降水確率一〇〇パーセントの二週間
九月に入ってから、晴れた日が一日もない。
天気アプリを開くと、傘のマークが週末まできれいに並んでいて、俺はそれを見なかったことにしてアプリを閉じた。ベランダのサッシには細かい水滴がびっしりと張りついている。部屋の中には、乾ききらない洗濯物の匂いが薄く漂っていた。除湿機のタンクは朝に空にしたばかりなのに、もう半分まで溜まっている。
スマホが震えた。美和だった。
『雨ばっかりで嫌になっちゃうね』
中学のときから変わらない、丸っこい言葉づかい。美和は今、福岡に住んでいる。旦那さんと子どもが二人いて、最後に顔を合わせたのは三年前の同窓会だ。それでも月に何度か、こうして用事のない連絡が来る。
『ほんとに。洗濯物が乾かん』
『こっちもこっちも。部屋干しの匂いってなんであんなに悲しいんだろ』
『わかる』
既読がつく。それだけで、なんとなく終わる。いつもそうだ。十五年以上、ずっとそうやって続いている。
窓の外で、隣のマンションの給水塔が雨に霞んでいた。九月十四日。十四日連続の雨だった。
紗季が帰ってきたのは、八時を少し回った頃だった。
「ただいま」
「おかえり」
玄関の外で傘をばさばさとやる音がして、それから、湿った空気が一緒に入ってくる。紗季はスーツの肩を手のひらで払いながら、洗面所へ消えていった。
しばらくして、風呂場のほうから声がした。
「ねえ、浴室乾燥つけていい?」
「……電気代」
言ってから、自分の声の硬さに気づいた。責めるつもりはなかった。ただ、雨のせいで三日続けて浴室乾燥を回していて、そのことが頭の隅に引っかかっていただけだ。
紗季が廊下に顔を出した。
「じゃあ、どうしたらいいの」
「いや、別に、つけていいけど」
「その言い方…」
紗季はそのまま立っていた。髪の先から水が落ちて、フローリングに小さな染みを作っていた。
「悠くんって、いつもそう」
「なにが」
「『いいけど』とか『そのうち』とか。自分では何も決めないでさ」
そこから先は、もう雨の話ではなかった。
来年の話。紗季の実家の話。彼女のお母さんが一度、会いたいと言ってくれたこと。俺が「落ち着いたらね」と答えたこと。それが去年の春だったこと。
「別に、今すぐって言ってるんじゃないよ」
紗季の声は、思ったより静かだった。
「ただ、いつかって言われ続けると、いつかが来ない気がするの」
紗季は泣かなかった。泣かれたほうがよかった、と思うくらいには、静かだった。
その夜、俺たちは同じベッドで、背中を向けて眠った。雨の音だけが、朝までずっと同じリズムで続いていた。
次の日も雨だった。十五日目。
土曜で、紗季は朝から美容院に出かけていた。俺は何をするでもなく、コーヒーを持ってベランダに出た。庇があるから、立っている分には濡れない。手すりの向こうで、雨が細かい針みたいに降っている。
ベランダの隅に、レモンの鉢がある。
付き合って一年目の春に、二人でホームセンターで買ったものだ。八百円だったと思う。三十センチくらいの頼りない苗木で、他にもっと立派なのがいくらでもあったのに、紗季が「これにする」と言った。
「実がなるまで何年かかるんだろう」
「五年くらいじゃない?」
「五年か」
あのとき、五年という時間を、俺たちは同じ長さで想像していたんだろうか。
四年目の今も、実はひとつもなっていない。
八月、この木は死にかけた。毎日が三十五度を超えて、ベランダのコンクリートは夜になっても熱を持っていた。朝に水をやっても、帰る頃には土がからからに乾いている。葉は内側に丸まって、下のほうから順に、茶色くなって落ちていった。ベランダに出るのは水やりのときだけで、その水やりも、だんだん義務になっていった。
あのとき俺は、毎日のように空を見上げて、雨が降ればいいのに、と思っていた。
思っていたのだ、確かに。
しゃがんで、鉢の土に指を入れてみる。しっかりと湿っていた。指の腹に吸いつくような、いい湿り方だった。八月のあの、砂みたいにさらさらと崩れる土とはまるで違う。
そのまま、枝を目で追った。
葉の落ちた跡の、そのすぐ上。
赤茶色の、小指の先ほどの粒がついていた。
新芽だった。ひとつではなかった。二つ、三つ。もう駄目だと思っていた枝の先に、ぽつぽつと。
八月には、なかったものだ。
俺がうんざりしていたこの十五日間、この木はずっと、水を飲んでいた。
雨が降らなければ、これは出てこなかった。あのまま晴れが続いていたら、たぶん枯れていた。
勝手なものだと思った。八月には雨を欲しがって、九月には晴れを欲しがっている。手の中にあるものは数えずに、ないものばかり数えている。
晴れが二週間続けば、それはもう「いい天気」ではなくなって、ただの暑さになる。雨が二週間続けば、それはただの憂鬱になる。良いことも、続いてしまえば良いことではなくなるのだ。たぶん、人はそういうふうにできている。
そして、その逆もあるらしい。うんざりするほど続いた悪いことが、気づかないところで、何かを育てていることがある。
俺は雨の中に手を伸ばして、濡れた新芽に触ってみた。硬くて、小さくて、ちゃんと生きている感触がした。
部屋に戻って、スマホを手に取った。
『雨も、そんなに悪くないかもしれん』
少しして、既読。
『急にどうした』
『レモンの木に新芽が出とった』
『レモン育ててるの?』
『うん。四年目。まだ実ならん』
『気が長いなあ』
笑ってしまった。
こういう会話が、十五年続いている。用事もないのにどうでもいい話を送ってきて、どうでもいい返事が返ってくる。それが当たり前だと思っていた。
でも、たぶん違う。連絡が来なくなる友達のほうが、ずっと多い。卒業して、就職して、結婚して、引っ越して、そのたびに誰かが静かに消えていった。美和だけが、なぜか消えなかった。理由なんて、たぶんない。ただ、続いただけだ。
『いつもありがとうな』
送ってから、急に恥ずかしくなった。
『こわ』
美和はそう返してきて、そのあとに、意味のわからないスタンプがひとつ届いた。
紗季が帰ってきたのは夕方で、髪が少し短くなっていた。
「おかえり」
「ただいま。……なに」
「いや、切ったんだなと思って」
「三センチね」
「うん」
そっけない。昨日のことが、まだ残っている。
俺は台所で味噌汁を温め直しながら、背中を向けたまま言った。
「来月、紗季の実家、行ってもいい?」
水を出しかけた紗季の手が止まった。
「……急だね」
「急じゃないよ。三年遅い」
紗季はしばらく黙っていた。換気扇の音と、雨の音だけがしていた。それから、蛇口を閉めて、「うん」と言った。
それだけだった。抱き合いもしなかったし、涙も出なかった。ただ、味噌汁を少し煮立たせすぎた。
夜、紗季をベランダに連れ出した。
「なに、寒いんだけど」
「これ」
スマホのライトで枝先を照らす。紗季は顔を近づけて、あ、と小さく声を出した。
「新芽」
「うん」
「生きてたんだ」
「うん」
雨はまだ降っていた。庇を叩く音が、ずっと同じリズムで続いている。二人で、しゃがんだまましばらくそれを見ていた。
「実、なるかな」
「なると思う」
「根拠は」
「ない」
紗季が笑った。久しぶりに聞く笑い方だった。
「でも、まだ枯れてない」
雨が上がったのは九月の二十日で、ほぼ三週間ぶりの晴れだった。
ベランダいっぱいに洗濯物を干して、シーツが風でふくらむのを見ていたら、紗季が隣に来て「気持ちいいね」と言った。気持ちよかった。本当に、びっくりするくらい。
けれど、その青い空を見上げながら、俺は少しだけ、雨のことを思い出していた。
たぶん来月になれば、俺はまた何かに文句を言っている。晴れが続けば暑いと言い、寒くなれば寒いと言う。紗季の言い方が気に障る日もあるだろうし、向こうだって同じだろう。それは直らない。
それでもいい、と思った。
文句を言いながら、この木に水をやればいい。文句を言いながら、どうでもいい連絡を返せばいい。文句を言いながら、隣にいる人と、明日も同じ味噌汁を飲めばいい。
毎日仲良くいられなくてもいい。ときどきぶつかって、ときどき黙って、それでも次の日に「おはよう」と言えるなら、それでいい。
当たり前みたいに続いていくことが、たぶん、いちばん当たり前ではないのだから。
――十月の終わり、レモンの木に、白い小さな蕾がついた。
鼻を近づけると、雨のあとの土の匂いに混じって、かすかに甘い匂いがした。




