第六章 雪乃とのズレ
旧校舎に行く頻度が、
一色の中で決まっていた。
曜日でも、時間でもない。
行く必要があるかどうか、
それだけだった。
その日は、必要があると感じた。
理由は説明できない。
ただ、
行ったほうが正しい気がした。
廊下の奥に、
制服の色があった。
雪乃は、
窓際に立っていた。
こちらを見ない。
でも、
気づいていないわけでもない。
「……来た」
雪乃が言う。
迎える声ではない。
確認に近い。
「うん」
一色は、
いつもより迷わず答えた。
その違いに、
雪乃は気づいたようだった。
沈黙が落ちる。
埃が光の中で舞い、
外の校舎から、
誰かの笑い声が聞こえる。
雪乃は、
その音を聞いてから言った。
「今日は、
あっち、騒がしいね」
「文化祭の話してた」
一色は、
即座に答える。
知っていることを、
知っている形で返す。
「……そう」
雪乃は、
それ以上聞かなかった。
一色は、
少しだけ間を置いてから言う。
「行かなくていいと思う」
雪乃が、
初めてこちらを見る。
「何が?」
「教室」
一色は、
理由を用意していた。
「無理に行く必要ない。
今の状態で、
あそこにいるのは不合理だ」
正しい説明だった。
噛み砕かれていて、
相手を気遣う形もしている。
でも、
雪乃の表情が、
ほんの少しだけ曇る。
「……それ、
誰が決めたの?」
一色は、
即答できなかった。
昨日までなら、
迷っていたはずの問いだ。
でも今は、
答えが先に出る。
「決めなくていい。
分かるだろ」
その瞬間、
雪乃の中で、
何かが閉じた。
「分かる、って」
声は静かだった。
「分かるって言葉、
便利だね」
一色は、
反論しようとした。
でも、
正しい反論が
すぐに見つかる。
「危ないからだよ。
今は、
余計な刺激を避けたほうがいい」
それは、
善意だった。
守ろうとしていた。
雪乃は、
一色から視線を外す。
「……私、
刺激じゃないよ」
その言葉に、
一色は一瞬、
理解が遅れた。
遅れた分だけ、
言葉が鋭くなる。
「そういう意味じゃない」
「でも、
そう聞こえる」
廊下の空気が、
少し冷える。
一色は、
ここで引けばよかった。
でも、
引く理由が
見つからなかった。
「正しい選択をしてるだけだ」
それが、
決定打だった。
雪乃は、
しばらく黙ってから言う。
「……一色ってさ」
名前を呼ばれる。
それだけで、
少しだけ胸が軽くなる。
雪乃は続けた。
「前は、
分からないまま
一緒にいられたのに」
一色は、
その意味を測ろうとして、
測れなかった。
「今は、
全部決めようとする」
雪乃は、
振り返らずに歩き出す。
「それ、
優しい顔してるけど、
結構、重いよ」
一色は、
呼び止めなかった。
正しさが、
まだ自分の側にあると
信じていたからだ。
雪乃の背中が、
角を曲がって消える。
一色は、
その場に立ち尽くす。
胸の奥で、
何かが削れる。
でも、
痛みはない。
——正しいはずだ。
そう思えたことが、
何よりも危険だった。
王冠は、
まだ夢の中にある。
けれど、
それはもう、
人を傷つける重さを
持ち始めていた。




