グラデーション
祖父は僕が投げたボールを捕り損ねて、後ろへそらせてしまう。
「おお、すまんすまん」
これでもう四度目。昔は野球が得意だったらしいけれど、今では視力も反応もすっかり衰えてしまって、キャッチは下手くそ、投げるボールも山なりが精一杯のただの老人だ。それでさえ、まともに届かないことがある。
「はて、この辺りだったと思ったが」
ボールは公園の植え込みに入り込んでしまい、なかなか見つかりそうもない。祖父の丸まった背中がどんどん遠くなっていく。
「そんな奥まで転がってないと思うよ」
僕の声はしかし、このところ耳が遠くなった祖父には届かない。
「爺ちゃんってば。どこまで行くんだよ」
祖父は膝まである雑草をかき分けて奥へ奥へと進んでいく。仕方なく僕も草むらに足を踏み入れた。
早歩きで追いかけているというのに、祖父の背中は近づくどころかますます遠ざかっていく。
「ちょっと待ってよ!」
僕はいつしか走り出していた。両手をリズム良く振り、膝を高く上げ、ともすれば乱れそうになる呼吸を一定に保つよう意識して、その背中を追いかける。
限界はとうに過ぎていた。足を止めてしまいたい。この場で倒れることが出来るなら、どんなに素敵だろう。それが出来ないのは―― それをしないのは、こんな僕を応援してくれる幾つもの声援があるから。
「がんばれ!」
「そんなに離れてないぞ!」
「あと少しだ!」
僕は歯を食いしばって前へ前へと足を出す。周りの応援が聞こえているうちは諦めないと心に誓って。
朦朧とする意識の中、追いつかない背中を追いかけて、薄暗いトンネルを走り抜ける。
と、その時。
ひときわ大きな歓声が僕の鼓膜を震わせた。顔を上げると、楕円形の会場を埋め尽くした人々が立ち上がって必死に手を叩いて応援をしているのが見える。
とうとうスタジアムに戻ってきたのだ。
ようやくここまで来たという感動と、トップに引き離されていく焦燥感がない交ぜになって僕に襲いかかる。
残されているのは四百メートルトラック二周半のみ。
「まだ追いつけるぞ!」
「いける! いける!」
「前を抜けば優勝だ!」
本当だろうか。
まだ、いけるのか。
僕は人々の歓声に押されるように足の回転をあげた。
引き離されていたはずの背中が少し近づいてくる。
いける。
追いつける。
追いついてみせる。
一歩。また一歩。感覚のない足を信じて、前へ。前へ。
相手の背中はもう、手を伸ばせば届く距離にある。あと少し。あと一歩。
ひときわ大きな歓声が会場に弾けた。
並んだ。
とうとう追いついたのだ。
そのまま相手を抜き去り、前へ出る。
絞りきった雑巾から最後の一滴を吐き出させるように、僕は自分に残っている最後の一滴を吐き出して大地を蹴った。
逃げる。逃げる。逃げろ。逃げろ。
追いつかれるな。
追いつかれたらおしまいだ。
複雑に入り組んだ路地の中を、僕は直感だけで駆け抜けていく。
狭い十字路を左に曲がり、すぐにまた右へと折れる。このまま上手く港に抜けられれば僕の勝ち、袋小路に行きついてしまったら相手の勝ち。いずれにしても、命がけの追いかけっこはもうすぐ終わる。
ごみ箱をあさっていた野良猫が迷惑そうに顔をあげ、残飯をついばんでいたカラスが舞い上がり、新聞紙と段ボールのかたまりから薄汚れた男が顔をだす。生きるために生きているだけの、浅ましい連中。
ああ、何と言うことだろう。
昨日まであざ笑っていた惨めな世界の住人たちを、羨ましいと思う日がくるなんて。
だけど、そう。
生きるためだけに生きるというのも、案外悪くない気がする。今日のために食べ、明日のために眠る、それだけの日々。目的もなく、展望も持たず、ただ生きる。
次の人生があるのなら、今度は段ボールの中で、ただ生きるためだけに生きてみよう。
そんなことを考えながら、幾度目かの曲がり角を右に折れる。
ふいに、風が。
潮の香を纏った風が、僕の髪を撫で上げた。
それから、光だ。
細く伸びる道の先から差し込んでくる、白い光。
「…出口だ」
思わず声がもれてしまう。
ああ、出口だ。
ようやく抜け出すことが出来たのだ。
手を広げて迎えてくれる母親のように、白い光は優しく僕を待っている。
言葉にならない声を漏らしながら、僕は信じたことのない神に祈りを捧げた。
ようやく始まる。正しい日々が。正しい日常が。
人よりもずいぶん遅れてしまったけれど、これから僕の本当の人生が始まるのだ。
僕が、始まるのだ。
朝。柔らかなベッドで目を覚ます。あくびまじりに着替えを済ませ、新聞を片手にテレビをつける。事件や事故を他人事のように聞きながら、トーストにバターを塗って、半熟気味のベーコンエッグをフォークで崩し、苦味の強いコーヒーを口に含む。食事を終えたら、そろそろ仕事へ行く準備をしないといけない。最初は日雇いの仕事に就くだろう。ずっとアルバイトだってかまわない。金なら使い切れないほどあるのだから。
生活が安定してきたら結婚をして、やがては子供ができるに違いない。そうしたら小さな家を景色の良い場所に建て、つつましく暮らしていこう。ささいなことで驚いたり、喜んだり、悲しんだりしながら――。
そんな世界だ。
光りの向こうに広がっているのは、幸福に彩られた、そんな世界なのだ。
ふと。両手に冷たい感触をおぼえて、僕は我に返った。
固く湿った、壁のような物が目の前に立ちはだかっている。押しても叩いてもビクともしない。
これは、何だ?
そう言えば、光はどこにいったのだろう。今まではっきり見えていた光が見あたらない。
この壁に遮られているのだろうか。さっきまではこんな物なかったのに。
おかしいのはそれだけではない。
身体が壁に押しつけられて、離れることが出来ないのだ。後ろへ下がろうとしても、そこに足場がない。
いったい、どうなっているのだろう。
僕は途方に暮れて壁を見上げる。
そこに、光があった。
光が空に。いや、違う。
……ああ、そうか。
ようやく僕は理解する。
そういうことか。
目の前に壁が出現したわけではない。光りが空に移動したわけでもない。
見上げた方向こそが前で、壁だと思ってたのは地面だったのだ。
僕は、倒れていた。
立ち上がろうとしても身体が動かない。寒いわけでもないのに歯の根があわず、カチカチと耳障りな音をたてている。
逃げ切れたという安堵感と走り続けてきた疲労が弛緩剤のように全身に染み渡り、極限まで張りつめていた緊張を緩めてしまったのだろう。力がみるみるうちに抜けていく。
少しだけ。
少しだけ休もう。
慌てることはない。出口はもう、すぐそこなのだから。
僕は全ての力を抜き、目を閉じる。冷たい地面の感触が心地よく、強い眠気が押し寄せてきた。
そう言えば、いつか観た映画でこんな場面があったことを思い出す。
あれは確か、汚れた過去から逃れることに成功した男が、薄暗い路地から光さす出口へと歩いていくラストシーンだった。
優しく紡がれるピアノの音。光は男が足を進めるたびに大きさを増していき、ついには世界を白一色に染め上げた。
数秒の間。
場面は唐突に切り替わり、次に映し出されたのは街の中を駆けていく男の姿だった。
相手との待ち合わせに遅刻しているのか、走りながらもしきりに腕時計を確認している。
ようやく辿り着いた駅前で男を待っていたのは、彼が命を救い、彼の心を救ってくれた美しい少女だった。
なるほど。ここは数年後の世界なのだと、僕は今さらながらに理解する。
少女は頬を膨らませて駅の柱時計を指さす。どうやら遅刻を咎めているらしい。
男はしきりに謝りながら、彼女の髪を撫でたり、着ている衣服を褒めたりと、ご機嫌とりに必死だ。
もちろん、二人とも楽しんで喧嘩をしている。その証拠に少女は怒りながらも口元には微笑を浮かべているし、男は困りながらもずいぶんと幸せそうだ。
やがて機嫌を直した少女が男に腕をからめ、男は何かをねだられたのか、苦笑しながら頷き、二人は町の中へと歩き出す。
幸福を予感させる優しい音楽。スクリーンは静かに暗転していき、スタッフロールが流れ出す。
どこかの席で誰かが拍手をした。それにつられるように周囲からも拍手が沸き起こり、気がつくと僕まで手を叩いていた。
「はい、どうぞ」
隣に座る恋人がハンカチを差し出してくる。いつのまにか泣いていたらしい。
「君は泣かないの?」
照れ隠しに僕が訊くと、彼女はスクリーンを観たまま首をふった。
「一度、見たことがあるから」
「ああ、そう」
「それに」
これ、そういう映画じゃないからと、彼女は独り言のように答えた。僕は意味が分からず首を傾げる。
スタッフロールが流れ終わると、スクリーンは黒一色に塗りつぶされた。
その黒い世界から足音が聞こえてくる。映画はまだ続いているらしい。席を立ちかけた僕はもう一度腰を下ろし、明るくなっていくスクリーンを見つめる。
そして、見た。最後のシーンを。
エンドマークとともに浮かびあがった、男の姿を。
「…なんだ、これ」
誰かがぽつりとつぶやく。あるいは、それは僕の声だったのかもしれない。
スクリーンに映し出されたのは、抜け出したはずの薄暗い路地で息絶えている、男の姿だったのだ。
力無く投げ出された両足。身体の下に埋もれて見えない左腕。右腕だけがまっすぐ前へとのびている。
きっと、焦がれて続けていた外の光に触れようとしたのだろう。
男の口元には微笑があった。少女へ投げかけていた、あの微笑。
――夢だったのだ。
あの幸福な光景は、最後に男が見た夢だった。
彼女はこの結末を知っていたから言ったのだろう。
これはそういう映画じゃないから、と。
その通りだった。
ハッピーエンドだとばかり思っていた僕は唖然として、会場が明るくなって観客が帰り始めても席を立つことが出来ないでいる。
確かにこれはこれで美しい終わり方かもしれなけれど、観たかったのはこういう映画じゃなかった。
「私たちも出ようよ」
彼女の手に引っ張られて、僕はようやく立ち上がる。
エントランスホールでは、隣のシアターでコメディを観た人々の明るい声と、僕たちと同じ映画を観て沈黙している客とで見事なコントラストが出来あがっていた。
「それ、どうするの?」
彼女が指さしたのは、僕が持っているポップコーンの箱。大して美味しい物でもないのに映画を観る時はつい買ってしまい、大抵は無駄にしてしまう。
「食べる?」
「いらない」
僕はどうしようか迷ったあげく、無邪気に笑っているコメディ組に投げつけてやりたい誘惑にかられながらも、結局、ゴミ箱へ捨てた。
「勿体ないなあ」
確かにその通りだと思うけど、賞味期限が三分過ぎただけで残飯あつかいする彼女に言われたくはない。もちろん、口には出さないけれど。
映画館を出た僕たちは、気分を変えるために公園を歩くことにした。
祝日ということもあってか、公園はずいぶんと賑わっている。
息抜きと情報交換を兼ねた主婦たちの集まり。身体の不具合を自慢しあう老人。主人が投げたフリスビーを追いかける犬。手を繋いで肩を寄せ合う恋人。かけっこなのか鬼ごっこなのか、よくわからないルールで走り回る子供たち。そして僕たち。
「あれって、ハッピーエンドじゃ駄目だったのかな」
僕がつぶやくと、彼女は面食らった顔でこちらを見た。
「そんなこと、まだ考えてたの?」
「だって、大抵の人はハッピーエンドを期待していたはずだよ。あの最後の場面が映される前までの拍手、聞いただろ」
「うん」
「で、そのあとの怖いぐらいの沈黙も聞いただろ」
「沈黙だから聞こえようがないけど、凄かったね。落差」
「物語は人の期待を裏切るほうが良いとか言うけど、悪い方向に裏切るのは駄目だと思うんだ」
「まあ、うん」
頷いてから、彼女は続ける。
「でも、あれって悪い裏切り方だったのかな」
「悪いさ。その証拠に、みんな沈黙しちゃっただろ」
「感動して沈黙してたのかもしれないじゃない。実際、私はあの結末は好きだよ」
そう言えば、彼女は悲劇が大好きだった。いつだったか悲劇の何が良いのか聞いたとき、綺麗だからという答えが返ってきたことがある。
「全ての物語がハッピーエンドじゃ味気ないでしょ」
そんなことも言っていた。ただ、僕は違う。
物語の中ぐらい救いのある終わり方をして欲しいと思っている。悲劇は現実だけで十分だ。
「ああ、後味が悪い」
「じゃあ、口直ししようか」
「え?」
彼女はやおら足を速めると、僕を追い越して少し先にあるベンチに腰掛けた。
座って休もうという意味なのか、座って休んでいるからジュースを買ってきてという意味なのか、にわかに判断できない。
「座らないの?」
「あ、座っていいんだ」
「どうして?」
「ジュース買ってこいとか言うと思った」
「…ああ」
結局、二本のジュースを買ってから座ることになった。
「ほら、今日はこれを持参したのでした」
彼女がバッグから取り出したのは、ピンク色をした楕円形の箱ふたつ。ひとつは小さく、ひとつはかなり大きい。その大きい箱を渡された。
「お弁当?」
わかりきったことを僕は訊く。
「まあ、そう」
「手作り?」
「まあ、一応」
「開けて良い?」
「まあ、うん」
急に反応が素っ気なくなったのは照れているからだろう。ときどき見せる彼女のこうした仕草がとても好きなのだけど、言うと不機嫌になるので口には出さない。
弁当の中身は卵焼き、野菜炒め、小さなサイコロ型ハンバーグにウィンナー。それにポテトサラダ。白米の上にはタクアンが二切れほど乗っている。
「これは美味しそうだ」
「うちの味だから、口にあうかどうかは保証できないけど」
「いただきます」
割り箸を手にして、まずはご飯をつまみあげる。
鼻に近づけると、ほのかな米の香りが食欲を沸き立たせ、口に含めば上品な甘みが鮮やかに広がり、噛めば噛むほど味わいが増していく。水分過多でベタつくこともなく、逆に芯が残って固いということもない。申し分ない出来あがりだ。
「良い炊き具合だね。とても美味しいご飯だ。これなら、おかずがなんていらないくらいだよ」
「うちの炊飯器が聞いたら喜ぶわ」
「それから、このタクアン。甘さとしょっぱさのバランスがとても良い。自己主張をしながらもご飯の味を引き立てることを忘れない、見事な味付けだよ」
「うちの祖母が聞いたら喜ぶわ」
「ハンバーグとウィンナーも安定して美味しい」
「さすがは冷凍食品と言ったところかしら」
「ポテトサラダと卵焼きは、何というか、コンビニと似たような味付けだね。参考にしてるの?」
「コンビニのポテトサラダと卵焼きよ」
「あ。そう」
僕が何か言いたげな顔をしていたのだろう。彼女は慌てて野菜炒めを指さした。
「それ。その野菜炒めこそが私の作品なの」
「そうだろうね」
それ以外に残っているのはアルミホイルと容器しかない。
僕は野菜炒めをつまみ上げ、口へと運んだ。
「もやしと人参、キャベツにタマネギ……あと、ピーマン」
「うんうん」
「それぞれが味を主張しあってるね。誰一人として譲る気がないみたいな… 総当たり戦って言うのか、デスマッチ状態って言うのか。……あ、セロリも入ってるんだ」
「そう。隠し味的な感じで」
「矢面に立っている感じだけど」
僕は一気に野菜炒めを食べ終え、次に味の強いハンバーグで口直しをして、それから、のんびりと昼食を楽しんだ。
「ごちそうさまでした」
「どうだった?」
「うん。ほぼ美味しかった」
「ほぼ?」
彼女は空になった弁当箱を受け取りながら首を傾げる。僕は答えずに笑い、そのまま彼女の膝に倒れ込む。機嫌が悪ければ頭を叩かれ、良ければ撫でられる。昼寝を兼ねたご機嫌うかがいだ。
「重いよ」
文句を言うだけで叩いてこない。機嫌はまずまずと言ったところか。
目を閉じれば景色は消え去り、かわりに様々な音が鮮明に浮かび上がってくる。
木の葉の擦れ合う音。誰かに語りかけているような鳥の声。風に押されて転がる空き缶。はしゃぐ子供達。老夫婦の穏やかな会話。恋人達の足音。それから、一番近くで聞こえる彼女の鼓動。生まれる前に聞いた母の音。
眠りに落ちそうな午後の平穏の中――
「いっちばーん!」
少年の声が静寂の中で響き渡った。まだ変声期を迎えていない、独特なソプラノ。
「あー、また二番だ」
少し遅れて二人目の声。
「二人とも速すぎるよ」
さらに遅れて三人目。
薄目をあけた僕の目に映ったのは、声の数と同じ三人の子供。おそらく小学生だろう。まだ歳の差で上下関係を決めることのない世代だ。
「おい、モタ! 速くこい」
一位の少年が手を振って叫ぶ。視線を追うと、二段重ねの鏡もちに足が生えたみたいな少年がこちらに走ってくるのが見えた。糖尿と高血圧に悩まされる将来を約束された、典型的な肥満体型。
息を切らせてゴールしたモタは、その場でしゃがみこんでしまい、しばらく喋ることができなかった。
少年たちはお互いの顔を見合わせ、少し大人びた仕草で苦笑する。
「べつの遊びにするか」
「うん」
「それがいいかも」
仕切役らしい一位の少年の提案に二人とも賛成し、モタも汗まみれの顔でこくこく頷く。
誰でも知っていること。公園の中で出来ること。あまり疲れないこと。この三つを条件に検討したところ 『かくれんぼ』と『缶蹴り』が候補にあがり、最終的に『かくれんぼ』より高級な感じがするという理由で、缶蹴りに決まった。
「せっかくだから大勢やろう」
と言うことで、それまで別の遊びをしていた子供達にも呼び掛ける。
「おーい。缶蹴りに参加したい奴はこっちにこい」
仕切役の少年が声を張り上げると、一斉に子供たちが駆け寄ってきた。人をまとめる力というのは生まれつきなのかもしれない。例えばモタが同じことをしても、こんなふうに集まってはこないだろう。きっと、僕でも駄目だ。
鬼を決めるため、最初に皆でジャンケンをする。勝った者が次々と抜けていき、最後は二人のジャンケンになった。何度かのあいこを繰り返し、ようやく鬼が決まる。
「何秒数えればいい?」
「ゆっくり五十秒」
「わかった」
「それから、かくれて良いのは公園の中だけだからな。外にでたらアウト。そいつが鬼だ」
全員、頷く。
「じゃあ、数えるよ」
鬼がしゃがみこんで五十を数え始めると同時に、皆は一斉に走り出した。
公園は広いから、隠れる場所はいくらでもある。これがかくれんぼだったら、全員見つけるのはなかなか骨が折れるだろう。だけど、缶蹴りの場合は少し勝手が違う。缶を蹴るため、隠れ人はいつまでも隠れているわけにはいかないからだ。待っていれば、必ず飛び出してくる。もちろん缶にへばりついていてはゲームにならないので、鬼は自分の走力で戻ってこられるぎりぎりの距離を計算しつつ隠れ人を探しにいく。この駆け引きが缶蹴りの醍醐味だろう。
五十を数え終えて、鬼が立ち上がった。
「さて、と」
缶を足で押さえながら、まずはぐるりと周りを見渡す。ただそれだけの動作で、いきなり一人目を見つけた。
少し離れた植え込みに生えている銀杏の木。その裏。本人は隠れているつもりだろうけれど、見事に赤色の靴が見えている。
間違いなく、モタだ。
どうしてこう、何をやらせても不器用なのだろう。勉強も駄目。運動も駄目。要領も悪く、運も悪い。馬鹿にされても気づかず、教えられても忘れてしまう。もはや生まれながらに備わっている素質としか言いようがない。呆れるのを通り越して、少し可哀相になる。
しばらく迷ってから、とりあえずモタは見逃してやることにした。情けをかけたのではなく、モタが鬼になったらゲームにならないからだ。
さらに十秒ほど様子をうかがい、近くに誰もいないことを確認すると、いよいよ缶を離れることになる。
ここからが本番だ。
三歩進んでは振り返り、十歩走っては振り返る。細心の注意を払いながら、徐々に探す範囲を広げていく。怪しいのは記念銅像の裏、ベンチのうしろ、自動販売機の陰、いくつもある植え込みの中。この辺りは間違いなく誰かが隠れている。
と思った矢先に、ひとつの植え込みから誰かが飛び出した。
「ユウジみっけ!」
僕は相手の名前を叫びながら、缶に向かって走り出す。鬼は見つけるだけではなく、見つけた相手の名前を言って缶を踏まなければならない。ここから先は相手とのかけっこだ。
僕はクラス対抗リレーで代表に選ばれる程度には足が速い。すぐにユウジを追い越して缶に辿り着き、笑いながら踏んでやった。
「はい、一人目」
「くそ。もうちょい待てばよかったか」
「次はユウジが鬼だぞ」
「全員が捕まれば、だろ。まだわからん」
ユウジの期待をよそに、僕はそれからすぐに三人を見つけた。一人が捕まると鬼になる心配がなくなるので、隠れ人は気を抜きやすいのだ。さらに一人を見つけ、二人目を見つけ、気がつくと残っている隠れ人はあとに一人になっていた。
つまり、モタだけだ。この時点で全員見つけたと言ってもいいだろう。
僕は銀杏の木に目をやった。太い幹の陰からは、相変わらず赤い靴がはみ出している。僕が缶から離れている時に飛び出して蹴るチャンスはいくらでもあったはずなのに、ひたすらじっとしていたらしい。呆れつつも、その忍耐力には感心してしまう。
僕はゆっくりと銀杏の木に近づき 「モタ」 と声をかける。返事はない。まだ見つかってないと思っているらしい。
「お前、靴が見えてるっての」
笑いながら、僕はその赤い靴を蹴ってやった。
軽い感触。
何の抵抗もなく、勢いよく転がっていく靴。
その光景を見ても、僕は一瞬、何が起きたか理解できなかった。
ほとんど無意識で木の裏を覗き込み、そこに誰もいないことを確認したとき、
「モタ! こい!」
叫び声が響き渡った。
振り返る僕の目に映ったのは、ここに隠れていたはずのモタが缶に向かって突進していく姿。ドタドタと、膝のクッションをまるで使えてない走り方。
右足には赤い靴。左足は―― 靴下だけ。
やられた!
僕は舌打ちをして全力で駆け戻る。間に合わないことをわかっていながら。
いくらモタの足が遅いといっても、僕がクラス対抗リレーの代表に選ばれる足の速さを持っているといっても、距離があまりにもありすぎた。
次の瞬間。乾いた音とともに、缶が舞い上がった。
「ナイスキック!」
誰かが叫ぶ。
モタが全力で蹴った缶は僕の頭を越え、さらにモタが隠れていたはずの銀杏の木に当たって方向を変えると、よりにもよって手入れの行きとどいていない植え込みの中へと飛び込んでいった。
これは、探すのがやっかいそうだ。
「強く蹴りすぎだ、バカ」
ユウジに肩を叩かれ、モタはごめんごめんと頭をかく。それでも嬉しそうに笑っているのは、自分の作戦が上手くいったからだろう。こっちに向かってVサインを作ってみせたときには、ちょっと殴りたくなった。
缶が蹴られてしまった僕は、当然ながら鬼を継続することになる。
まずは蹴られた缶を元の場所に戻して、それから五十秒を数えなければならない。
普通なら転がった缶を拾ってすぐに数え始められるのだけど、今回は加減をしらないモタが植え込みの奥まで蹴り飛ばしたものだから、面倒なことになってしまった。
手入れの行きとどいていない植え込みの中、膝まで伸びている雑草をかきわけ、僕は奥へ奥へと進んでいく。
色は白色だったから、草の中では目立つはず。
それなのに、なかなか見つからないのはどういうわけだろう。
探す場所を間違えているのか。あるいは誰かが拾ってしまったのか。そんな可能性もないとは言えない。
焦る僕をよそに、時間だけがいたずらに過ぎていく。
「おーい、あったあった」
その声が聞こえてきたのは、太陽が西の山に差し掛かり、雲が茜色に染まり始め、僕が探すのを諦めかけたときだった。
「どこ?」
「こっちだ。こっち」
立ち上がって周りを見渡すと、少し離れたところで祖父が手を振っているのが見えた。
僕は急いで駆け寄り、祖父の手の中をのぞきこむ。
白いボールに小さな星のマーク。それは確かに僕のボールだった。
「思ったより遠くへ転がってたな。まあでも、見つかってよかった」
「爺ちゃんがボールを捕りそこねたんじゃん」
他人事のように笑う祖父を、僕は睨みつけてやる。ちゃんとキャッチしてくれていたら、探す必要などなかったのだ。
「あれ、そうだったか」
「そうだよ」
「まあ、怒るな。今度はちゃんと捕るから」
「まだやるの?」
僕としては、そろそろ家に帰りたい。観たいテレビもあるし、やりたいゲームだってあるのだ。
「ボールは見える。まだ大丈夫だ」
こちらの思いとはうらはらに、祖父は俄然やる気でいる。こうなってしまったら何を言っても無駄だろう。テレビは諦めてつきあうしかない。
「はい。投げていいよ」
僕は祖父から距離をとってグラブを構える。さりげなくさっきよりも近い位置に立っているから、ボールも届くはず。
「いくぞ」
「うん」
祖父はまるでピッチャーのように振りかぶり、気合いとともにボールを投げた。
全力の一球。
僕はその全力のフワフワボールを、三歩前に出つつ、足下ぎりぎりのところで捕球した。
「ナイスキャッチ!」
満足そうに親指を立てる祖父に、僕も苦笑しながら親指を立てて応える。
「じゃあ、今度はこっちが投げるからね」
「よし、こい」
「ちゃんと捕ってよ?」
「大丈夫だ。信じろ」
信じられないけれど、信じるしかない。
「いくよ」
僕はゆっくり振りかぶり、祖父が構えているグラブめがけてボールを投げる。ふんわりとした山なりの球。対象年齢は五歳ぐらい。
それでも距離感がつかめないのか、祖父はフラフラと前に出たり後ろに下がったりしている。捕球位置が定まらないらしい。
「動かないでいいから! そのまま、そのまま」
「わかってる」
わかってないから言っているのだ。
ボールはゆっくりと祖父に向かっていく。大丈夫。そのまま動かなければキャッチできるはずだ。
今度こそ捕ってほしい。
「オーライ、オーライ」
落ちてきたボールを収めようと、祖父のグラブが閉じていく。
駄目だ。まだ早すぎる。
ボールはまだ捕球できる位置まで落ちてきていない。
「爺ちゃん、駄目!」
そして、僕の警告は遅すぎた。
「あっ」
ボールは閉じたグラブの上で跳ねあがり、そのまま後ろへと飛んでいく。
失敗だ。これでまた、ボール探しからやり直さなければならない。
僕は失望して天を仰ぐ。
しかし、祖父はまだ諦めていなかった。
後ろに逸れたボールを追いかけるように身体をひねると、左手のグラブを目一杯に伸ばして飛びついたのだ。
「……爺ちゃん?」
奇跡と偶然の違いは、そこに意志があったかどうかだと思う。
だから、そう。
これは奇跡だ。
「どうだ。捕ったぞ!」
尻餅をつきながらも、祖父は誇らしげにグラブに収まったボールを僕に見せつける。その笑顔は、まるで子供のようだった。
あまりの無邪気さに僕もつられて笑ってしまい、それから親指を立てて叫んだ。
「ナイスキャッチ!」
了