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碧落に君は消えゆく  作者: 藤橋峰妙
第一章『根雪の章』
15/18

11 魔導師



 

 2



 

 部屋に差し込む橙色の光が、少しずつ夜の闇へと溶けていく。


 

 アズサは目の前に置かれたスープを匙で掬い、口に運んだ。マルサ手製の具だくさん野菜スープは、身にしみるほど温かく、薄味ながら野菜の旨味がしっかりと引き出されている。


 

 器を傾け、最後の一滴まで飲み干すと、くうくうと空腹を訴えていた腹は、いつの間にか静まっていた。


 

 アズサはほうっと温かな息を吐き、器を置いた。窓の外では日が暮れ、夜の帳が下り始めている。日詠み時計は、迎月げいげつの刻を指す寸前だった。



 

「いっぱいお食べ。まずはお腹を満たさないと、治る怪我も治らないさね!」



 

 皿を手にしたマルサが台所から出てきて、暖炉の前に座る獣の足元へ、そっと器を置いた。



 具を取り除いたスープの表面が、ふわりと揺れる。獣はすでに二杯目のお代わりだ。よほど空腹だったのだろう。小さな舌で、懸命にスープを舐め取っている。



 その美しい毛並みと愛らしい仕草に、マルサはすっかり心を掴まれていた。空になった一つ目の器を満足そうに見て、マルサは再び台所へ戻っていく。


 

 どうやら、獣は運ばれてきた料理がすっかりお気に召したらしい。怪我の手当てをしたアズサよりも、美味しい食べ物をくれるマルサに、獣は真っ先に懐いた。無我夢中でスープを舐め取り、硬い尻尾を左右にゆらゆらと揺らしているのが、その何よりの証拠だ。



 

(食べ物には勝てないってこと? 僕だって、おいしい料理くらい……)



 

 アズサが口を尖らせていると、前掛けで手を拭きながら、マルサが目の前の椅子に腰を下ろした。



 

「かわいい獣だねぇ。あんなに綺麗な銀色は初めて見たよ。汚れもひどいし、あとで洗ってやらないと。それに包帯も巻き直さないとね。――ねえアズサ、あの幼い獣は、一体どうしたんだい」



 

 マルサは頬杖をつき、目を細めて獣を見つめている。アズサは、獣と初めて出会った日のことを思い返した。



 

「三日前くらいかな。家の外にいたんだ。怪我をしていて、放っておけなくて」


 

「三日前……。あの『呪い』が始まったのは一週間前だって言うから……。あんな吹雪の中、森をさまよっていたんだね。それは、かわいそうに」


 

「呪い?」



 

 アズサは目を瞬かせた。



 

「『エレネイアの呪い』だよ。もうかれこれ十二年、この国で何かが起きれば、みんなそれは彼らの呪いだって言うのさ」


 

「『エレネイア』って、あの【魔導師(エレネイア)】? 味方を裏切った、悪い魔法師だって……」


 

「そうだね……。十二年前のことを知らない大人は、この国にはいないよ」



 

 マルサは獣を見つめたまま、悲しげに目を伏せた。



 

「お前さんが、ちょうど生まれた頃だったね。【凍雲(いてぐも)の粛清】のことくらいは、知っているだろう」


 

「うん」



 

 アズサは神妙に頷いた。比較的新しい歴史書なら、すでに記されている出来事だ。



 

「あれは恐ろしい日だったよ。山脈の空が真っ赤に燃えてね。ここからでも、はっきり見えた。王都の女王陛下も、偉い人たちも、山で暮らす私みたいな木こりの妻だって、みんな知ってる話さ」



 

 【凍雲の粛清】。


 十二年前、沙流衣月(さるいづき)の日に、評議会が《白銀の魔法師》を粛清しようと襲撃を仕掛けた事件である。追い詰められた《白銀の魔法師》は、自らの家族であり、最古の魔法師の一族である【魔導師(エレネイア)】を、自らの手で一人残らず惨殺した。そして最後には、評議会によって〈白銀〉自身も討たれたと伝えられている。


 

 マルサは目を伏せたまま、続けた。


 


「でもね、実際に裏切ったのはこの国だったんだって言う人もいるんだよ。だから、国を恨んでいるんだって……」


 

「どうして?」


 

「さあ……。何があったのかは、私には分からないけれどね」



 

 マルサが静かに視線を落とすと、食べ終えた皿を咥えた獣が足元の静かに伏せて、マルサを見上げていた。



 

「あらまあ。美味しかったかい。いい子だねぇ、お皿まで持ってきてくれるなんて」



 

 マルサが獣の頭を優しく撫でると、獣は目を細め、満足した様子で再び暖炉の方へと身体を向けた。器用な身のこなしで、本が積み上がった床の隙間をくぐり抜けていく。



 

「先に洗っておこうか」



 

 マルサは皿を受け取り、「よいしょ」と重たい声を上げて立ち上がった。洗いに行くのだろう。アズサも自分の器を手に、その背を追った。



 

「僕がやるよ」


 

「いいや、お前さんは休んでいなね。ほら、お皿を貸しな。一緒に洗ってあげるから」



 

 マルサは桶に溜めていた水へ、器を滑らせた。書庫の奥にある小さな台所は、マルサ一人が立つと、ちょうどいっぱいになってしまう。



 

「あ、ありがとう……。ねえ、おばさん、話の続きを聞かせてよ。どうして、みんな呪いだって言うの?」



 

 アズサは本から知識を得るのが好きだ。けれど、それ以上に、本には書かれていないことを知ることにも興味があった。



 本に記されているのは、ただの事柄だ。それが真実かどうかは、また別の話である。アズサは知識に対して貪欲だ。自分の目で見たものを信じたい――そんな性分を持っている。


 

 皿を洗うマルサの隣で、アズサはその続きを待った。マルサはしばらく手元を見つめ、黙って考え込んだ。




 

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