10 抱擁
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ぎしり、ぎしり。
ゆっくりと木が沈む。その音が一度止み、今度はガサガサと何かに触れる音が、どこからともなく聞こえてきた。
ぎしぎし、がさがさ。
二つの音が繰り返されたところで、アズサの意識は微睡みの底から引き上げられた。
眠たい目で部屋を見渡す。大きく逞しい背中が、本棚の前に散らばった本を拾い上げていた。
うっすらと開けた視界の端に、柔らかな白い毛玉が丸まっている。
――ハッとして、アズサは勢いよく長椅子を蹴って飛び起きた。
全身から、さーっと血の気が引いた。いつの間にか寝てしまっていた。窓の外には夕焼けが広がり、暖かな橙色の光が差し込んでいる。
「夕日? もう夜――、あっ!」
寝てから、どれくらい時間が経ったのだろう。
アズサは飛び上がり、自分の部屋へ駆け込むと、寝台に寄り、眠る少女の口もとへ手をかざした。
「よ、よかった……ちゃんと、息してる」
胸を撫で下ろした瞬間、背後でぎしりと床が鳴った。
「ああ、ああ! やっと起きたのかい。良かった、良かった!」
張りのある太い声に、書庫の古い板が軋むほどの足音。深緑の服に亜麻色の前掛け。幅のある体つき。腕に何冊も本を抱えた女性が、部屋の前に立っていた。
「マルサおばさん!」
アズサは肩の力を抜き、ぱっと顔を明るくした。
「来てくれてありがとう。こんなに早く来てくれると思ってなかっ――わっ!」
マルサは机の上に本を置くと、アズサを力いっぱい抱きしめた。
「お、おばさん?」
木の皮みたいな独特の匂いがする。急な抱擁に、アズサは目を回した。体格のいいマルサの腕は骨が砕けそうで、アズサの身体は半分潰れそうだった。
「おばさん……く、くるしい……」
「あっ、ああ! ごめんよ、アズサ」
「ど、どうしたの? おばさん――イタッ!」
なんとか腕の中からもがき出した途端、マルサは腕を緩めた――と思ったら、べし、と指でアズサの額を弾いた。
「心配したんだよ、アズサ!」
マルサは肩を大きく開き、腰に手を当てた。叱るときの仕草だ。目には憂わしげな色が差している。アズサはばつが悪くなって、視線を逸らした。
「様子でも見に行こうと思ってたら、どこからともなく言伝鳥がやってくるし。どうしたもこうしたも、そりゃもう!」
マルサは腰から手を離して腕を組んだ。
言伝鳥を使ったのは、たいていアズサが熱を出して起き上がれない時や、何日も食べず本に夢中になって倒れた時。よほどのことがある時だけだった。
マルサがただ事ではないと思ったのも当然だ。
「それに、ここに来た時は本当に驚いた! 女の子の服が欲しいって言い出したのもおかしいのに、見たこともない獣はいるわ、本当に女の子がいるわでね!」
「……た、助けたというか」
「あの吹雪に出歩いてたのかい?」
「え、あ……う」
「……まったく無茶をして! 命知らずはゼンの坊や一人で十分さね!」
言葉を詰まらせたアズサに、マルサはぴしゃりと言い放った。
「あの子には似てないと思ってたけど、外に出たなんて――どうして何にも言わなかったんだい? 手が凍傷になりかけてたじゃないか! この森をよく知るおじさんだって、そんなことしないよ!」
煮え立つ湯の泡みたいに息まくマルサの言葉を、アズサはすかさず遮った。
「おじさんは? 僕、おじさんに聞きたいことがあるんだ」
「……森の様子を見に行ったよ。もうすぐ帰ると思うけど。聞きたいことって何だい? 手紙は私しかいない時に届いたからね。まだ――」
「おばさん?」
マルサは唐突に言葉を切った。口を開けては閉じ、アズサと少女の顔に視線を行ったり来たりさせる。そしてようやく、声を絞り出した。
「――助けた?」
小声だった。
「助けたって……その子を?」
「うん」アズサは少女の顔をちらりと見る。「あそこにいる獣も」
暖炉の方を指すと、丸くなっていた獣が顔を上げ、大きな口を開けて欠伸をした。
目はとろりと溶けたように眠たそうで、まだうつらうつらしている。マルサの大きな声で起きたのだろう。
「助けた……」
「森で……。あの子は怪我をしていて、家の薬だけじゃ足りなさそうだったから、村まで行ってきたんだ。女の子は……森の洞窟で見つけた」
「森の洞窟? 一体、何の話だい」
「あの子が……あの獣が、この前突然現れて。それで怪我をしていたから」
アズサは獣へ視線を向け、またマルサへ戻したところで、はっと言葉を止めた。マルサの瞳には、心配の色が濃く映っている。
「その……し、心配かけて、ごめんなさい」
マルサはゆっくりと大きく息を吐き出した。
「心配をかけたと思うなら、無理はしないことだ。おまえさんは何でも一人でできる子だ。それは確かだけどね」
「……うん」
アズサが視線を床に落とすと、マルサが小さく笑い、大きな手でアズサの頭を撫でる。
「おまえさんは優しい子だ。でも子供一人ができることには限りがある。狩人は自分の力に見合った獲物しか狩らないし、おじさんだって、斧が入るか分からなければ振らない。今回は運が良かった」
見上げたマルサの顔には、優しげな皺が寄っていた。水の国の人に多い茶色の瞳にも、怒りはもうない。
アズサは、自分がかなり無謀だったことを突きつけられて、恥ずかしくなった。
結果的に何もなかっただけだ。もし雪に滑って谷に落ちていたら。もし吹雪の中で、飢えた獣に遭遇していたら。その時、どうなっていたか分からない。
今頃、山のどこかで人知れず死んでいたかもしれない。心配をかけてしまうことが本望ではなかった。
「う……うん。その……ごめんなさい」
「もう謝らなくていい。助けたいと思ったんだろう」
マルサはまた頭を数回撫で、眠る少女を見遣った。
「うん。そうしなきゃって思って」
「昔からおまえさんは何かと獣を助けて連れてきたが、まさか人を連れてくるとはね。まあ、いつかは誰かを連れてくる気がしてたけどさ」
仕方なく笑うマルサにつられ、アズサも笑う。
確かにこれまでも、森で怪我をした動物を助けたことはある。だが、マルサにそう思われていたとは想像もしていなかった。
マルサはアズサの肩を軽く叩くと、少女の上に掛かっていた布団をそっと直した。布団の下の服は、色こそ褪せているが、綺麗なものに替わっている。アズサはマルサを見上げた。
「服! 変えてくれたんだね」
「ああ。事情があると思ってね。おまえさんが寝てる間に体を拭いて、服も替えておいたよ」
「ありがとう、おばさん」
「いい、いい。女物の服はあるけど、生憎と私の大昔のしかなくてね。大きすぎるから、ゼンの子供服を着せといたよ。……それで、この子は一体どうしたんだい? なんだか訳ありだろ。あの狼みたいなのもさ」
「そうなんだ。話すと長くなるんだけど……」
言いかけた瞬間、アズサの腹が情けない音を立てた。
何も食べていなかったことを思い出し、アズサははっと腹に手を当てた。音は思ったより大きく、顔に熱が集まる。
「お腹がすいただろう! やっぱり思ったとおりだね!」
あっはっは、と豪胆な笑い声が部屋に響く。ふくよかな体に合わせて、ゆったりした裾が揺れた。
「そうだと思ってね。おまえさんが寝てる間に食事を作っておいたんだ。寝てる間も腹が鳴ってたからさ」
マルサは、部屋の空気まで明るくするみたいに笑った。笑い声は大きく張りがあって、男みたいだが――それがマルサらしい。
「さあ。暖かいスープを食べて、話を聞かせておくれ」
その笑顔に、張り詰めていた気持ちが、ゆるゆるとほどけていった。




