妹の婚約指輪は、母の棺から盗まれた
冷たい指輪の縁に、爪が引っかかった。
この傷を、フェルメリアは知っている。
母の手を握った夜、いつも同じところが指の腹に当たった。
「触らないで。お姉様のものじゃないでしょう」
妹のベルネッタが手を引いた。白い手袋の上から外して見せていた指輪を、胸に抱える。
宝石は、小さな青。
石の脇にある金の傷。
母の指輪だった。
「これを、どこで」
「エドラン様からよ。お姉様にも、先に見せておこうと思って」
つい先月までフェルメリアの婚約者だった男が、妹の肩へ手を回した。
「君は華やかなものを嫌うだろう。ベルネッタにはよく似合う」
「……母の指輪です」
エドランの手が止まった。
妹は目を丸くして、それから笑った。
「ええ。お母様が、いつか私のお嫁入りにって」
母がそんな約束をしたとは、聞いていない。
母の最期に、ベルネッタは帰ってこなかった。フェルメリアが出した手紙も、贈り物の催促だと思って開けなかったと、あとで聞かされた。
フェルメリアは、もう一度手を伸ばした。
妹の手首を掴む直前で、止めた。
まず、確かめる。
「指輪の裏も、見せてください」
「まだ言うの。お父様に叱られるわよ」
背後で扉が開いた。振り返ると、父が立っていた。
「妹の祝いに水を差すな。婚約の話なら、もう済んだはずだ」
「婚約の話ではありません」
フェルメリアは、父の前まで歩いた。
「母の棺を、誰が閉じたのか教えてください」
父の口が歪んだ。背後では衣装係が、裾に刺していた待ち針を抜く手を止めていた。
「葬儀のことなら教会に聞け。私は弔問の方々への応対で——」
「最後は僕も手伝ったよ。あの時は君が倒れたからね」
エドランは妹の肩を軽く叩き、鏡へ向き直らせた。
ベルネッタが指輪をはめようとする。手袋の上では窮屈らしく、片方を脱いで薬指に滑らせた。
母の指では少し回っていた輪が、妹の指の根元で止まった。
「ぴったりでしょう。銀鹿堂で合わせてもらったの」
卓上の小箱の蓋に、銀色の鹿が跳んでいた。
その下に彫られた店名を、フェルメリアは読んだ。
母の指が細くなったころも、同じ指輪は緩くなっただけだった。輪を小さくする話をして、母が首を振ったことを思い出す。
「お父様。母は最後まで、これを着けていました」
「形見の行先くらい、私に任せておきなさい」
「母のものを、返してください」
父は廊下を見た。衣装係がいる居間で大声を出す代わりに、フェルメリアの腕を取った。
袖越しに爪の角が当たった。
「三日後に披露を控えている。どれだけの方をお招きしたと思っているんだ」
「だから、今確かめたいのです」
「お前の縁談は、次を考えている。いつまでもエドランに執着するな」
父の後ろで、妹が肩をすくめた。
フェルメリアは父の指を一本ずつ外した。乱暴に引き抜くと、また泣いているように見える気がした。
「教会へ伺います」
「今さら何を聞く」
「棺のことです」
廊下に出ると、両手が冷えていた。
どうしてここにあるのか。
母から預かった物を誰かが別に納め、取り違えた可能性もある。記憶違いだと言われれば、棺が閉じられるところを見ていないフェルメリアには返す言葉がない。
だから、聞きに行く。
玄関脇で、花器を運んでいた小姓が立ち止まった。右手の甲に赤い筋がある。
「それ、どうしました」
「薔薇の枝で。お見苦しいところを」
小姓は花器の背後へ手を隠した。
フェルメリアは手提げから、予備の綿の手袋を取り出した。
「傷を洗ってから、こちらを。茎を持つのは別の人に頼んでください」
「お嬢様の物を汚してしまいます」
「すでに洗ったものです。汚してよいのは、使う時ですよ」
フェルメリアは少し笑い、手袋を差し出した。小姓は花器を台に置き、両手で受け取った。
玄関の向こうから、外套を腕に掛けた人が近づいてきた。
「行先を聞いても?」
アルヴィートだった。父を訪ねて来ていた隣家の伯爵は、扉の前で足を止めた。
昔から顔を合わせていても、二人で出掛ける間柄ではない。フェルメリアは自分の薄い外套の袖を押さえた。
「教会へ。ですが今日は少し遅くなりそうなので、明朝にします」
「私の馬車は、このあと戻すだけです。必要なら明朝、お迎えに」
「ご用向きはよろしいのですか」
「伯爵はお忙しいようで。先ほどから、ご家族の声が廊下まで届いていました」
彼は居間の方を見なかった。
婚約を譲って以来、慰めのつもりで事情を尋ねる人は多かった。次はもっと良い相手を、と励まされるたび、捨てられた男を気にしていない顔を作った。
今もその顔を作りかけ、やめた。
「お願いできますか。母の葬儀の記録を見たいのです」
「では、朝食のあとに」
小姓の手に残った白い手袋が、扉の隙間の風に膨らんだ。
翌朝の教会で、フェルメリアは手袋を膝に置いて待っていた。
古い椅子の肘掛けは、触れる場所だけ滑らかになっている。母もここに座ったことがある。祈りの間に落ち着かなくなった幼いフェルメリアの指を、掌で包んでくれた。
管理人が厚い綴じ本を抱えて来た。
「お母上の埋葬記録ですね。お名前をもう一度」
「エルネーラです。三年前の秋に」
頁をめくる音に、背が硬くなった。
三年前も秋だった。
——母の病室は、昼でも火を絶やさなかった。
濡れた布を取り替えるたび、母の額は布より冷たかった。暖炉の近くにいるフェルメリアの頬ばかりが熱くなった。
母が、指輪を抜こうとしたことがある。
「お父様にね、売っていただこうと思うの」
「何のために」
「あなたのお支度。よい縁談なのに、新しいドレスも一着しか作ってあげられなかったでしょう」
娘の結婚のための指輪だった。
母は病気になる前から、そう言っていた。売って娘の支度金にすると。
フェルメリアが指輪を欲しがったのは、母の着けたままの手に憧れていたからだ。大きくなったら指輪も似合うだろうかと聞くと、母は指より先に背が伸びたわね、と笑った。
その手から、指輪が抜けかけていた。
「売りません」
フェルメリアは、母の指へ輪を押し戻した。
「お母様は、これをどうしたいのですか」
「私?」
「支度なら、古いドレスを直せます」
母は青い石を見ていた。長いあいだ黙ってから、娘の手に自分の手を重ねた。
「では、着けていようかしら。最後まで」
「そうしてください」
「その時が来たら、これも一緒に」
母が指輪のある手を少し持ち上げた。
「私が、着けます」
石の脇の縁が、フェルメリアの指に触れた。小さな傷の引っかかりまで、母の手と一緒に覚えていた。
母はそのまま眠り、目を覚ましてからも指輪を外さなかった。
母が息を引き取ったあと、棺に寝かされた手を整えたのもフェルメリアだった。
身支度のため一度外されていた指輪を、侍女から受け取った。石の脇の縁を撫でた。傷のあるところを自分の指で覆い、硬い金を肌に押し付けないようにして母の指へ通した。
管理人は、棺の脇で品目を書いていた。
紙に指輪と書かれるのを見て、ようやく肩の力が抜けた。
母が最後に望んだことを、一つは果たせる。
そう思った直後、膝から力が抜けた。目を覚ました時には自室の寝台で、母の埋葬は終わっていた。
「こちらで間違いありませんか」
管理人の声に、フェルメリアは椅子の肘掛けを握り直した。
目の前に開かれた頁に、母の名があった。
埋葬品の欄には、青石を嵌めた金の指輪。
その下に、エドランの署名。
「これは、何を確認した署名ですか」
「棺を閉じる時に、記した品がそのまま納められていると確認した方の署名です。当主様に代わって立ち会われました」
紙に指を置くと、管理人はその手を見た。
「何か、違っているのですか」
「この指輪を昨日、妹が着けていました」
管理人は頁をめくりかけた手を止めた。
「お母上が別の方へ贈られた品ではなく?」
「それを確かめたくて来ました。石の脇の縁に傷があって、母の指輪と同じでした。でも、その場では刻印まで見せてもらえませんでした」
自分の記憶だけで話を押し通すのは、怖い。
それでも管理人は本を閉じなかった。
「当時、棺の支度をした侍女殿にもお聞きしましょう。あの時はお嬢様と私とで、指輪が着けられたのを見ています」
「覚えていてくださったのですか」
「覚えているという話だけでは足りません。だから記録があるのです」
管理人は自分の書いた字を指で追った。
母の名に、フェルメリアも目を戻した。エドランの署名より前に、母はここにいる。
「この本を、お借りできますか」
「原本ですからお渡しはできません。ですが、役所へ申立てをなさるなら私が持って参ります。埋葬の品を勝手に動かした件は、あちらの扱いです」
管理人の隣に置かれた小卓で、アルヴィートが姿勢を変えた。
「伯爵家の——」
「待ってください」
フェルメリアは彼へ向き直った。
「私から、お願いします」
アルヴィートは口を閉じた。少し背を引き、手を膝に戻す。
「失礼しました。お続けください」
管理人はフェルメリアを見たまま待っていた。
喉の奥に溜まっていた息を、ゆっくり吐いた。
「店にも伺いたいのです。妹が指輪を直したと話していました。調べて、申立てをします。その時に、ご一緒していただけますか」
「事情をお聞かせいただけるなら」
フェルメリアは、持って来た母の小さな肖像を包みから出した。
描かれた手の中で、青い石だけが、まだ昼の光を受けていた。
屋敷へ戻ると、叔母への手紙を先に書いた。
しばらく泊めてもらえないか。母の指輪のことで、父と話が合わない。
いつもなら父の言葉を悪く取らないよう書き直したはずの行を、そのまま残した。
返事を待つ間に、父から書斎へ呼ばれた。
「教会へ何を言って来た」
机には披露の席順が広がっていた。フェルメリアの名は、親族の端に書かれている。
「記録を見せていただきました。母の指輪を共に納めたと、エドラン様が署名しておられます」
「手違いがあったのだろう。家で確かめれば済む」
「では、指輪を見せてください。裏に母の名と、お二人の婚礼の日が刻んであったはずです」
父は手元のペンを置いた。
「お前はいつから、そんなに物に執着するようになった」
椅子の背に指を添えた。布地の毛が寝て、父の座る側だけ艶がある。
この椅子へよじ登って叱られたことも、母に抱えて下ろされたことも覚えている。
机の向こうへ視線を上げた。
「母が最後まで着けたいと言った物です」
「それなら母のためにも、家の中を荒らすな。ベルネッタの幸せを壊したら、あとでお前も悔やむ」
「母の棺に入れた物が、別の人の指にあるのです」
「まだ言うのか」
父は席順の紙を重ねた。
「披露で騒ぎを起こすつもりなら、もうここへ帰って来るな。私はお前の意地に、この家を付き合わせる気はない」
母の部屋の鍵を、手提げの中で握った。
今でも朝、侍女が窓を開ける。母の使った椅子もそのままで、フェルメリアは何もすることのない日にも、少しだけそこへ座った。
婚約を譲った時も、ここにいられるならと思った。
父が、新しい縁談までは実家にいればよいと言ったから。
「分かりました」
口にすると、父が肩を下ろした。
「そうだ。お前は物分かりのよい子なのだから」
「帰らずに済むよう、荷物をまとめます」
父の手から、紙が一枚滑った。
フェルメリアは拾わなかった。
夕方、叔母の返事が届いた。
部屋はある。話は来てから聞く。迎えが要るなら知らせなさい。
筆圧で紙の裏までへこんだ文字を、指で撫でた。
支度用の箱に、自分の物だけを詰め始めた。母の部屋の物は手をつけなかった。もう一度、誰かの願いを自分の都合で動かしたくなかった。
持って行くのは古い外套と、衣服と、母が娘へくれた肖像。
鍵は、机に置いた。
披露の前日、銀鹿堂の扉を押すと、磨いた金属の匂いが鼻の奥を冷やした。
飾り棚の中には、青い石の指輪もあった。
よく似た物なら、ある。
フェルメリアは一度立ち止まり、見本の輪を店主に示してもらった。裏を見て、指の腹で確かめる。
滑らかだった。母の名もない。
「お探しの物とは違いましたか」
「母の指輪が、こちらへ修理に出されたかを知りたいのです」
妹の箱で見た店名と、青い石と金の意匠を伝えた。肖像も出したが、絵に描かれた指輪では細部まで見えない。
店主は肖像を置き、奥から小さな図の付いた控えを持って来た。
「最近、似たお品の輪を小さくしています。ただし、この肖像だけで同じ物とは申せません」
「裏に、エルネーラと婚礼の日が刻まれていました」
店主の指が控えの途中で止まった。
「刻印を残すご依頼でした。その名は、あります」
「どなたが依頼を」
「お受取りになった方も含め、役所からの照会でしたらお答えできます。お嬢様にこの控えをお渡しすることは、できません」
押し返されたのは肖像だけだった。
フェルメリアは包みに戻した。机にある控えへ手を伸ばさず、もう一度店主を見た。
「母と共に埋葬したはずの品なのです。役所へ申し立てますので、その控えを残しておいていただけますか」
店主は図の書かれた紙を、革張りの綴じ本へ戻した。
「お待ちしております」
外へ出ると、アルヴィートが馬車の踏み台に片足を掛けたまま、御者と話していた。こちらを見つけ、足を下ろす。
「次は、教会で管理人殿をお乗せするのでしたね」
「役所へ持って行く物が増えました」
「荷台なら空いていますが」
「私の荷物です。夕方に、叔母の家まで」
彼が、外套の留め金へ伸ばしていた手を止めた。
この人も帰った方がよいと言うだろうか。
そう言われれば、少しだけ楽になってしまう気がした。
「叔母上のお返事は」
「部屋はあると」
「では夕方も、そのまま馬車を使ってください」
フェルメリアは馬車の縁を掴んだ。冷えた木の向こうへ、足を持ち上げる。
「行ってよいかとは、お尋ねにならないのですね」
「決めた方に、もう一度私の許しを取らせるのですか」
振り返ると、彼は少し困った顔をしていた。
「それは、ずいぶん余計なひと手間でしょう」
座面に腰を下ろすまで、フェルメリアは顔を前へ向けられなかった。
役所へ着いた頃には、通りで昼のパンを売る声が始まっていた。
管理人は綴じ本を抱え、フェルメリアの隣に座った。侍女からは今朝のうちに、棺で指輪を着けた時のことを聞き取ったという。その人にも、必要なら役所へ来てもらえると連絡を取ってあった。
机を挟んだ役人へ、フェルメリアは順に話した。
母に自分が指輪を着けたこと。
熱を出して、閉棺には立ち会えなかったこと。
妹の指に同じ傷があったが、まだ刻印を確かめられていないこと。
店には、同じ名のある指輪の修理控えが残っていたこと。
「お母上の指輪かどうかは、現物を照らす必要がありますね」
役人は管理人の綴じ本を読み、署名のある頁に紙片を挟んだ。
「埋葬品の持出しについての申立てとしてお受けします。店へ確認したうえで、ご実家と指輪を持つ方へ連絡します」
「父が、家のことだと言ってもですか」
「ご家族で折り合われたという話と、埋葬したと確認された品が出てきた話は別です。指輪を、お母上と一緒に納めるご意向は変わっていませんか」
フェルメリアは、自分の膝の上の手を開いた。
「母が望んだことです。私も、変えていません」
申立ての紙に、自分の名を書く。
ペンの軸を強く握りすぎて、指に筋が残った。
役人は紙を受け取ると、指輪を持って来られる時刻と場所を尋ねた。父に確認されなければ約束できないと伝えると、その日のうちに直接照会すると言った。
席を立つ時、フェルメリアは役人へ頭を下げた。
父の名も、隣に座る伯爵の名も、自分の署名の代わりには書かなかった。
夕方、荷箱を運び出そうとしたところへ、役所の使いが来た。
父はフェルメリアを呼び戻した。居間にはエドランもおり、使いの届けた書面を卓に広げていた。
「店から受取控えを確認したとある。お前が手を回したのか」
「役所へお願いしました」
父は書面を指で押さえた。
翌日の午後、指輪とその刻印を現物で確認したい、と記されている。披露の準備で出向けないので邸へ来るよう返事をする、と父が言った。
「披露より前に」
フェルメリアが言うと、父は答えず、エドランに書面を回した。
「指輪があれば足りるのでしょう、伯爵」
エドランは読むと、笑って上着の内側から小箱を出した。
ベルネッタが、隣室からすぐに寄って来た。
「持って帰るの?」
「明日は外しておいて。調べたいと仰るのだから、最初から箱に入れておけばよい」
蓋が開いた。指輪は箱の中で、少し斜めに収まっていた。
まだ返せとは言わない。
ここで奪い取って帰ってしまえば、母に着けられた指輪なのか、誰が外したのかも、また家の話に埋もれる。
フェルメリアは箱を見たまま、両手を前で組んだ。
「母の指輪ではないと、仰らないのですね」
「母上の物だよ。娘へ形見を残すために取っておいた。伯爵からも、お話しください」
エドランは父に、箱を見せた。
「その通りだ。悪気のあった話ではない」
父が箱をエドランに返した。
「私からも役人へ説明する。指輪を確かめてもらえば済むことだ。お前も披露の時に話を蒸し返すな」
エドランは箱をしまい、父の隣の椅子へ腰を下ろした。
「明日の乾杯で、母上にもお喜びいただきたいと申し上げましょうか」
ベルネッタは鏡を覗き込んでいた。父は席順を引き寄せ、披露の挨拶を直し始めた。
フェルメリアの荷箱は、まだ扉の脇にあった。
その取っ手を両手で持った。
「失礼します」
「荷物は、どうする」
「叔母の家へ運びます」
箱を持ち上げようとすると、小姓が駆けて来た。右手は手袋で包まれている。
彼の手の甲を見て、フェルメリアは箱を下ろした。
「右側は私が。そちらの手では持たないで」
小姓が左手で取っ手を掴む。
箱を間に挟んで玄関へ歩いた。振り返らなければ、父の居間の声はすぐに遠ざかった。
披露の当日、叔母の貸してくれた濃紺のドレスは、襟元だけが少し広かった。
母と似た体格なのだという。留め直した襟を指で押さえると、叔母がその手の上から布を整えた。
「言いたいことを言う時は、胸元を気にしていられないでしょう」
「こんな用事のために、お借りして」
「私が連れて行かれて大声で喧嘩をするより、おとなしいでしょうよ」
フェルメリアは顔を上げた。
叔母は真顔で、残った留め針を抜いていた。
「それは、来てくださらない方が助かります」
「私もそう思ったの。終わったら、こちらへ帰っておいで」
帰っておいで。
襟元を押さえる指が、しばらく離れなかった。
馬車ではアルヴィートが、薄茶の革手袋を差し出した。
「風が強いので。古い品ですが、よければ」
受け取って指を入れると、先が余った。
人差し指を曲げると、革だけがくたりと倒れる。
「これは、どなたの手をお借りするのでしょう」
「私のです」
「それは、分かります」
アルヴィートが口を閉じた。
フェルメリアは余った指先を、彼に向けた。
「私にも指があるのですから、先に長さを聞いてください」
彼は手袋を見て、噴き出しかけた顔を横へ向けた。
「では、教えてください。どうすれば」
「ここを、内へ折れば。もう片方は自分でできますので」
「触れても?」
フェルメリアが頷くと、彼は指先の余りだけを摘まんだ。こちらの指に当てないよう、革をゆっくり折り込んでいく。
きつくなりすぎると、フェルメリアが直した。
彼は文句を言わず、折り目を浅くした。
「これなら、手を握れますか」
まだ握ってほしいと言われたわけではない。
フェルメリアは、手袋の中で指を閉じた。
「少し、扱いに慣れれば」
彼の手が引かれた。
車窓の向こうで葉が回り、馬車の縁に当たって飛んだ。フェルメリアは自分の頬へ手を当てかけ、手袋が大きいことを思い出して膝へ戻した。
伯爵邸の玄関には、花が飾られていた。
小姓がこちらを見つけ、右手を開いて見せた。白い手袋の上に血はない。フェルメリアも、革手袋の指を軽く曲げて返した。
居間の前では、教会管理人と役人が待っていた。
「店の控えを確認しました。依頼人と受取人はエドラン殿です。刻まれた名と日付を記しています」
役人が持つ紙に、店名と署名が見えた。
管理人は綴じ本を腕に抱え直した。
「侍女殿の供述も、先ほど役所へ出していただきました」
フェルメリアは礼を言い、居間へ入った。
父が立ち上がる。
「来たか。私から説明した。指輪は確認していただくが、家族の行き違いとして収めたい」
エドランとベルネッタは奥の長椅子に並んでいた。
妹の指に、青い石はない。小箱はエドランの膝の上にある。
「申立てを撤回するのですか」
役人は父ではなく、フェルメリアへ尋ねた。
「撤回しません。母の指輪かどうか、確かめてください」
父の頬に赤みが差した。
隣室から客の笑い声が届いた。すでに招いた人たちは、食前の酒を手に待っている。
「人前でそんな声を出すな」
「こちらへお呼びになったのは、お父様です」
エドランが席を立った。
「待たせる方が失礼でしょう。僕からお客様へお話ししますよ」
父は彼を止めなかった。
エドランが客のいる広間へ入り、フェルメリアも後を追った。
磨いた床は昔と変わらない。母と舞踏の練習をし、足を踏んでしまった場所もここだ。
今日は、足を取られずに歩けた。
「皆様、少しだけ。母上の形見について、姉君にご心配をお掛けしたようでして」
エドランの声に、客がこちらを向いた。
ベルネッタが隣へ立つ。華やかな髪飾りの下で、唇が細く結ばれていた。
「母の贈り物なの。お姉様が、何か取り違えて」
妹の言葉を、フェルメリアは遮らなかった。
役人はエドランに小箱の蓋を開けさせ、輪の裏側を見せるよう求めた。エドランの指で金の輪が回る。役人が、その刻印を読み上げた。
「エルネーラ、婚礼の日付。お申し出の内容と合っています」
フェルメリアは、エドランの持つ輪に顔を近づけた。
傷は、ある。
輪の別の場所に、直した跡がかすかに見えた。
管理人も、記録に添えられた刻印の書き留めを役人へ示した。
「同じ品です。母の指輪です」
声に出すと、掌の内側が熱くなった。
エドランが指輪を箱へ戻した。管理人は卓へ綴じ本を置き、フェルメリアに開いてよいと頷いた。
「この品を、役所でお預かりします。よろしいですね」
エドランはわざとらしくため息をついた。給仕が差し出した銀の盆へ、彼が箱を傾けかける。
フェルメリアは、その手を見た。
「母のものを、返してください」
指輪が銀の盆に落ちた。乾いた音が、フェルメリアの歯の裏まで響いた。
「返したぞ。これで満足だろう」
エドランは空いた箱を卓に置き、両手を広げた。役人が白い布で指輪を包んだ。
「母は、それを着けて眠ったのです」
「だから僕が外したんだ。君に残してやるために」
彼は客たちへ向き直り、胸に手を当てた。
「大切な形見を失わせたくなかった。それを泥棒だなんて」
「私が着けました。爪に引っかかる傷があって、母の指を痛くしないかと縁を撫でて確かめました」
フェルメリアは、教会から借りた記録を開いた。
「母と一緒に葬ると、ここに署名したのは」
父が眼鏡を取り出し、署名を確かめた。
「その件は私が聞いている。娘への形見を残すためだったのだ。エドランにも配慮が——」
「お父様。私のために残した指輪を、なぜ妹への贈り物にしたのですか」
父の口が開いた。エドランへ顔を向けたが、彼は父を見ずに箱の蓋を押さえた。
「姉妹なのだから、母上の形見を大切にする気持ちは同じでしょう」
父は口を閉じた。ベルネッタの素肌の指へ目を落とし、挨拶用の紙を折った。
「それで、私には」
「伯爵、彼女は熱を出していたんですよ。こんな時に宝石のことまで、言えますか」
エドランが父の肩を叩こうとした。父は、その手を避けた。
「では、元気になってからは」
フェルメリアの問いに、彼は眉を寄せた。
「亡くなった母上の話を蒸し返せと? 君は泣いてばかりいたじゃないか」
「三年間、一度も」
「死んだ人間に、宝石が要るか! 君だって、ずっと着けたがっていただろう。取り出してやったのに、礼を言われこそすれ……」
白い布が、銀の盆の上でわずかに膨らんでいた。
棺の前では、あの縁を自分の指で覆った。傷を母の肌に擦らないように通し、母の両手を胸元で重ねた。
今、男の前にある箱は空だ。
「私に、渡しましたか」
エドランの口が開いたままになった。
ベルネッタが、指輪を包んだ白い布を見た。
「私には、お母様が下さったものだって」
「ベルネッタ、今は」
彼が伸ばした腕から、妹が後ずさった。
「その手で、私に着けたの?」
父が二人の間に入った。
「この婚約は認めない。皆様、披露は取りやめます」
給仕が、乾杯の酒を載せた盆を下げた。
エドランの母は椅子に座り込み、息子を見上げた。
「あなた、何をしたの」
役人が会場の扉を示す。
「お話は役所で伺います。ご同行ください」
「フェルメリア。君から、誤解だと言ってくれ」
「誤解ではありません」
フェルメリアは、差し出された手を取らなかった。
彼の行く先で、客たちが身を引いた。ベルネッタの前では、祝いの署名帳が閉じられた。
扉の向こうへ彼が消えても、広間はすぐには動かなかった。
給仕が置きかけた杯を卓に戻す。客の一人が、祝いのリボンを結んだ箱を抱え直した。
ベルネッタは、素肌の薬指を掌に隠した。
「お姉様。私は知らなかったの」
フェルメリアは妹へ向き直った。
母からもらったと聞いていた。その言葉は役人にも届いている。
「棺から持ち出したとは、ご存じなかったのでしょう」
「それなのに皆様の前で、こんな……」
妹の頬が濡れた。
フェルメリアは手提げを開けかけた。いつもならハンカチを渡し、父が怒らないよう妹の代わりに説明した。
指を、留め金から離した。
「私も、人前でなく確かめたいと申しました」
ベルネッタは口元を押さえた。
「お父様へ、一緒に言って。私も騙されただけだって」
「役人の方にはお話しください。聞いたことも知らなかったことも、そのまま」
妹は父を探して顔を巡らせた。父は客へ頭を下げており、すぐにはこちらを向かなかった。
ベルネッタはひとりで、父のもとへ歩いて行った。
管理人が、まだ開かれていた記録を受け取った。
フェルメリアはその表紙へ、両手を添えた。
「ありがとうございました。持って来てくださって」
「指輪は役所で保管します。お返しの時には、私にもご連絡を。お母上のところへ納める段取りをしましょう」
その言葉を聞いたとたん、指から力が抜けた。
綴じ本の重みを管理人へ返して、一歩離れる。
そばで待っていたアルヴィートが腕を差し出した。フェルメリアは指先だけを載せ、玄関へ向かった。
「フェルメリア」
父が追って来た。
娘の隣にいる男を見るより先に、手提げへ目を落とした。
「エドランのことは、私も知らなかった。もう案じるな。家へ戻りなさい」
玄関の柱に指を置いた。指の届く高さに、昔付けた小さな凹みがある。妹と室内で遊び、木馬をぶつけた跡だった。
母は二人に雑巾を持たせ、一緒に床を拭いた。
この家で笑ったことまで、なかったことにはならない。
「母の部屋の鍵は、机に置きました」
「部屋もそのままにしておく。だから」
「叔母の家へ帰ります」
父がアルヴィートを見た。
「お前からも——」
「私が決めました」
フェルメリアは父と彼の間へ顔を向けた。
父の唇が薄く開いた。
「次の縁談のことも、今はお受けしません。手紙をくださるなら、叔母の家へお願いします」
アルヴィートは何も言わなかった。
門を出るまで、フェルメリアの歩く速さに合わせてくれた。
馬車へ乗り込む時、革手袋の先がまた折り返しから出てしまった。
曲がったままの指を見て、喉からおかしな音が漏れた。笑おうとしたのか、泣きたかったのか、自分でも分からなかった。
「取ってしまってもよいのですが」
アルヴィートが手袋を指した。
「使いにくい物を、お貸ししました」
「あと少し、このまま」
手を膝へ置く。箱も記録も、ここにはない。
革の内側だけに、自分の手の温みが溜まっていた。
「終わったら、お誘いしてもよろしいですか」
口にしてから、彼を見た。
「終わる、というのは」
「母に、指輪を返してからです。歩きに。お天気がよければ」
アルヴィートは返事をしようとして、一度口を閉じた。それから居住まいを直した。
「その日は、ほかの予定を入れません。決まったら教えてください」
「雨が降ったら、どうしましょう」
「日を変えます。私の手袋に慣れるよりは簡単です」
フェルメリアは掌で口元を隠した。革の匂いが、近くなった。
数週後、叔母の家へ役所の書状が届いた。
フェルメリアは朝食の皿を脇へ寄せ、自分で封を切った。
指輪は、母の埋葬品を権限なく持ち出し、私物にした品と認められた。
埋葬したと記録された物を外していたこと、その後に修理して別の相手へ贈ったことも、書面に記されている。処分の詳しい通知は本人と家へ行われ、指輪は返還できることになった。
父からは、遺族として母の望みどおりにしてほしいという返事が届いていた。
管理人に連絡を入れ、返還の日を決めた。
その日の昼前、小姓が訪ねて来た。
洗った手袋を、丁寧に畳んで持っている。
「傷は治りましたか」
尋ねると、彼は右手を出した。細い赤みは残っているが、乾いていた。
「お借りした手袋は、もう少し綺麗にできたかもしれません。でも、こすりすぎると薄くなると洗濯の者に叱られて」
布は白くなっていた。元からあった縫い目のほつれまで、細い糸で留めてある。
「それなら、叱られる前にやめて正解でした」
「お礼を言うより先に、洗い方の話をしてしまいました」
フェルメリアは手袋を受け取った。
「傷が治ったと分かれば、それで十分です」
小姓はもう一度頭を下げ、帰っていった。
手袋を手提げへ入れると、叔母が向かいから覗き込んだ。
「あなた、今度は大きさの合う物を持ったのね」
「借り物は、返しました」
「何も聞いていないわよ」
叔母はわざと書状へ目を戻した。
フェルメリアも返事をせず、手提げの留め金を閉じた。
エドランの母からも、短い手紙が来ていた。
息子を次の当主とする話は撤回したこと、本人には家の監督のもとで償いをさせること。謝罪の言葉が続き、最後に、指輪を取り返すまでの費用を負担させてほしいとあった。
返事は、領収書を揃えてから書くことにした。
許すとも、二度と許さないとも、今決める必要はなかった。
役所では、白布に包まれた指輪が小箱に納められていた。
フェルメリアは受領のための紙に名を書き、箱へ手を伸ばした。
「母のものを、返してください」
役人が、その手の前まで箱を押した。
「確かにお返しします」
持ち上げると、思っていたより軽かった。
母の手と一緒に覚えていたからだろうか。
指輪だけを持ったことは、棺で着ける前に一度ある。その時にも、これほど小さかったのだろうか。
石の脇の縁へ指を添えた。
爪に、傷が掛かった。
痛くはなかった。
墓地へ向かう朝は、風が弱かった。
フェルメリアは白い綿の手袋を着け、指輪の箱を両手で持った。
教会管理人が、母の墓の傍らにある供物納めの石蓋を上げた。棺へ通じる穴ではない。花や、生きているうちに渡せなかった小さな品を置くための場所だった。
母の眠る土は、そのままにする。
「指輪はこちらへ。布に包んだままで構いません」
管理人が言った。
フェルメリアは箱の蓋を開き、青い石を日の下へ出した。
売らないと決めたのは、自分だった。
母の最期の希望を聞けたことを、何度も自分への慰めにした。せめて一つだけは守れたはずだと。
今度は、目の前にある。
「遅くなりました、お母様」
指輪を白布に包み、納め穴へそっと置いた。
母がいつか手を温めてくれるような気がして、伸ばした指をすぐには引けなかった。
「ちゃんと、着けたかったのですよね」
返事はない。
母の墓石の陰から、乾いた葉が一枚転がった。
フェルメリアは指を戻し、管理人に蓋を下ろしてもらった。
箱は、手元に空で残った。
少し離れた場所で待っていたアルヴィートへ、歩いて行った。
彼は墓の前に花を置き、黙って一礼した。
二人で門を出るまで、言葉は交わさなかった。
外の道には日が当たっていた。
歩くと、ドレスの裾が靴の先に触れる。風を防ぐようにアルヴィートが道の外側へ回り、それから立ち止まった。
「フェルメリア嬢」
彼は腕を差し出しかけ、下ろした。
「今日は、聞いてからにします」
手袋のことかと思って、フェルメリアは自分の指を見た。布はどこも余っていない。
「私と、お付き合いしていただけませんか。父上に決めていただく前に、あなたに伺いたい」
道の向こうで、人が通り過ぎた。
その気配が遠ざかるまで、フェルメリアは小箱を握っていた。
「お父様が、反対なさったら」
「あなたのお気持ちを伺ってから、話をします。今は、私の望みを勝手に進めたくない」
顔を上げる。
彼は、フェルメリアを見ていた。
母の物を取り戻せたから、もう何も望んではいけないような気が、どこかにあった。何かをもらえば、また何かを譲らなければならない気もした。
それでも、またこの人の手に触れたかった。
「私も、お会いしたいです。用事がなくても」
アルヴィートの手が上がった。
フェルメリアは小箱を片手へ持ち替え、空いた手を自分から重ねた。
綿越しに、彼の指が温かい。
「今日は、どこまで歩きましょう」
「まだ、帰りたくありません」
それなら、と彼が道の先を向いた。
フェルメリアはその手を離さず、もう片方の手で小箱の蓋を押した。
空いた指輪箱が、小さく閉じた。




