03 月色(5)
そして、そのまま数秒が過ぎた。僅かな間だろうが、しかしその重さはひどく理不尽だ。
だからさ、それは嫌いだって言ってるだろ。
「……悠と友香は、どうなってるかしらね」
沈黙を破る役割は、秋穂に回っていた。
「……それは今家庭科室で、ってことか? それともあの初々しい恋の進展具合についてか?」
「どっちも、よ」
「家庭科室では馬鹿やってるだろ、いつも通り。集まると漫才になるんだから」そんで「恋のほうは、どうだろうなあ。さっぱり読めやしないぜ」
「そうよね。そもそも、あの二人に、自分自身の感情の正体を知らない、って言われたら信じるわよ私は」
まるっと小学生みたいな理屈だぜ。まあ、ありえなくもないところが怖いが。
「あいつらは鈍感だよなあ。相手にも、自分にも」
俺はくくく、と喉を鳴らして笑う。
「お互いがお互いの気持ちに気付いていない典型的なパターン……いえ、もしかしたら気付かないようにしている、のかもしれないわ」
「気付けないような強烈な暗示、ってのもあるかもな」それに「まあ、悠の場合はやっぱり、きっとあの宣言が尾をひいているんだろうぜ」
一年前。あの秋の、無表情な少女が放った一つの言葉が、フラッシュバックする。
あれは衝撃であり、きっと──楔だ。
俺にでもわかる。
あの宣言が存在する限り、たとえそれがどんなに心からの撤回の言葉であろうと、すぐに信じることは難しいだろう。そして、自分自身が相手の宣言とは真逆の感情を持った時も、口に出すのは、伝えるのは止めようと、そう思ってしまうような。
それほどまでに、きつくきつく彼らを縛る鎖を、決定的に打ち付けた、楔。それがあの言葉だ。
言ったほうにとっても、言われたほうにとっても。
互いの心に。
深く、深く。
突き刺さっている。
「そうね。でもそれは、結局は本人たちの認識の問題よ。私達が外野からどうこうできるものではないわ」
「そりゃそーだ」
言いながら、少し前、といってももう数ヶ月以上遡らなければいけない位昔だが、夏のことを思い出して、続ける。
「この前の花火大会の時だって、わざわざ二人きりにしてやったのに、何も進展がなかったみたいだぜ?」
おまけにあの日は予報外れの雨だった。運まで無いみてえだな。
「それは違うわ」真剣なまなざしで「何を進展と取るかも、本人次第でしょう」
「俺たちには見えないところで少しづつ、ってか?」
「あの二人は僅かずつ、楔を抜いて、鎖を緩めているのよ。傍からみたらあまりにゆっくり過ぎて、なんの動きもないけれど。きっと、二人の心の中では──」
秋穂は、最後まで言葉を紡がず、息を吐いた。けれど、その言葉にならなかった思いは、その表情から十分に伝わってきた。だから、
「そうだな」
俺は笑う。笑って言う。
いつか。
きっといつか、始まりから歪んでしまってたあの二人の関係が全ての鎖から開放される日が来たらいいと。あの秋から一年間、いや、本人達にとっては二年間以上、延々と続いてきたその拘束から抜け出して、素直になれる日がきたらいい、と。
割と本気で、そう思うぜ、俺も。
そこで、会話が途切れた。今度は、沈黙の目立たない自然な終わりだった。そこでふと、自然と二人、半端な高さの月を見上げる。
まだ低いそれは、中秋の名月。深まり始めた宵闇の中、確かな銀の輝きを放って、静かに冷たい風を生み、温い陰を地上に落としていた。
……本当なら、ここで会話を終えてもよかった。このまま平穏に、いつもどおりおちゃらけながら後輩達の手伝いに回って迷惑がられて、秋穂に突っ込まれて、それでも良かった。
けれど、その月光に、なんだか全てを見透かされているような気がして──自分の心を隠してはいけないような気がして、思わず自然に口が動いていた。
「なあ、秋穂」
「なによ?」
そうして俺は、言わなければいけない質問を、口にする。
「──鈍感なのはさ、あいつらだけかな?」
「…………」
後に残る静寂。ざらつくような俺の苦手な沈黙だ。
だが、今回のこれにはきっと、意味がある。あの秋穂がこの質問に対して、答えを考えてくれている。そんな間だ。少なくとも、俺のほうからこれを破ってしまう訳には、いかない。
そうして、
「誰の、ことかしらね」
沈黙の向こう。それが彼女の答えだった。
そっか。と心の中で呟き、しかしそれでも、
「いや、ちょっとした女の子の話だぜ。俺が絶賛片思い中の、それはそれは鈍い女の子の、な」
「あら。女性といるときに他の女性の話を持ち出すの? 私だからいいけれど、他の子相手なら、匠。貴方今頃刺されてるわよ」
「言っておくけどそんなアグレッシブ女子はもう人類じゃねえぜ?」
苦笑いでそんなセリフを口にして、軽口を受け流す。無理にボケようとしているのではない、いつもの秋穂のトーンだ、安心して受けられる。
「……それにしてもあれね、貴方、好きな娘とかいたのね」
「ああ。俺だって高校生男子だ。いっぱしに恋ぐらいするさ」
「どんな子?」
おおう、これは想定外かつストレートな質問。さてさてこれはどうすべきか。俺の意図を『解かって』いて試されてるのか、それとも。
「ちょっと気難しくて、素直になれないところもあるけど、いい子だぜ? ただ──」
少しだけ迷ってから、正直に言うことにした。斜め上に目を逸らして、かつ、普段より柔らかい声なのは勘弁してほしい。俺だって照れてる。
「ただ?」
秋穂が、珍しくそこそこ興味を持ったのだろう、横からこちらを覗き込んで問う。
「そいつはさ、一人で背負いすぎるところがあるから、そこだけ少し心配だったりする。こっちとしては、何時だって支えてやれるつもりなんだけどな」
なにぶん鈍感でさ、そこも気付いてもらえねーや。と、秋穂の目を真っ直ぐ見つめながら、笑って言った。
「……そう」
言いながら、俺の視線でようやく自分が思った以上に興味を示していたことに気付いたのか、ふいっと顔を逸らし、また元のように壁に寄りかかり、前を向く。一連の動作は実にいつもどおり。取り繕う訳でもなく、むしろその必要もないほど冷静で、綺麗な仕草だった。ただ、ほんの少しだけ、耳の端が赤いのは月明かりのせいってことにしておこうか。
俺はそれを横目で見ながら、こんな不意打ちでも慌てたりはしないんだなあ、などと余計なことを考えて、またくすりと笑ってしまう。
「何笑ってるのよ」
「いや、ちょっと嬉しくてな」
「……いつだって訳がわからないわね、匠は」
こっちを見ないままで言う秋穂に、俺はくくくと笑いだけを返した。ああ、嬉しいさ。また一つ、新しい面が見れたことが。ただそれだけのことだぜ?
たださ。俺としては、このままやらっらぱなしってのも、腑に落ちないよなあ。
「アドバイス」
唐突に切り出してみた。
「は?」
案の定疑問符が飛ぶ。
「その鈍感な子に気付いてもらうにはさ、俺はどうしたらいいと思う? アドバイスとかさ、無いか?」
意趣返し。さっきの意地の悪い質問に対するそれを、俺は堂々と放ってみた。さて、どう出る。
「…………ん」
眉根にしわを寄せて、唇に曲げた指を当てる。何かを考えるときのこいつのくせだ。今日はなんだか多く見ている気がする。
「一生懸命さを、見せなさい」
「うん?」
「熱意よ、熱意。言葉の駆け引きだけじゃなくて、ただ真っ直ぐな情熱を」意地悪に口の端を上げて「例えば、そうね。同じ大学とかにまで追いかけてこられたら、流石に気がつくんじゃないかしら、その鈍感さんも」
「同じ大学ね。そいつは難しいかもなあ。なんせ向こうは成績優秀、志望校は羽宮大学の医学部ときた」
……そうか、それが条件かよ。そのくらいの根性を持って向かって来いって、そういうことだと俺は受け取るぜ?
「そう。偶然ね、私もそこ志望だわ。……もし出会ったら伝えておきましょうか?」
「お前が受かるのは確定なのかよ」苦笑する「いや、いい。ちゃんと自分で伝えられなかったら意味ねえだろ、そういうの」
まあ、伝わるかどうかは別だけどな。なんて、嘯いてみる。
「そうね。意味ないわ。けど」
「けど?」
先刻、秋穂にされたのと同じように聞き返す俺に、彼女は、
「伝えればきっと伝わるし──応えてくれるわ、その子も」
優しい表情でそんな風に、言った。
……ああ。と、俺は息を吐く。
「そっか」
それもまた、お前の答えか、秋穂。
と。
「お待たせー」
屋上の入り口近くから、聞き慣れた声と共にこちらに歩いてくる人影があった。調理室組の三人と、それに続く後輩たちである。
「りゅーくん。わたし、テーブルにお団子とか、並べてくる、ね?」
「ああ、よろしく頼むわ」
そんなやり取りをして、朱音が後輩達を引き連れてテーブルへと歩いていく。向かった先で黄色い歓声があがる辺り、朱音人気恐るべし、と言う他ないが、それを苦笑いで見ている生徒会長の手前言葉にするのは止めておこう。ていうか俺としても自分との扱いの差を感じて心が痛いぜ。
「なあ、それ──」
話を逸らそうとした質問をそこまで言って、ふと気付く。悠の持っている鍋から漂ってくる食欲を誘う匂い、これは──。
「あー、聞いてもいいか?」
「「びくぅ!?」」
効果音口に出してまで動揺するんじゃねえお前ら、なんかあったの伝わっちまったじゃねえか。というツッコミは後回し。まずはこの鍋の中身の正体を明らかにすることが先決だぜ。
「……なんでカレー?」
「「い、いろいろあって……」」
悠と背後の友香。二人は同時に目をそらしながら、言った。
「色々ってなんだよ、何があったんだよ。ていうかお前らお団子とおにぎりに合う煮物とか作りに行ったんじゃねーのかよ!」
「知らないほうがいいことも、ある」
「止めろ悠かつてないほど神妙な顔で不穏なセリフ吐くんじゃねえ。友香も『悲しい事件でしたね』みたいな表情で目そらすな! うわこのコンビ超怖え!」
「「まあ、普通にトラブルをリカバーしただけなんですけどね」」
「テメエらそのネタ打ち合わせなしだったら褒めてやるぜ……」
ていうかなんだよ。うらやましいくらい息ぴったりじゃないか、こいつら。秋穂なんていつもの表情でただこっち見てるだけだしなあ。
「……まあいいや。とりあえずテーブル持ってこうぜ、準備も丁度出来たみたいだし」
おう。と言いながらそちなにむかって歩きだした悠と、その後ろを、やっと鍵括弧付のセリフを貰えた気がしますね、などと意味不明なことを呟きながらトテトテとついて行く友香。その背中をため息混じりに見送って、
「……やっぱり、貴方たちは、いつでもどこまでもこんな感じなのね」
ずっと黙っていた秋穂が、そんなセリフを、ゆっくりと形にした。
「今更すぎるぜ、それ」苦笑して「呆れたか?」
「まあ。半分、ね」
「もう半分は何だよ?」
その意外な返答に、思わず俺は問い返していた。
「…………ん」後ろの壁によりかかかって「……正直言うとね。少し、羨ましかったのよ」
数瞬の間の後。唐突に紡がれた言葉は、けれど、今の問いに対する返答ではなく、先刻の俺の質問に対する呟きだと、すぐに解かった。
どうしてあんなことをしたのか。そんな、既に答えを放ったはずの問いかけへの、再度の回答。
「貴方たちがあまりにも自由で、誰かが──私がそれを止めなければどこまでも走り続けるでしょう? 仕事にしたってボケにしたって。それこそ倒れるまで、良くも悪くも」
そこで、伏せていた目を俺へと向ける。真っ直ぐに、強く、けれどどこか不確かな光をその瞳に湛えながら、続ける。
「止めなきゃいけないから、混ざれない。私は私らしくいなきゃいけないから、一緒には走れない」
言葉は、挟まないし、挟めない。秋穂がようやくその硬い扉の鍵を緩めた隙間。そこから漏れ出した言葉だ、聞き逃すわけにはいかなかった。
「あのらしくない挑戦の意味はね、匠。少しだけ、貴方たちと一緒に走ってみたくなった。そんな、なんでもない些細な理由だわ、きっと」
そうして彼女は、手を伸ばす。天球に座すその輝きを、きゅっと掴むような仕草をして、パタリとその腕を下ろす。
「私は走れないのよ。その夢は、きっと手に入らないわ」
抑揚の抑えられた声で言ってから、握ったままの手を胸元に持ってきて、そっと広げる。そこにあるひとつの、当然の結果を見つめて、ふ、と吐息。視線だけを空に向ける。月はまだ、彼女の瞳の中に浮かんでいた。
そしてそれが──その水鏡のように潤んだ瞳が、夜空に放つのは、決して届かないもの見る眼差しで。
「──走れ」
俺は、言葉を紡いでいた。何を言わなければいけないか、何を言うべきなのか。そんなことを頭で考え終わるよりも、ずっと早く。
「え?」
秋穂の視線が、月から俺に移る。そう、
「走れよ、秋穂。やりたいなら存分走ってみればいいじゃねえか。ただし、あくまでお前らしく、お前のペースでな。今日みたいに無理はすんな」
その願いは月ほど遠くない。願えばそこにある、手が届く。少なくとも、俺は──ここにいる。お前の隣に。
「そんな風にお前が走るなら、俺はその隣を並んで走って、必要なら支えてやるぜ?」
そうだな。例えば、ちょっとレベル上の大学ぐらいまでならな、と、その後に続けるべきだった言葉を声にせず飲み込んで、心のエンジンに燃料として詰め込んだ。
いつか伝える、というそんな感情と相まって、それはきっと掛替えのない原動力になる。
秋穂はそんな俺を見ながら、きょとん、とした表情を浮かべた後、目をつむって、それから笑う。
「並ぶ? 追いかける、の間違いでしょう? それ」
そんなセリフをいつものトーンで俺に放って。そりゃあ違いない、と俺が笑って。
そうして、俺達は歩き出す。
いつもどおりの掛け合い。いつもどおりの二人の距離。
向かう先にあるいつもどおりの喧騒。
視線の先にあるいつもどおりの背中。
その全部が馴染みあるものだったけれど、月に照らされながら皆の輪の中に歩いていく彼女の歩調は、いつもよりもほんの少しだけ軽く、速いような、そんな気がした。
いや気がするだけじゃないな。俺には、解かる。ずっと見てきた、俺には。
断言しよう。
それは確かに、秋穂なりの駆け足の、最初の一歩だった。
背を追う足を止めて、思う。そうだな、この名月に向かって少し気取った言い方をするなら、
「人類にとっては小さな一歩でも、ちっぽけな人間にとっては大きな一歩だ、とかな」
なんて、そんなつまらないことを夜空に向かって投げてみるのだった。
謳うように。口笛のように。
さてさて、これにて月色は完結となります!
いかかがでしたでしょうか。
次は冬。スポットは今回大活躍のあの人な短編になります。
ご期待ください!




