第十章 切る前の夜
北藪家の夜は、
いつも通りだった。
テレビの音。
食器の音。
誰かの咳払い。
雪乃は、
それらを特別なものとして
聞いていなかった。
自分の部屋に戻り、
ドアを閉める。
鍵は、
かけない。
今夜は、
まだ出ていかない。
制服を脱ぎ、
畳んで椅子に掛ける。
明日も着る。
学校に行くためではない。
今日と同じでいるためだ。
机の引き出しには、
触れない。
開ければ、
準備になってしまう。
雪乃は、
それを避けた。
決めたことと、
動くことは、
別にしておきたかった。
鏡の前に立つ。
髪には触れない。
切るのは、
明日だ。
理由は、
もう済んでいる。
ベッドに腰を下ろす。
スマートフォンを見るが、
何も操作しない。
連絡はしない。
確認もしない。
約束は、
成立しているからだ。
一色の「ごめん」を、
思い出す。
あの言葉で、
何かが解決したわけではない。
でも、
これ以上
壊れないと分かった。
それだけで、
十分だった。
雪乃は、
天井を見る。
この家を出る理由を、
言葉にする必要はない。
言葉にすれば、
引き留められる。
引き留められれば、
戻れてしまう。
それが、
一番怖かった。
布団に横になる。
眠れるかどうかは、
考えない。
眠れなくても、
朝は来る。
切る前の夜は、
何も変わらない。
だから、
もう戻らない。




