第八章 切る前
旧校舎の廊下は、
相変わらず人の気配がなかった。
一色は、
来るかどうか分からないまま、
そこに立っていた。
足音がして、
振り返る前に分かる。
——来た。
雪乃は、
少し離れた場所で立ち止まった。
距離を詰めない。
でも、帰る気もない。
その立ち方で、
一色は察してしまう。
「……決めた?」
雪乃は、
小さく頷いた。
「家、出る」
言い切りだった。
迷いは、もう残っていない。
一色は、
すぐに言葉を返さなかった。
止める理由は、
いくつも思いつく。
でも、
どれも今は使えない。
「今日じゃない」
雪乃が続ける。
「準備して、
ちゃんと出る日を決めた」
日付を告げる。
具体的な数字。
戻れない種類の決断。
一色は、
その数字を一度だけ噛みしめてから、
口を開いた。
「……前さ」
雪乃が、
少しだけこちらを見る。
一色は、
視線を合わせなかった。
「言い方、
間違えた」
それだけ言って、
続きが出てこない。
雪乃は、
急かさない。
一色は、
息を整えてから言った。
「正しいとか、
選ぶとか……
ああいう言い方、
全部」
言葉を探すのを、
途中でやめる。
「……ごめん」
短い。
言い訳も、理由もない。
雪乃は、
すぐには反応しなかった。
しばらくして、
静かに言う。
「うん」
許すとも、
許さないとも言わない声。
「でもね」
雪乃は続ける。
「一色が言ったこと、
間違いだとは思ってない」
一色は、
その言葉に胸が詰まる。
「だから、
ここにはいられなくなった」
責めていない。
でも、
引き返せない理由だけは、
はっきりしていた。
一色は、
それ以上、
踏み込まなかった。
「……その日」
雪乃が言う。
「駅前で、
待っててほしい」
頼みというより、
確認に近い。
「一人で出ていくけど、
完全に一人だと思うのは、
ちょっときついから」
一色は、
王冠の重さを思い出す。
でも、
今日は使わない。
「分かった」
それだけで、
十分だった。
雪乃は、
少しだけ肩の力を抜く。
「……ありがとう」
一色は、
返事をしなかった。
返せば、
何かを約束以上のものに
してしまう気がした。
雪乃は、
振り返らずに歩き出す。
一色も、
最後まで振り返らない。
だから、
雪乃がこのあと
髪を切ることを、
一色は知らない。
ただ、
切る前に決めた
という事実だけが、
胸に残った。
二人は、
その日に待ち合わせをした。
姿を知らないまま、
同じ時刻へ向かう約束を。




