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碧落に君は消えゆく  作者: 藤橋峰妙
第一章『根雪の章』
16/18

12 隠しごと




 皿と皿が擦れ合う音が、ほんのひととき台所に響いた。


 

 それから、マルサはゆっくりと口を開いた。



 

「彼らは……【魔導師(エレネイア)】は、この国の民だった。何百年も前、どこにも行く宛のなかった彼らを受け入れた時の女王様が、この地に居場所を与えたのさ。その代わりに、彼らはこの国に力を貸してくれていたんだ」


 

 

 【魔導師(エレネイア)】は流浪の民であり、栄光と遁世の歴史を辿ってきた。


 

 【女神に愛された一族】――大陸でその呼び名を唯一冠する者たちは、古くから魔法の領域で頭角を現していた。しかし、今では表舞台から姿を消した存在である。彼らは何百年もの間、社会から逃れるように大陸各地を転々としていた。

 


 そしてある時、一族の先人たちは、水の国の山脈の片隅で暮らし始めたのだと伝えられている。



 

「私には国の事情は分からない。でもね、あの人たちが、酷いことをするような人たちじゃなかったのは確かだよ。……なのに【凍雲(いてぐも)の粛清】……どうして、あんなことが起きてしまったのか……」


 


 珍しく言葉を濁したマルサの表情には、まるで自分のことのような苦しみが滲んでいた。



 

「マルサおばさんは、その人たちに会ったことがあるの?」


 

「ああ、ああ。一度だけ、会ったことがあるよ」


 

「本当に?」

 


 

 アズサは思わず声を上げた。



 

「【魔導師(エレネイア)】の素顔は、誰も見たことがないって本に書いてあったよ。おばさんは見たの? どんな人だった?」


 

「あっはっは。そうさ、見たことがあるんだよ。私は運が良かった! お前さんも、そんな話に興味があったんだねぇ」


 

「あるよ! だって、歴史書にも魔導書にも名前が載ってる人なんだから」


 

「そうか、そうか。本当に本が好きだねえ」



 

 前掛けで手を拭きながら、マルサは天井を仰いで大きく笑う。そして、ふっと表情を和らげた。優しく、懐かしむように。



 

「まあ……私よりも、そうだねぇ。お前のお母さんの方が、よく知ってたかな」


 

「……僕の、母さん?」


 

「そうさ」


 


 マルサは、アズサの戸惑った顔を見て、そっと息を吐いた。



 

「今でもゼンの坊は、そういう話をしてくれないみたいだね」


 


 前のめりになっていた身体を、アズサは静かに元へ戻した。


 


「母さん……」


 


 慎重に言葉を繰り返す。言い慣れないその響きは、口の中で転がり、胸の奥に小さな違和感を残した。



 そんな心の内を見透かすように、マルサは静かに語り出した。



 

「お前さんを身籠ったお母さんとお父さんが、この村にやって来て……あれは、すぐのことだったかね。お母さんが、魔獣に襲われたことがあったんだよ」


 

「ま、魔獣に?」


 

「その時に助けてくれたのが、【魔導師(エレネイア)】の人たちさ。それにね、どうやら一人は、《白銀の魔法師》だったらしい」



 

 マルサは戸棚を開け、皿を仕舞い始めた。



 

「怪我の手当もしてくれて、色々と面倒も見てくれた。お前さんはまだお腹の中だったし……あの時は、本当に肝が冷えたよ」



 

 白い皿を両手で包むように持ち、マルサはじっとそれを見つめた。

 まるで、その表面に誰かの面影を映しているかのようだった。



 

「だからね、お前さんが今ここにいるのは、あの人たちのおかげでもあるんだ」


 

「……そうだったんだ」



 

 初めて聞く母の話に、胸が熱くなり、アズサはうまく言葉を返せなかった。


 

 母の話も、父の話も、誰も進んで教えようとはしない。バーリオ夫妻も、ゼンも、村の人たちも――何かを語ろうとすると、必ず途中で口を閉ざしてしまう。


 

 まるで喉に杭が刺さっているかのように。分かりそうで、分からない、ぎりぎりのところで。


 

 アズサは、人の表情をよく見ていた。幼い頃から身につけてきた、ひとつの才能だ。だからこそ、彼らの微かな逡巡にも気づいてしまう。


 

 居心地の悪さを覚えるたび、アズサはその空気を壊してまで、父と母のことを聞こうとはしなかった。


 

 ――けれど、今なら。小さく喉を鳴らし、アズサは言った。




「僕……母さんと父さんの話、もっと聞きたいな。母さんは、父さんは、どんな人だったの?」



 

 戸棚の取っ手に手を掛けたまま、マルサはその顔を見下ろし、ぱちりと瞬いた。


 

 アズサの表情は、固唾を呑むほど真剣だ。


 

 マルサは一度、口端を引き結んだ。そして戸棚から手を離し、アズサの頬にそっと手を添え、親指で目元を優しく拭った。


 

 突然伸ばされた腕に、アズサは思わず身を縮める。


 

 マルサの茶色の瞳の奥には、これまで見たことのないほど深い悲しみが揺れていた。触れた手は少し湿っていたが、冷たさはなく、確かな温もりが伝わってくる。




「お前さんのお母さん、セノアはね、とても綺麗な人だった。見た目もだけど、心がね。自然や人を愛して、思いやりに満ちた人だったよ」


 

「僕、母さんに似てる?」


 

「そうさ。その目の色も、セノアの色だ。優しいところもね」


 

 アズサは照れたように視線を逸らし、はにかんだ。



 

「でも……目の形と、その髪の色は」


 

「父さん?」

 


 アズサは少し得意げに言った。


 

 ゼンが何度も口にしていた言葉を、アズサは覚えている。――お前の父と母は、ちゃんと存在していたんだ。そう伝えられた言葉を。


 


「ああ、そうさね。お父さんによく似てる。ユトは、とても強い魔法師だったって、ゼンの坊が言ってたよ。生きていれば、今頃は王城で働くような立派な魔法師になっていただろうさ」


 

「そんなに、強い魔法師だったんだ」


 

 父が魔法師だったことは、アズサも知っている。ゼンと、アズサの父であるユト・リアンタは、魔法師を育てる学校で共に学んだ、唯一無二の親友だった。


 

 ――けれど、その話題を避けていたのは、誰よりもゼン自身だった。


 

 そのことを、マルサも分かっているのだろう。



 

「相変わらず、ゼンの坊は、お前には話してくれないんだね」


 

 

 アズサは小さく頷き、視線を落とした。


 

「……おばさんたちも、母さんと父さんのこと、話したくないのかと思ってた。でも……なんで話したくないのかも、分からなくて」


 

「それは――」


 

 マルサの声が、硬くなる。


 

「こ、困らせたいわけじゃないよ。分かってる。でも……」



 

 マルサは、今まで見た中で一番困った顔をしていた。肩がわずかに震えたのを、アズサは見逃さなかった。胸の奥に、小さな針のような痛みが走る。



 

「でも、おばさんの話、聞けてよかったよ」


 

「アズサ……」



 

 マルサは頬から手を離し、そのままアズサを優しく抱きしめた。



 

「ごめんよ、アズサ。私から、全部を話してやることはできないんだ。こればかりは……」


 

「それは、前にも聞いたよ」



 

 アズサはマルサの温かな服に、顔を埋めた。



 

「ゼンの坊も……まだ心の整理がついていないんだと思う。だけど、あの子だって、きっと、いつかは話してくれる」


 

「大丈夫だよ。ゼンさんのことも、ちゃんと、分かってる」



 

 背中を撫でる手が、ゆっくりと上下する。



 

 「ごめんよ」という声だけが、耳の奥に、しこりのように残っていた。


 

 ――声は震えていなかっただろうか。



 

(ゼンさんにとって、僕はいったいどういう存在なんだろう。どうして、みんなそんなに悲しそうな顔をするんだろう)



 

 母と父の話を掘り下げることが、ゼンの心の傷をさらに抉ってしまうのではないか。そう思うと、アズサは怖かった。ゼンは、いつもアズサを見る時、どこか哀しそうな目をする。だからこそ、その傷には触れられなかった。

 


 触れてしまえば、いつかゼンに見捨てられてしまうのではないか――その不安を、アズサはずっと胸の奥に抱えていた。



 

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