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碧落に君は消えゆく  作者: 藤橋峰妙
第一章『根雪の章』
14/18

10 抱擁



 

 ✼••┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈••✼



 

 ぎしり、ぎしり。


 

 ゆっくりと木が沈む。その音が一度止み、今度はガサガサと何かに触れる音が、どこからともなく聞こえてきた。

 


 ぎしぎし、がさがさ。


 

 二つの音が繰り返されたところで、アズサの意識は微睡みの底から引き上げられた。


 

 眠たい目で部屋を見渡す。大きく逞しい背中が、本棚の前に散らばった本を拾い上げていた。



 うっすらと開けた視界の端に、柔らかな白い毛玉が丸まっている。



 ――ハッとして、アズサは勢いよく長椅子を蹴って飛び起きた。



 全身から、さーっと血の気が引いた。いつの間にか寝てしまっていた。窓の外には夕焼けが広がり、暖かな橙色の光が差し込んでいる。


 

 

「夕日? もう夜――、あっ!」


 

 

 寝てから、どれくらい時間が経ったのだろう。


 

 アズサは飛び上がり、自分の部屋へ駆け込むと、寝台に寄り、眠る少女の口もとへ手をかざした。


 


「よ、よかった……ちゃんと、息してる」



 

 胸を撫で下ろした瞬間、背後でぎしりと床が鳴った。



 

「ああ、ああ! やっと起きたのかい。良かった、良かった!」



 

 張りのある太い声に、書庫の古い板が軋むほどの足音。深緑の服に亜麻色の前掛け。幅のある体つき。腕に何冊も本を抱えた女性が、部屋の前に立っていた。



 

「マルサおばさん!」


 

 アズサは肩の力を抜き、ぱっと顔を明るくした。


 

「来てくれてありがとう。こんなに早く来てくれると思ってなかっ――わっ!」



 

 マルサは机の上に本を置くと、アズサを力いっぱい抱きしめた。



 

「お、おばさん?」



 

 木の皮みたいな独特の匂いがする。急な抱擁に、アズサは目を回した。体格のいいマルサの腕は骨が砕けそうで、アズサの身体は半分潰れそうだった。



 

「おばさん……く、くるしい……」


 

「あっ、ああ! ごめんよ、アズサ」


 

「ど、どうしたの? おばさん――イタッ!」



 

 なんとか腕の中からもがき出した途端、マルサは腕を緩めた――と思ったら、べし、と指でアズサの額を弾いた。


 


「心配したんだよ、アズサ!」



 

 マルサは肩を大きく開き、腰に手を当てた。叱るときの仕草だ。目には憂わしげな色が差している。アズサはばつが悪くなって、視線を逸らした。



 

「様子でも見に行こうと思ってたら、どこからともなく言伝鳥(ことづてどり)がやってくるし。どうしたもこうしたも、そりゃもう!」



 

 マルサは腰から手を離して腕を組んだ。


 言伝鳥を使ったのは、たいていアズサが熱を出して起き上がれない時や、何日も食べず本に夢中になって倒れた時。よほどのことがある時だけだった。


 

 マルサがただ事ではないと思ったのも当然だ。


 

 

「それに、ここに来た時は本当に驚いた! 女の子の服が欲しいって言い出したのもおかしいのに、見たこともない獣はいるわ、本当に女の子がいるわでね!」


 

「……た、助けたというか」


 

「あの吹雪に出歩いてたのかい?」


 

「え、あ……う」


 

「……まったく無茶をして! 命知らずはゼンの坊や一人で十分さね!」


 

 

 言葉を詰まらせたアズサに、マルサはぴしゃりと言い放った。



 

「あの子には似てないと思ってたけど、外に出たなんて――どうして何にも言わなかったんだい? 手が凍傷になりかけてたじゃないか! この森をよく知るおじさんだって、そんなことしないよ!」



 

 煮え立つ湯の泡みたいに息まくマルサの言葉を、アズサはすかさず遮った。



 

「おじさんは? 僕、おじさんに聞きたいことがあるんだ」


 

「……森の様子を見に行ったよ。もうすぐ帰ると思うけど。聞きたいことって何だい? 手紙は私しかいない時に届いたからね。まだ――」


 

「おばさん?」




 マルサは唐突に言葉を切った。口を開けては閉じ、アズサと少女の顔に視線を行ったり来たりさせる。そしてようやく、声を絞り出した。



 

「――助けた?」



 

 小声だった。



 

「助けたって……その子を?」



 

「うん」アズサは少女の顔をちらりと見る。「あそこにいる獣も」



 

 暖炉の方を指すと、丸くなっていた獣が顔を上げ、大きな口を開けて欠伸をした。


 

 目はとろりと溶けたように眠たそうで、まだうつらうつらしている。マルサの大きな声で起きたのだろう。



 

「助けた……」


 

「森で……。あの子は怪我をしていて、家の薬だけじゃ足りなさそうだったから、村まで行ってきたんだ。女の子は……森の洞窟で見つけた」


 

「森の洞窟? 一体、何の話だい」


 

「あの子が……あの獣が、この前突然現れて。それで怪我をしていたから」


 

 

 アズサは獣へ視線を向け、またマルサへ戻したところで、はっと言葉を止めた。マルサの瞳には、心配の色が濃く映っている。


 


「その……し、心配かけて、ごめんなさい」


 


 マルサはゆっくりと大きく息を吐き出した。



 

「心配をかけたと思うなら、無理はしないことだ。おまえさんは何でも一人でできる子だ。それは確かだけどね」


 

「……うん」

 


 

 アズサが視線を床に落とすと、マルサが小さく笑い、大きな手でアズサの頭を撫でる。


 


「おまえさんは優しい子だ。でも子供一人ができることには限りがある。狩人は自分の力に見合った獲物しか狩らないし、おじさんだって、斧が入るか分からなければ振らない。今回は運が良かった」


 


 見上げたマルサの顔には、優しげな皺が寄っていた。水の国の人に多い茶色の瞳にも、怒りはもうない。



 アズサは、自分がかなり無謀だったことを突きつけられて、恥ずかしくなった。



 結果的に何もなかっただけだ。もし雪に滑って谷に落ちていたら。もし吹雪の中で、飢えた獣に遭遇していたら。その時、どうなっていたか分からない。



 今頃、山のどこかで人知れず死んでいたかもしれない。心配をかけてしまうことが本望ではなかった。



 

「う……うん。その……ごめんなさい」


 

「もう謝らなくていい。助けたいと思ったんだろう」



 

 マルサはまた頭を数回撫で、眠る少女を見遣った。



 

「うん。そうしなきゃって思って」


 

「昔からおまえさんは何かと獣を助けて連れてきたが、まさか人を連れてくるとはね。まあ、いつかは誰かを連れてくる気がしてたけどさ」



 

 仕方なく笑うマルサにつられ、アズサも笑う。


 

 確かにこれまでも、森で怪我をした動物を助けたことはある。だが、マルサにそう思われていたとは想像もしていなかった。



 マルサはアズサの肩を軽く叩くと、少女の上に掛かっていた布団をそっと直した。布団の下の服は、色こそ褪せているが、綺麗なものに替わっている。アズサはマルサを見上げた。


 


「服! 変えてくれたんだね」


 

「ああ。事情があると思ってね。おまえさんが寝てる間に体を拭いて、服も替えておいたよ」


 

「ありがとう、おばさん」


 

「いい、いい。女物の服はあるけど、生憎と私の大昔のしかなくてね。大きすぎるから、ゼンの子供服を着せといたよ。……それで、この子は一体どうしたんだい? なんだか訳ありだろ。あの狼みたいなのもさ」


 

「そうなんだ。話すと長くなるんだけど……」



 

 言いかけた瞬間、アズサの腹が情けない音を立てた。


 

 何も食べていなかったことを思い出し、アズサははっと腹に手を当てた。音は思ったより大きく、顔に熱が集まる。



 

「お腹がすいただろう! やっぱり思ったとおりだね!」




 あっはっは、と豪胆な笑い声が部屋に響く。ふくよかな体に合わせて、ゆったりした裾が揺れた。


 


「そうだと思ってね。おまえさんが寝てる間に食事を作っておいたんだ。寝てる間も腹が鳴ってたからさ」



 

 マルサは、部屋の空気まで明るくするみたいに笑った。笑い声は大きく張りがあって、男みたいだが――それがマルサらしい。

 

 


「さあ。暖かいスープを食べて、話を聞かせておくれ」



 

 その笑顔に、張り詰めていた気持ちが、ゆるゆるとほどけていった。



 

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