第三章 学校にいない人
二度目に見たとき、
一色は、もう驚かなかった。
旧校舎の廊下は、
相変わらず静かだった。
窓の外の校舎からは、
放課後の声がかすかに届く。
こちら側だけ、
時間が遅れているみたいだった。
制服姿の背中が、
廊下の奥にあった。
一色は、
わざと足音を立てた。
逃げられないように、
でも、脅かさないように。
「……ここ、寒いだろ」
声は、
思ったより普通に出た。
背中は振り返らない。
ただ、
歩く速度だけが少し落ちる。
「寒いの、嫌いじゃない」
返事は、
近くも遠くもない距離から返ってきた。
一色は、
それ以上近づかなかった。
「授業、終わってる」
「知ってる」
短い返事だった。
否定も、説明もない。
それでいい、と
一色は思った。
「ここ、使っていいのか?」
「来ちゃいけないって、
言われてないから」
言い切りでも、
言い訳でもなかった。
ただの事実みたいな声だった。
廊下の窓から、
夕方の光が差し込む。
埃が、
ゆっくり落ちていく。
一色は、
窓の外を見た。
「……教室、騒がしい」
「うん」
「今日は、特に」
「そうだね」
それ以上、
話は広がらなかった。
でも、
沈黙が重くならない。
一色は、
自分が立ち止まっていることに気づく。
ここにいる理由を、
探さなくていい場所。
彼女は、
振り返らなかった。
けれど、
無視されている感じはしなかった。
こちらを向く必要が、
ないだけだ。
「……帰らないのか」
「帰る場所はあるよ」
一色は、
その言葉を聞いて、
それ以上聞かなかった。
聞けば、
境界を踏む気がした。
しばらくして、
彼女が言った。
「君、よくここに来るの?」
「今日が二回目」
「そう」
それだけで、
会話は終わった。
彼女は、
ゆっくり歩き出す。
一色は、
並ばなかった。
並べば、
何かが始まる気がした。
背中が、
廊下の角で一瞬、止まる。
振り返らないまま、
彼女は言った。
「……雪乃、でいいよ」
一色は、
その場で言葉を失った。
名前が、
こちら側に落ちてきた感じがした。
でも、
掴んではいけない気がして、
拾わなかった。
「……一色」
フルネームは言わなかった。
それで、
十分だった。
雪乃は、
何も答えず、
そのまま歩いていった。
一色は、
追いかけなかった。
呼び止めもしなかった。
ただ、
廊下に残った名前の音を、
胸の奥にしまった。
それだけで、
二人の距離は、
確かに縮んでいた。




