04 冬の唄・夢の跡(3)
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「悠。俺と、喧嘩しようぜ」
──とまあ、こんな感じで。
つい先ほどまで、穏やかにそして確かに漂っていた『いつも通り』は、あまりも唐突に、なんの前置きも伏線も無く、びっくりするぐらい簡単に崩壊した。
「はい?」
目の前で雄弁する匠に、僕は思わず疑問符を飛ばす。ついでに弁当をつついていた箸も止まる。
三年の教室。時計は昼休みの真っ最中を示していた。
クラスメイト達が購買での昼飯争奪戦を終えて、一喜一憂、その表情に成果を反映させながら帰ってきていた。
女子達は、机を合わせて食事を始めていた弁当組に混ざり、男子は男子で、そこここで固まって駄弁っているグループに合流する。男女混合のメンツも散見される。
かくいう僕も、同じクラスの友人たちと話をしたり、いつもどおり弁当目当てで、小動物の仕草でこちらによってきた(眼は飢えた肉食獣だった)朱音に白飯とバレンを分け与えたりしながら、学食に向かった匠を待っていた訳だが……。
そこに唐突に、匠のこのセリフである。
「だからさ。喧嘩だよ喧嘩、解らねえか? 俺はお前と喧嘩がしたいって言ってるんだぜ?」
「いや。その事実はこれ以上ないくらい伝わってる」
一拍置いて、紙パックのジュースをズズズズ、とひとすすり。ついでに、むうう、と、しゃがんだまま机にしがみついて、さっきから恨みがましい目でバレン越しにこちらを見ている朱音に、事前に作ってきていたこじんまりとした弁当(幼馴染の情けである)を渡して、それから続ける。
「ていうか、むしろそれしか伝わって来なくて困ってるとこだ」
思考も行動も冷静そのものなのに、言葉の背景が理解できない。しかし事実だけは明確すぎるほどに伝わってくる。
それはそうだろう。ワイシャツ姿の馬鹿が視界の端から全力疾走してきて、両手に抱えたソースたっぷりイモだけコロッケパン(濃い味)を机に優しく叩きつけて、いい笑顔で喧嘩しよう、と言われれば誰にでも伝わ、る……。
誰に……で、も……。
…………。
いや、常人には伝わらないな、これ。
自分で説明してて意味わからない。意味どころか、むしろなぜ自分がさっきまで理解できていたのかさえ解からない。
なんだこれ。
直前の行動が意味不明すぎて混乱するだろ。客観的に見ればこんなにも明確に意思表示してるのに、きっとそれを正しく処理できない。こんなのを正常に理解できるのは、生徒会で鍛え上げられた人間だけだろう。加えてそれに乗っかるなんてことが可能なのは一部の上位階級の危険人物取扱者だけだ。断言する。
『おい、匠が悠に喧嘩申し込んだぞ』
『喧嘩って申し込む物だっけ? それ決闘じゃない?』
『どっちに掛ける? 俺、匠に100円』
『じゃあ私会長ー。大穴狙いで。100ペリカ』
『……共倒れに、一平等院』
『なら、俺は倍プッシュだ……。ククク』
『二十円だよねそれ』
『副会長が攻めで、会長が受けにツェー万円だよ! ドン、さらに倍っ』
『『『双諭吉……だと……』』』
前言撤回。
うちの学校の生徒は皆、もう駄目かもしれない。
最早理解して乗っかるどころの話じゃないじゃないか。
何? 我が校はいつからこんな魔窟になったの? 生徒の自主性溢れる校風、って対外的に僕も立場上散々言ってきたけど、ホントにここまで無法地帯だったの? 一人地下労働者いたし。
あと、お前ら目先の諭吉に目がくらんで、大事なことへのツッコミを忘れてないか?
いいか? 攻めの反対語は守りだ。受けだとか、総受けだとか、そんな間違った日本語を僕は断じて認めない。言語学的見地から。言語学的見地から! たとえ現代用語の基礎知識に載ったとしても、広辞苑掲載が検討され始めても、僕だけは最後まで抵抗を続けるからな。(建前)
「火のないところに噂を立てられる身にもなるがいい!(本音)」
「悠。百面相していきなり叫びだした挙句に内容なんのことか解らんけど、口に出す方間違ってるぜ?」
「混乱してやった。反省はしていない」
己の魂から湧き出る叫びだったのだ。自分での否定は出来まい。
「堂々、と言え、ば、なんでも許されるわけ、じゃ、ない、よね?」
「朱音。お前はまず口の端についたご飯粒をなんとかしてから物を言え」
とってー、と顔を突き出してくる朱音に、箱ティッシュを押し付けている様子を見て何を思ったのだろうか、匠はくくく、と喉を鳴らして、
「まあ、いいや。悠が変なのは今に始まったことじゃねえしな」
「お前にだけは死んでも言われたくないセリフだったよ、それ……」
「そんなことより、喧「嫌だ」嘩だよ喧嘩「駄目」、喧嘩「嫌」しよーぜ。って、お前否定の回数多くね!?」
「嫌だ」
「駄目押ししやがったぜ……」
たっはー、と大げさにリアクションして見せる匠。もう少し付き合っていてもいいが、
「で、わざわざ他クラスまで来て、言うことはそれだけか?」
このままでは、昼飯の時間が無くなる上に、がぶがぶと弁当箱を着々と空に近づけている獣に僕の分まですべて食われかねない。小さな口と弁当の減り方が比例していない。怖い。
「突然冷たい目だなおい。──まあ待てよ、悠。話は最後まで聞くもんだぜ?」
正直、僕の意識は最早、本日のカロリー補給に向かっている。はらはらとした視線を朱音に向けて、僕は否定の言葉を続ける──予定だった。
「いや。理由がさっぱり解らない以上、どこまで聞いても、僕はそんな要求を呑むことは──」
けれど。
ない、と。金輪際ない、と。
僕は、そう言い切ることが出来なかった。
何故ならば。
「一月二十四日だ。その日、俺はお前に喧嘩を申し込む」
何故ならば、僕の言葉に割り込むように発せられた匠の台詞が、そんな意思を簡単に吹き飛ばした、から。
「む……」
その言葉に、ぴくり、と僕の心の琴線が震えた。正確には、その日付が示すものに、だが。
一瞬で、朱音の止まらぬ箸の動きから、意識が引き戻された。
「……お前」声のトーンが一段下がっているのを感じる「それ、どういう意味か、解ってるんだろうな」
「ああ、当然だぜ」
僕たちの声は、真剣そのものだ。そこに先ほどまでの弛緩した空気は、最早存在しない。
目だ。
この会話が始まって初めて、じっくりと匠の目を見て、そして気付く。表情こそいつも通りのニヤケ顔だが、しかし、その眼の奥にはどこか獣じみた、本気の光が宿っていた。
目を見ればすべて解る、なんて仲じゃない。そんな超能力を持ち合わせた記憶もない。
しかし、口にしていなくとも、何か考えがある。こいつなりの考えが。それだけは、間違いなく言えた。
僕は一度、目を閉じ一呼吸の後、
「……解った。受ける」
そう言った。匠の目を見て、その奥にある未知の光に向かって。
けれど匠は、ニヤリとさらに笑って言う。
「随分と、気が変わるの早いんだな。それに、曖昧な言葉だ。これじゃすっぽかされそうで怖いぜ。何せ、俺のやり残した事の解消だ。万が一ってのも嫌だぜ」
「そう仕向けたのはお前だろうが……。解んないようなら、はっきり言うさ──僕は」
ようやく見えた理由らしき言葉に、呆れ声で返しながらも、続くセリフに少し熱を入れかけた脳に気付いて、冷却のための思考を流し込む。
そうだよ、こんなもので熱くなるな。今ならまだ間に合う。
……はは。まったく呆れたものだ。こんな目に見えた、飛び切り安い挑発にひっかかる馬鹿なんてさ、
「──その喧嘩、言い値で買ってやるって言ってんだよ」
──僕ぐらいしか、いないだろう。
ざわり、と周囲の人間がざわつくのが解る。おそらく、去年の今頃の、『とある事態』を思い出しているのだろう。
けれど、今のはそれとは質が違う。あんな曖昧な終わりには、あんな有耶無耶な結末には、決してならない。なりようがない。何の根拠もないけれど、そう思った。
匠は、くくく、と今にも高笑いを始めそうな勢いで喉をならして、
「いいね、その買い言葉。馬鹿みたいにまっすぐで、魅力的だ」
匠はそこで、何か言葉を続けようとする仕草をして、けれどすぐに止めた。多分、そう、こいつはきっと、
「僕だって、変わるさ。あの時とは違う──」
──お前、変わったじゃないか、と。言いたかったのだろう。
それを裏付けるように、匠は一瞬目を見開いた。いつも浮かべている笑みも、少しの間消えていた。
驚愕だった。
……こりゃ珍しい。こいつが、この全部を見透かしたような飄々とした男が、素で驚くなんてなかなか見れたもんじゃない。
「く。くはははは!」
そして、翻って匠は笑う。心底楽しそうに。
「──約束だぜ、生徒会長?」
そう言うが早いか、踵を返し、パンを持ったままどこかへと消えていった。匠のことだ、きっと、自分のクラスに戻ったのではないだろう。
『あ、ちょっと、匠くん? これから授業なんだけどえ待って待ってどうして速度上げるのいやんこんな可愛い先生を無視しないでー。うっふん』
遠くで聞こえる宇宙人の声もそれを物語っているし。
まあ、とりあえず今の僕に出来ることといえば、残された僅かな時間でさっさと昼食を食べて、午後からの英気を養うことくらいだろう。
そんな考えの下、僕は一度置いた箸を手に取り、机の上に視線を送り、一拍、再び箸を置く。そしてジト目を、机の陰を通って逃げようとしていた小さな獣へと向けた。
「……おい、朱音」
びくり、と肩が震え、長い髪を揺らしながら、整った顔がこちらを向く、
「えっと……」壱秒ほど停止し「ごちそう、さま?」
これまた言うが早いが、とてとてとて、と早足でどこかへと逃げさっていった。おおかた自販機まで買出しだろう。一緒に昼食をとっていた友人たちも、何が何だか解からんが頑張れよ会長! と声をかけて午後からの移動教室の準備に、それぞれの机に帰っていった。
そうして、嵐は過ぎて束の間、一人。
背もたれが僕の体重を受けて、ギイと抗議の声を上げた。
まったく、と呟いて、それから、
「……僕はもう、会長じゃないっての」
そんな、ふと漏れ出た、今更ながらのツッコミは、からっぽになった弁当箱のように空しく、ため息と一緒に机の上に転がっていくだけだった。




