視線の先、再び視界に捉えた、この震えるくらい寒い体育館の中、汗までかいて必死になって戦っている一人の少年に向かって、少女は、
「……負けないで下さいね、悠さん」
ぽつり、と。ほんの少し震えた、限界までボリュームを絞った声でそんな、慣れない呼び名を、投げかけて、そして。
──それは、何の偶然だろうか。
その直後、すぱーんと音を立ててスマッシュが決まって。それから、おお、と驚く暇もなく、ガッツポーズをとりながら悠がこちらに向かって、小さな動作で親指を立てる。
そうして、ぱちり、と、視線が、ぶつかった。
「っつ!」
息を呑み、急いで踵を返す。くるん、と体を半回転。
いやいや絶対に聞こえてないはず、と友香は、いやに左胸を叩いてくる心に向かって言い聞かせるが、でも完全に目があってあれはつまり私に向けたサインという訳でいやそんな事ない自意識過剰自意識過剰だ、困ったことに一向にその暴動は収まる気配が無い。顔がただただ、熱い。
「っつ! うー! ええい!」
あれこれ考えても仕方が無い、と無理矢理折り合いをつけて、顔を上げて勢いよく前を向いた。後ろで一つに結んだ髪を揺らしながら、少し先で黙って待っていてくれた秋穂に向かって、駆け出す。
後ろは、振り返らなかった。
けれど。だけれど。
その、走っていく少女の、誰にも見られることのなかった横顔が、耳まで真っ赤だったのはきっと、やっぱり、寒さの所為だけでは、ないだろう。
◆
その後。
バドミントンエリアからの去り際。
最早視界にすら入っていないはずの顧問の声で、『滅ブガイイ青春……』とか聞こえてきたのは、空耳ということにしよう。そう決意して、友香と秋穂は、駆け足でそれぞれの持ち場についたのだった。




