03 月色(3)
「はあ……」
一度緩んでしまった空気は、そう簡単には元には戻らない。
そのことを知っていたのだろう、秋穂は眉間に寄せていたしわを怒りと同時にほどき、ため息をひとつ吐き出した。
「そう怖がらなくていいわ。別にとって食おうって訳じゃないんだから」
呆れた顔で後輩達に向かってそんなことを言う。うん、僕達のほうに向かって言ってはいないところがポイントだ。なんだろう、殺意だけでハンバーグとかにされそうな勢いだった。
とてもそうは思えませんでした。というかクリアファイルでスライスされて焼かれるかと。と、後輩たちの中から妙に僕の思考とシンクロした代表意見がひとつ。
「そこの今回まともなセリフすらないモブな後輩は黙ってなさい」
ひどいです!? またしても聞きなれた声だった。…うん、流石になんかそろそろ可哀想になってきた。
「なんだかアナタと匠の馬鹿のせいで、私の出番が著しく減った気がするのよ。特に夏あたり」
まあ、確かに。いや、出番とか言ってることについてはなんのことやらわからないが、ここ最近生徒会の面子で遊ぶ機会にはことごとく不参加になってしまっていたことは確かだった。
「秋穂、ちゃん。怒って、る?」
朱音がいつものトーンでそんなことを訊ねる。僕や匠ならば確実に地雷質問(返答として予測されるのは『あ?』オンリー)だけれど、まあ秋穂は朱音には甘いので、そちらもまた普段通りの調子で、
「怒ってないわよ」
ほらな。いつも通り──
「ちょっとツリ目なだけ」
「っておい。ちょっと待て」
「なによ。事実しか言ってないわ、私」
「いやそんな意味じゃなくてだな」分かりずらいボケをかますのはどうなんだと「あとそれ自分で言ってて悲しくないか」
「自慢のチャームポイントよ」
「そう、だね」
「簡単に納得するな朱音。それは孔明の罠だ。ついでに言うとその人を殺せそうな眼光で誘惑出来るのはごく限られた人種だけだと思う」
「そんで、怒ってる? とか聞かれちゃってる時は大体いつもホントに怒ってるのが秋穂クオリティだぜ」
「怒ってないわよ(怒)」
「解かりやすく怒ってらっしゃる!?」
「……額にリアルな青筋浮かべながら言っても説得力とかナッシングだぜ?」
ていうか今こいつカッコイカリカッコトジって口で言ったぞおい。
「まったく。毎度毎度あなたたちは軽口しか叩けないの?」
自分のことを全力で高層ビル級の高さに棚上げする勢いで言い放った。顔は完全にあきれ果てていたが、説得力など皆無である。
「や、このくらいの軽口ならむしろ、秋穂基準でも普段通りっつーか。なあ悠?」
「ああ。というか今日のお前にそんなこと言われる筋合いはないな。いや、割と本気で」
秋穂はちょっとした軽口を言い合うくらいには柔らかいのだが、あんなに明確なボケをかますイメージはまったくと言っていいほどない。それがさっきから大盤振る舞い中なのだ、僕らの動揺レベルについては察してくれるとありがたい。
「失礼ね」むすっした表情で「私だって冗談ぐらいは思いつくわ。人間だもの」
「みつ、お」
「「ぶふぉあ!?」」
あまりの絶妙加減に、匠と二人で吹出してしまった。
「朱音!? 止めてよなんか打ち合わせしてあるみたいじゃない!?」
珍しく慌てた秋穂の視線の先には、ひょっこりと顔を出した朱音。彼女がこれ以上ない位のタイミングで絶妙な返しをいれた訳で。まさかの味方からのキラーパスだった。
「ナイスアシストだ、朱音」
「グッジョブだぜ、朱音」
「あんたたちはやっぱり一発殴っておくべきかしらね……」
「殴るって言葉にクリアファイルのアルミの角で切り付ける、なんて意味は含まれてないからまずはその手に持った凶器を置け」
言葉がはらんでいる怒気が半端ではなかった。朱音に向けることのできない怒りが上乗せされてるな、これ。
もし感情が目に見えたなら、今頃この部屋は赤色のオーラで覆い尽くされていることだろう。
「……まさか朱音に裏切られるとは思ってなかったわ」誰に向けられたのか、憐憫な溜息「私も錆びついた訳ね」
「う?」
その自虐とも恨み節ともとれる言葉に、朱音は小首を傾げた。
「私、裏切って、ないよ? 多分。 秋穂、ちゃん、を助けてあげよう、と思って」
「え?」
その疑問の発露に、秋穂も疑問符を返す。そして、それに返ってきた回答は──
「秋穂、ちゃん。空気、和ませようとしてたんじゃ、ないの?」
──僕なんかには、予想もつかなかったものだった。
「…………」
沈黙を通り過ぎて、静寂。このやり取りの間も終始小声で飛び交っていた後輩たちのやり取りさえも止まった生徒会室。
最初とは含まれた意味の違う視線が今度は交差することなく、秋穂へと向かう。まっすぐと、彼女へ。
「……そう思うなら、そう思っていればいいわ」
注目を一身に浴びた彼女は、ぽつりと、それだけ呟いた。
「お前、それ──」
思わず僕の口をついて出た追及の言葉を、
「ともかく!」
と、秋穂のよく通る声と、僕の制服の裾を後ろからつかんで引っ張る朱音の手が、遮った。
「…………ん」
振り向いて、目が合う。互いに無言だったけれど、朱音の言葉は確かに伝わった。解かってる、僕はそう視線で返して、不用意な発言を飲み込んだ。
秋穂は、幸いこちらを見ていなかったようで、そのまま続ける。
「根をつめても仕方ないのは事実よ。幸い、少し余裕はあるみたいだし、息を抜いてもいいんじゃないの?」
「や」
僕は、気を取り直して言う。
「そうは言っても、流石にこの修羅場じゃなあ……」
「もう少しちゃんと場を見なさいよ。あんた、まかりなりにも生徒会長でしょ?」
「まあ、そうだけどさ」
「そういえば、そう、だったね」
「おい朱音流石にその反応は、ってお前らなんで皆『ああ、言われてみれば』みたいな顔で納得してんの?」
後輩達がぽん、と一斉に手を打っていた。おい、いい加減泣くぞ僕。
「自分より上の立場とは思えないほど、慕われてるんじゃないの?」
「いやな慕われ方だなあ!?」
「憎まれっ子世にはばかるって言うぜ?」
「なんか日本語間違ってないか、それ? それに合ってても僕憎まれてるじゃん!」
僕、生徒会長。これはまごうことなき事実である。……えっと。事実だよね?
というか、なんだかいつの間にか、すっかり普段通りの雰囲気だった。
「ホント、…………だわ」
「うん?」
「何でもないわよ」目を細め「ほら、とりあえずそこの机見てみなさい」
腕を組んだままで、あごを使ってさしたその先には、
「書類入れ?」
青色のスタンダードなそれである。今朝までそこには処理しなければいけない案件が紙の形で、枠から溢れるばかりに山積みになっていた。が、
「そうよ。どう? もうほとんど残ってないわよね?」
「そう、だけどさ…」思わずうなずいてしまいそうになるが「いや、それは皆がそれぞれ手元に持って行って処理してるからで」
そう。書類は、ただそこにないというだけだ。各々の机には居場所を変えた紙片が無造作に散乱している。
「そう見えるでしょうね」
「どういう意味だよ?」
秋穂はそんな僕の問いには答えずに、
「ねえ、皆」呼びかける「処理の終わった書類、ちょっとここに入れていってくれる?」
言って、ピンク色の同サイズのブリーフケースを目の前の机に置いた。
指示に従って、わらわらと集まって、数枚の紙を入れて、また戻っていく。そんな作業を何度か繰り返したのち、最後に秋穂が自分自身が処理した書類を置いた、そのピンク色のブリーフケースには、
「お」
ほとんどすべての書類が、今朝と同じように山をなしていた。違うのは、その量が朝のものより若干少ないことと、その全てがすでに完成されているものだということ。
「どう? これであなたにも解ったかしら?」
「……ああ」
肯く。これ以上明確な諭しはないだろう。
見ての通り、作業は、ほとんど終わっていた。
「皆がめずらしく頑張ったからかしらね。予定よりかなり早く仕事、進んでるのよ。ただ少しだけ整理が終わっていなかったのと、仕事が早く終わるっていう事実に、あんたたちが慣れていないだけで。それを本能的に解っていたから、時間無いとか言いつつ、あんな裁判ごっこ始めたんじゃないの?」
「ぐ」
ぐうの音も出ない勢いだった。確かに本当に心の底から余裕がなければ、秋穂のボケもスルーしていたかもしれない。少なくとも今朝、作業開始の時点ではそうだっただろう。あくまでも、もし、の話だが。
秋穂は、机の上に残った書類を数枚手に取り、続ける。
「だから、今日はもうここの予算書の修正と、委員会への要望の書類を作れば、明日の午前で十分作業は終わるわ。だったら、そこまでが今日のノルマよ。終わったら、少し遊んでも大丈夫でしょう?」
「あれ?」
と、その言葉に僕は思わず疑問の声をあげる。そして、気付いた様子の匠が僕の言葉の後を引き継いで、
「いやいや秋穂、今日中に臨時部費申請制度の書類サンプル作って、部長会側にまわさないといけねーよ。こればっかしは明日やったんじゃ間に合わないぜ」
さらっと、矛盾をついた。
そう、そこである。
今回の修羅場を作ったひとつにして最大の原因が、今年度から始めるその制度なのだ。部活動関連の器具設備の老朽化等に伴って、毎年そこが部費の予算分配会議での焦点になり、部同士の小競り合いが絶えなかった。そこで、その救済制度を学校側が予算を組んで行うから、生徒会がその窓口になって生徒総会で部長会からの決議を取ってほしい、と教員側から要請があったのだ。実に画期的な出来事だ! と僕たちは喜んで・笑顔で・全く全然嫌な顔一つせず、その要請をお受けした。
……それが、つい昨日の出来事である。
中期生徒総会は、明後日の月曜日。議案書含む諸々の完成期日は明日の夕方まで。
おわかりいただけただろうか、このタイム・マジック。
……どんな無茶振りだよ、と思うだろう。しかし僕たちは受けた、表面上は実に快く。
「ぶっちゃけ、このくそ忙しい時になにふざけたことぬかしてんだ焼き払うぞ職員室、とか思ったけど笑顔で僕は依頼を受けたさ。だってあの人類かどうか怪しい顧問に何言ったところで『ゴメンねー、伝えるの忘れちゃってた。職員会議で決まってから二週間位ずっと。てへっ』としか返ってこないのが解かっていたからあ!」
回想シーンが脳内で暴走して、僕は思わず叫んでいた。今頬をぬらすこの液体の正体が血涙でないことを僕は切に願う。
「なに泣いてるのよ……怖いわね」
「どうやら普通の涙みたいで超安心した」
「涙ながしたまま一瞬で真顔にならないでよ……」
「超安心した!」
「今度は泣いたまま笑顔…。やめて頂戴、その百面相」
わりと本気で気持ち悪いわ。とバッサリ。僕の安心の表現を切り捨てないでほしい。
「それに、そんなに嘆かなくても、それならさっき終わったわよ」
「え?」
思わず、聞き返す。認識した言葉に、そんな訳がないという疑問が打ち勝った結果である。
「臨時部費の件は終わった、って言ったのよ」
けれど再度出た返答も、また同じものだった。
「あんたたちが武道系の部活の男子生徒あたりと小競り合いしてる間に、部長会長に渡しておいたわ。ほら、彼女、剣道部の部長だから」
「あー、あの小柄な女の子な」
匠のそんな相槌に、利発そうな例の彼女の顔と、剣道部男子どもを連行していった後姿が脳裏に浮かぶ。
「いや、でもそもそも完成してすらいなかった書類をどうやって……」
「愚問ね」
秋穂は、一言でそれを切り捨てて、そして、
「私を──誰だと思ってるの?」
傍目には曖昧にして、僕らにとっては他のどんな返答よりも解りやすいそんな言葉を、威風堂々、言い放った。
「流石」
──覚えておけ、後輩達。これが現生徒会役員の良心にして爆弾抱えたツッコミ役、そして僕の知る限り最も仕事のできる人間、因幡秋穂の姿である。
僕にはきっと、こんな誰かを助けるほどに有能な姿は、見せることはできないから。
僕に出来ることを目いっぱいしている姿しか、見せることはできないから。
「何言ってるのよ」
秋穂は、
「私も、私にできることを、しているだけよ」
あんたたちがいつもやってるみたいにね。なんてそんな、らしくないことを呟いて。
「さあ。もうひと踏ん張り、頑張りましょう」
そう言って、書類を順番にそれぞれの机の上に置いていく。一人一枚分もない、最初に比べればわずかな量だ。
「それが終わったら、少しだけ」歩きながら、まるで演説のように「少しだけ、息抜きをするのよ」
ぐるりと生徒会室を一周して窓際に向かい、こちらを向いたまま、その枠に腰かけるように体重を預ける。そして、
「例えば──そうね、皆で空でも見上げて、美味しいモノでも食べて、何にも考えないで笑ったらどうかしら」
言葉と同時、ざあ、と秋の風が半分だけ閉じていたカーテンを吹き上げ、秋穂を中心として、一瞬だけ窓の外があらわになる。
「だってほら──今夜はきっと、月が綺麗よ?」
そう言って微笑む秋穂と、まだ仄暗いだけの夕闇の空に浮かぶ、昇り始めたばかりの透き通ったどこまでも丸い月。
揺れるカーテンの向こうのその光景、そして彼女の微笑みは、まるで窓枠の中に描かれた、一枚の絵画のようだった。




