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はらぺこ幼竜があらわれた!~召喚冒険者の記憶から、おいしー異世界ごはんをいただきましっ

作者: 和島 逆
掲載日:2026/01/21

 その冒険者は飢えていた。


 決して空腹なわけではない。

 ――飢えているのは美味い食事に、である。


(……不味い)


 喧騒に包まれた酒場で、男は一人情けなく肩を落とした。


 カチカチに干からびた黒パンを、スープにひたしながら苦労して咀嚼する。

 スープには申し訳程度に野菜の切れ端が浮いているだけで、まるで湯を飲んでいるように味気なかった。


 単なる補給だけの食事を終えると、男は汚れた木のテーブルの上に数枚の銅貨を重ねて置いた。

 いかに不満足な料理であろうとも、「ご馳走様」ときちんと手を合わせるのは忘れない。幼いころから染みついた習慣だ。


 酒場を出て、安宿への道をとぼとぼ歩く。

 見上げた夜空には美しい月が浮かんでいて、まるで故郷にいるかのような錯覚を覚えた。そんなはずがないのに。


「………」


 男は立ち止まり、目を閉じる。

 今はもう戻ることの叶わない故郷を想った。


 焦がれるほどに恋しいのは、清潔で文化的で平和な生活……ではなく。

 便利でスマートで機能満載な通信機器……でもなく。

 あふれんばかりに多彩な娯楽の数々……でもなくて。


 ただ。

 ひたすら。

 純粋に。

 心から。


「日本食がっ、食いてえよぉぉぉぉっっっ!!」



 ◇



 いわゆる異世界召喚、というやつである。


 ただし勇者として喚ばれたわけではない。

 魔王だの魔族だのによって、世界が滅亡の危機に瀕していたわけでもない。


 ちょっとした出来心とその場のノリと勢いで、エリート魔法学院の生徒たちが古代魔法を再現してみただけらしい。


 折しも大学三年生、就職活動の真っ最中だった。

 初々しくリクルートスーツを着込み、企業説明会へと足を急がせる途上、ひょいと角を曲がったらそこはもう見知らぬ異世界で。足元には光り輝く魔法陣、周囲を取り囲む黒ローブの男たち……とくれば、何が起こったかは明白だった。


(まさか、この俺が異世界召喚……!?)


 一瞬心が沸き立ったものの、すぐに奈落の底へと叩き落とされることとなる。

 唖然として自分を見つめる異世界人たちの第一声が、『あっやべ』だったからである。


『どーすんだよ。まさか成功するだなんて思わないじゃん?』

『もしやバレたら退学か?』

『証拠隠滅しちゃおうよ』


 そこからは怒涛の展開だった。


 ちょっとそこどけよ、と邪険に魔法陣の上から追い立てられ、彼らはモップで必死に床を磨き始めた。

 ぽつねんと放置されていたら、そこに教師が乱入。事情を知った教師が怒り狂う。バカどもへの鬼のような説教が始まる。説教後に平謝りに謝られる。むくれ顔の生徒たちからも一応謝罪される。


 そんなこんなで突きつけられた結論は、『帰れない』だった。


 どうやら召喚魔法とやらは一方通行であるらしい。

 こちらの世界から別の世界へ行く方法など存在しないのだという。


(……そして手に入れたのは賠償金と、そこそこ恵まれた魔力だけ、か)


 安宿の軋むベッドに寝っ転がって、男は深くため息をついた。


 召喚特典だかなんだか知らないが、この世界に来た瞬間から魔法が使えるようになっていた。魔力量だけ見れば、エリート魔法学院に入学することだって可能らしい。


 もらった賠償金はとっくの昔に使い果たした。

 ふわふわと頼りない現実感のせいか、持ち慣れない大金を持って調子に乗ったのか、計画性が皆無だったのか。

 その全部かもしれないが、ともかく一年と保たずに男は無一文になってしまった。


 仕方なく、授かった魔力を活かして今は冒険者として生計を立てている。

 ダンジョンから金目のものをかっぱらって売ったり、街道で商人の護衛をしたり、お使い仕事を頼まれたりと、便利屋のように何でもやっている。その日暮らしの生活を始めて、そろそろ六、七年になるだろうか。


(くそう。老後が不安すぎて泣けてくるな)


 それでも眠れば、また朝は来る。

 明日は薬草採取の仕事を請け負っている。街からは離れた場所だから、日が昇る前に起きなくては――……



 ◇



「結局俺って、骨の髄まで日本人なんだよなぁ……」


 真面目に早起きし、真面目に仕事をこなす。


 ()()()に来て一年ほどは、ヤケクソで馬鹿みたいに豪遊してしまったけれど。

 今ではもう、それを忘れたように勤勉な生活を送っていると自負している。


『シローさんは人として誠実だし、お仕事も丁寧ですからね。ギルドとしても安心して任せられます』


 というのは、冒険者ギルドの麗しの受付嬢からいただいた有り難いお言葉である。


 目当ての薬草が採取できる森へと、男は黙々と足を急がせる。

 途中の川で飲水を補充し、ほてった足を浸してしばし休憩。朝飯が早かったせいで小腹がすいたので、固い干し肉をかじりながら歩みを再開。


 干し肉は塩辛く、ぐにぐにと弾力があってなかなか噛み切れなかった。昇った太陽が首筋を焦がしそうなほどに熱く、苛立ちが募っていく。


「なーなー。それおいしーのか?」


 美味いわけないだろ。


 吐き捨てるようにそう答えかけて、ぎょっとして立ち止まる。子どもみたいに甲高い声。今、一体どこから聞こえてきた?


 街道から外れた川沿いには、人っ子ひとりいなかったはず。

 慎重にあたりを見回すが、やはり人影は見当たらない。


「むーっニンゲンのブンザイでムシするなー。なーそれっておいしーの? もらっていーの? くれる? よこす? よこせー」


「カツアゲかよっ!?」


 声を大にして突っ込んだ瞬間、気がついた。


 緩やかな川の上流から、どんぶらこ~どんぶらこ~と何かが流れてくる。

 男は思わず我が目を疑った。


(あれは――? 昔話の、でかい桃……じゃなくって)


 卵の殻だ。


 真っ二つに割れた卵の殻を、幼い子どもがさながら小舟のように乗りこなしている。

 天使の輪ができた艷やかな黒髪に、側頭部から生えた二本の角。小さな手で長い棒を握りしめ、一生懸命に漕いでいる。


(なんだ、あいつ……?)


 唖然として見守るうちに、卵はすいすいと器用に岸に辿り着いた。

 頬をピンクに染めた子どもが、息を切らして卵から降りてくる。卵の殻が傾いて、子どもはべちゃっと顔から着地した。


「ぷぎゅ」


「おっおい! 大丈夫か?」


 慌てて手を差し伸べれば、子どもはじたばたしながら起き上がった。

 差し伸べられた手は無視して、もう片方の手の中にあった干し肉にかぶりつく。


「! あってめ!」


「むー……むぐ? ぐむ? んぺっ」


「だーっ吐くなよもったいねえぇ!!」


 怒る男に、「だってー、これたべものじゃないぃ」と子どもが顔を歪ませた。

 大きな金の瞳が今にも決壊しそうなほど潤んでいて、男の胸がちくりと痛んだ。なぜだか申し訳ないような気持ちになって、子どもから目を背ける。


「……仕方ないだろ。こっちの世界は食事事情が悪いんだ」


「こっちー? こっちってどっち?」


「だからっ! ああもうっ」


 自分にだって説明は難しいのだから聞かないで欲しい。

 乱暴に髪を掻きむしって、荷物から別の食料を探し出した。なかなか歯が立たない堅パンだが、ちびちびかじれば大丈夫だろう……多分。


「ほら、こっち。固いから慎重にかじれよ」


「むーがじっ、かた! ていっ!」


「だーっだから捨てんなっつに!!」


 堅パンは川に向かって投げ飛ばされた。


 頭を抱え込む男に、子どもが「ねーほかには?」と首を傾げてくる。

 男は半眼で子どもを見下ろした。


「もうないって。というかだな、食べ物を粗末に扱っちゃいけないって、親から習わなかったのか?」


「お、や……?」


 子どもは大きな目をまんまるにすると、しょんぼりとうつむいた。


 側頭部から生えた二本の長い角が、子どもに連動するようにへにゃりと折れ曲がる。随分と変わったアクセサリーだな、と男は眉をひそめた。


「いない。おとーさん竜は、こそだてしないから。おかーさん竜は、するんだけど、どっかいっちゃった」


「…………」


 竜?


 絶句して男は立ち尽くす。


(竜? 竜だって……?)


 この世界における『竜』。


 それは人間や魔物の遥か高みにいる上位種だ。

 気が遠くなるほどに長い寿命、膨大な魔力、あらゆる種族の言語を解する知能を持つという。


(確かに、竜は人型も取れると聞いたことはあるが……)


 男は唇を噛み、『自称』竜の子どもを慎重に検分する。

 子どもは宙を舞う蝶々に向かって嬉しそうに手を振っていた。ほのぼのした光景に肩から力が抜けていく。


「……や、絶対違うな。どう見てもただのガキだ、うん」


「なー、おなかへった」


 蝶々には早々に飽きたらしく、子どもが回れ右して戻ってくる。

 男は仕方なくしゃがみ込み、子どもと目線を合わせてやった。


「お前、迷子か? 街まで送ってやりたいのは山々なんだけど、俺は依頼仕事の最中なんだよ」


 子どもは相変わらず不思議そうにしているだけだ。見たところ三、四歳といったところだろうか。


 男は心の中で激しく葛藤する。


(仕事は放棄できない。かといって、迷子の子どもを放っておくわけにもいかない……、よな?)


 街の外、ましてこんな街道を外れた場所では、いつ魔物に遭遇したっておかしくない。

 薬草採取の森に到着するまであともう少し。

 この子どもも一緒に連れて行く他ないだろう。そう結論づけて、男はやれやれと腰を上げた。


「お前、俺の仕事を手伝ってくれるか? 草を根本から引っこ抜くだけの簡単なお仕事なんだけど」


「むー。いやしきニンゲンのブンザイで、いだいなる竜のたすけをこうとはぶれーせんばん」


「めっさ偉そうだなオイ」


 ごっこ遊びに夢中な子どもに苦笑してしまう。

 二本の角の間をぽんと撫で、男は声を低く落とした。


「――聞け、偉大なる竜の子よ。……ここだけの話、俺の仕事を手伝ってくれるなら野イチゴだって発見できるかもしれないぞ?」


「いく」


 途端に子どもがぱっと顔を輝かせる。

 嬉しげにジャンプした瞬間、子どものぶかぶかのローブの裾から何かがはみ出した。ん?と思って目を凝らせば、爬虫類の尻尾に似た何かが忙しなく動いている。


「…………」


「のいちごー! すきー!」


 ばっし。

 ばっし。


 尻尾がリズミカルに地面を打ちつける。

 男の口があんぐりと開いた。


「はやくいこー! あ、たまごもって」


「や、待てお前? うん、つかそもそもこの卵の殻は何だ?」


「むー、これ? われが生まれしときのたまごのカラ」


「お前の一人称は我なんかい」


 ではなくて。


 男は必死で頭を回転させる。

 竜は卵生。確か、以前別の冒険者から聞いた覚えがある。


(待て待て。じゃあもしかして、こいつは本当に……?)


 引きつりながら子どもを見ると、子どもは得意気に卵の殻を振り返った。


「竜のたまごのカラは、とってもじょーぶ。いちにんまえになるまでは、これでみをまもるべし。……て、おかーさん竜のおかーさん竜がゆってた」


「つ、つまりはお前のおばーちゃん竜ってことか。……でもその殻、半分しかないよな? もう半分はどこにあるんだ?」


 子どもが持っているのは真っ二つに割れた卵の半分で、もう片割れは見当たらない。


 男は恐る恐る卵の殻の表面をなぞってみる。硬い手触りだが、ほんのりと温かいような不思議な質感だった。


「もうはんぶんは、おかーさん竜がもってる」


 子どもが胸を張って答える。


「おかーさん竜は、われがうまれてすぐどっかいっちゃった。だからさがす。おぼえてないけど、あえばゼッタイわかる。この……」


 卵の殻の割れ目、ぎざぎざを男に見せつけるように高く掲げてみせた。


「ココがぴったりあえば、それがわれのおかーさんだから!」


「勘合貿易かい」


 本気で頭が痛くなってきた。


 つまりはこの『自称』竜の子は、母を訪ねて三千里をやっているわけだ。どういうわけだ。


(とにかく、街に連れて行ったところで何の解決にもならないってことか……)


 男はその場に崩れ落ちてしまう。

 その瞬間、お腹がグーと鳴った。しかしもう食料は一切ない。すべて竜の子に捨てられてしまったから。


「むー。ニンゲン。われ、はらぺこ」


「奇遇だな、俺もだよ」


 むかむかしながら答えれば、竜の子はどうしてだかにぱっと笑った。男の側に座り込んで、「おんなし」と噛みしめるようにしてつぶやく。


「ニンゲンとわれ、はらぺこ。ニンゲン、まりょくある?」


「魔力? まあ……一応、それなりには。もしかして竜は魔力を食うのか?」


「くうわけないダロー」


 イーッと歯を見せて、子どもは突然もみじのような手を男の額に当てた。驚いて身を起こそうとする男に、人(竜?)が変わったみたいにして厳かに問いかける。


「ニンゲン。おもいだして。そーぞうして。いま、イチバンたべたいものはなに?」


(なに……? 何って、そりゃあ)


 懐かしい故国の食べ物に決まっている。


 米。

 醤油。

 味噌。


 どれもこの世界にないものばかりだ。

 思い出すだけで胸がきゅうっとなるような、切ない感覚に身を焦がされる。


(ああ。だけど今、()()っていうのなら――)


「……おにぎり」


 男はぼそりと呟いた。

 子どもが大きな目を瞬かせる。男はこぶしを振って起き上がった。


「俺はっ! とてつもなくっ! おにぎりがっ食いたいっ!」


「おじぎりー。それ、どんなん?」


 子どもがわくわくと男の服の裾を引っ張ってくる。

 男は笑って、また地面にどっかりと座り込んだ。子どもがすかさず額に手を当ててくる。


「め、つぶって」


「はいはい。……おにぎりってのはなぁ、炊きたての白飯を握っただけのお手軽料理だ。王道の具材は梅干し、昆布におかか、鮭、ツナマヨってとこか。どれもうまいぞマジで」


「ふんふんー」


「だが! 今の俺の気分は断っ然、シンプルな塩むすびだな!」


 ああ、本気でお腹と背中がくっつきそうだ。

 今はもう二度と口にできない料理の味を思い出し、不覚にも男の目に涙が浮かびそうになる。


「できたー! むー、でもしっぱい? なにこれへんなの」


「ちょっと贅沢にいくら、うん、明太子も捨てがたし……」


「ニンゲンー。これ、どうやってたべるの?」


 感傷に浸っていたら、子どもから激しく体を揺すられた。

 嫌々目を開ければ、地面の上に炊飯器があった。男はビシッと凍りつく。


「…………」


「ニンゲン、おきろー。これがどうやってどうすれば、おじぎりになるー?」


「…………」


「たたく? なげる?」


「わーっやめぃっ!!」


 大慌てで子どもを捕獲し、男は恐る恐る炊飯器を見下ろした。

 炊飯器。どこからどう見ても炊飯器。まごうことなき炊飯器。


(しかも、これって……)


 男が日本で一人暮らししていたときに使っていたのと全く同じものだ。傷や汚れの位置すら一致していて、男は震える手を炊飯器に伸ばす。


 大きく深呼吸して、蓋を開いた。


「って空っぽかいっ!!」


 期待した分、落胆が大きい。


 打ちひしがれる男に、子どもが再度手を当ててくる。


「ニンゲンのまりょく、まだじゅーぶん。もういっかいおじぎり、だして」


「ああ、いや。塩は手持ちがあるし、後は米さえあればおにぎりは作れるんだ。今のは、お前の魔法……なんだよな? 米も出せるのか?」


「まかせろー」


 それで男は再度、目を閉じた。

 先ほどはわからなかったが、子どもの触れた額から魔力が吸い取られていく感じがする。そのまま身をゆだね、頭の中で必死に米を想像する。


「でたー! がじっかたっ!」


「食うなっつーに!」


 慌てて子どもから米袋を取り上げる。

 五キロのコシヒカリ……。子どもの歯形がついたビニールの米袋、パッケージにもものすごく見覚えがあった。


「すげえ……。よ、よし。じゃあこれを」


 炊飯器から釜を取り出し、米を計る。ちなみに計量カップもちゃんと炊飯器に付いてきていた。


 川で手早く米を研ぎ、炊飯器にセットする。

 震える手で「炊飯」ボタンを押しかけて、そこでやっと男は気がついた。


「――って、電気がねえじゃねぇかああああっ!!」


 うがーっともだえる男を見て、子どもがこてんと首を傾げる。


「でんきー?」


「あ……っ、えっと、力の源?みたいな。この機械を動かすための動力源?というか」


 しどろもどろで説明すれば、「なーんだ」と子どもは気の抜けた顔で笑う。


「ニンゲンのまりょくでだした。だからこれ、ニンゲンのまりょくでうごく」


「マジかよ!? すげえっ」


 大興奮で、両手で包み込むようにしてコンセントを握り締めた。

 魔力を送り出す、などとイメージをするまでもなく、手のひらから勝手に魔力が吸い出されていく。炊飯ボタンに目をやれば、子どもが飛びつくようにしてボタンを押してくれた。



《ピロリロ~♪》



「……っ」


 音が鳴った。

 ランプが点灯した。

 動き出した……!


「ぅ……っ、や、やっ」


「わああ、なにこれたのしー。きもちー。もっかいおしてい?」


「だああっやめんかーーーーいっ!!」


 やったー!と歓喜の雄叫びを上げるより先に、子どもを止める羽目になる。

 コンセントを片手に持ち替えて、大慌てで子どもの襟首をつかんだ。


「油断も隙もねえな本気でっ。いいからお前はここでじっとしてろ!」


 膝の上に子どもを乗せて、片手でがっちりとホールドする。

 子どもはのけぞるようにして男を見上げると、「わあい」とあどけなく笑った。


「だっこ、だっこ」


「……はいはい。好きなだけくつろいでてくださいよ、竜のお子様。飯が炊けるまで」


 うわの空で言い聞かせながら、動き出した炊飯器をじっと見張る。早炊きモードにすべきだった、と後悔したところで後の祭りである。


(いいや、久方ぶりの白米なんだぞ? 早炊きモードで妥協すべきか? 答えは否ッ!)


「ニンゲンー。おじぎり、はやくたべたい」


 無邪気にねだってくる子どもの声で、男はやっと現実に引き戻された。

 何度も目をしばたたかせ、苦笑する。子どものつやつやの黒髪を優しく撫でた。


「耐えろ。米が炊けるまでは時間がかかるもんなんだ」


「むー」


「待った分だけ、きっとうまいぞ。しかもこの料理は特別なんだ。なんたって俺の故郷のものなんだからな」


 そうして男は、子どもに向けて語り出す。

 遠い男の故郷には、おにぎり以外にも美味なものがたくさんあることを。

 食材も珍しいものばかりで、ここらでは手に入れるのが不可能であることを。


「むー。おいしいの? おじぎり、いがいもいっぱい?」


「そうだぞ。おにぎりとくれば、味噌汁もいいよなぁ。漬物も合うが、子どもには向かないかもな。ははっ」


 このぐらいの、子どもが好みそうなもの。

 男は頬をゆるめ、指折り数え上げていく。


「スパゲッティにハンバーグ、からあげにオムライス。うん、甘口ならカレーライスもいけると思うぞ」


「なーなー、それってどんなん?」


「お、興味津々だな? それじゃあまずは、カレーの説明から――」


 見知らぬ国の料理の話を、子どもは目を輝かせて聞いてくれた。

 それで男も嬉しくなって、ますます熱を込めて説明する。炊飯器も連動するように温かな湯気を吐く。


 楽しい時間は、驚くほどあっという間に過ぎていった。

 やがて炊飯器から「ピーピーピー」と音が鳴った瞬間、男ははっと我に返った。


「た、炊けた……?」


「わーおじぎりー」


 浮足立つ子どもをなだめて膝から降ろし、男は炊飯器横の付属のしゃもじを取り上げる。

 深呼吸して蓋を開ければ、泣きたくなるほど懐かしい香りが辺りに立ち昇った。


 ――もう二度と嗅ぐことはできないと思っていた、炊きたての白飯の香り。


「……ふっ」


「なー、おじぎりはー?」


「……あ、ああ。そうだな」


 無理に笑みを形作り、釜の中にしゃもじを突き立てる。

 粒の立った白米をつぶさないよう注意して、切るようにして混ぜ合わせた。


「で、これを――」


 荷物の中に入っていた大きめの椀を取り、子どもに頼んで川から水を汲んでもらう。その間に自分も川で丁寧に手を清めた。

 水に塩を混ぜ入れ、出来上がった塩水を手に付けてからご飯を取る。


「あちっアチチ!」


 炊きたてのご飯から、手のひらに伝わる熱に胸が高鳴った。

 わくわくと見物する子どもの視線を感じつつ、逸る心をおさえておにぎりを握る。


 力を入れすぎず、やわらかく。

 家や学校で、子ども時代に習った通りに。

 まるで何かの儀式のように厳かに、うやうやしく。


「……完成だ」


 まだほかほかと湯気の立つ、二つのおにぎり。

 子どもの分と、自分の分だ。


 深呼吸して、男はしっかりと手を合わせる。


「……いただきます」


 不思議そうにそれを見ていた子どもが、すぐに男の動作を真似た。不器用に手を合わせ、ぴょこんと勢いよく頭を下げる。


「いただきまーしっ」


「ぷっ」


 笑いを噛み殺し、男は先に子どもにおにぎりをすすめてやる。

 子どもは待ちきれない様子でおにぎりをつかむと、小さな口で豪快にかぶりついた。


 途端に、子どもの目がこぼれんばかりに見開かれる。


「むー。むぅー……?」


「ああほら、慌てるな? 喉に詰めるぞ」


「ふぐ……っまぐっ」


 夢中になって、リスの頬袋のように口にいっぱいにおにぎりをほおばる。

 その瞳はきらきらと輝いていて、顔もピンクに上気していた。美味しいか、などと改めて聞くまでもなく、答えはわかりきっている。


「ふはっ。ニンゲン、おかわりー!」


「はいはい。それじゃあこっちも食べていいぞ。俺の分はまた新しく握るから」


 笑って子どもにおにぎりを譲り、もう一度炊飯器の蓋を開く。

 まぐまぐと一心不乱に食べる子どもを横目に、手早くおにぎりを握った。


 うっとりするほど真っ白なおにぎり。

 ためつすがめつ眺め、やがて男は意を決してかぶりついた。


「……っ……」


 おにぎりは、口の中でほろほろと優しく崩れていく。


 塩のしょっぱさ。

 米の甘み。


 噛めば噛むほどに懐かしい味が口に広がって、気づけば男は涙を流していた。

 泣きながら、食べる。もはやおにぎりを食べているのか涙を食べているのか、自分でもわからなくなってきた。


「ニンゲン……?」


 か細い声が聞こえ、男はぼんやりと子どもを見る。


 その顔が泣き出しそうに歪んでいたから、男は慌てて自分の顔をぬぐった。

 おにぎりを飲み込み、にやっと笑ってみせる。


「悪い、悪い。あまりに、うますぎて……勝手に、涙が出てきたみたいだ」


 嗚咽しながらそう伝えれば、子どもは不思議そうに首を傾げた。


「おいしーと、なくのか?」


「……美味しいと、懐かしいが混ざったからかな。お前も、大人になればわかるさ」


 今度はもう少しだけましに笑えた。

 ちょいちょいと手招きすれば、子どもは飛びつくようにして膝によじ登ってくる。


「ニンゲン、またおかわり~!」


「はいよ、俺もあと十個は食えるぜ!」


 こうして、一人と一匹のおにぎりパーティは続いていく。


 やがてすっかり腹が満たされて、男は「食べ終わったなら、今度はこうするんだぞ」と子どもに教えてやる。子どももすかさず男に(なら)った。



『――ごちそうさまでしたっ!』



 ◇



「あーっもう動けねえ!」


「われもー」


 大の字になり、川辺に二人並んで寝っ転がる。

 お腹だけでなく心もいっぱいに満たされて、この上もなく幸福だった。この風変わりな子どもとの出会いに感謝する。


「……なあ、お前」


「んー?」


「お前の名前は、何ていうんだ?」


 子どもは緩慢に顔を上げる。

 ころころと男の側に転がってきて、胸の上によじ登った。腹ばいになり、にぱっと明るい笑みを浮かべる。


「ニンゲンにだけ、トクベツにおしえてやるー。きいておどろけ、わがなはクローディスティリーアウォーレン・リオングーリディシア・レスティリーアント・ルーディリエン・アーネンベルグ「って長すぎるわーーーーっ!」


 まだまだ続きそうな気配だったが、男はたまらずストップをかけた。


 体を起こした瞬間に、子どもが転がり落ちそうになる。両手で支えてやれば、子どもが不服そうに頬をふくらませた。


「まだあるのにー。げんきでりっぱにそだちますよーに、っておかーさん竜と、おかーさん竜のおかーさん竜がいっぱいつけてくれたのにー」


「竜バージョン寿限無(じゅげむ)寿限無(じゅげむ)かよっ」


 子どもを思う親心は、いずこも同じということか。


 腹の底から笑いがこみ上げて、男は空に向かって大笑した。子どもがますます頬をぷっくりふくらます。


「むーっわらうなしー!」


「ははっ悪かったって。でもさすがに呼ぶには長すぎんだろ? そうだな――……クロ、でいっか」


「……クロ……?」


 ぽかんとする子どもに、男は笑顔で頷きかける。


「クロ、俺はシローっていうんだ。本当は神谷士郎、っていうんだけど、こっちではただのシローだな」


「……シロー」


 噛み締めるようにつぶやくと、子どもも顔をほころばせた。シローシロー、と歌うように何度も繰り返す。


「シロー、みてて!」


 ぱっと立ち上がると、魔法の炊飯器を振り返って両手を振り上げた。

 途端にぽっかりとした闇が出現し、ブラックホールのように炊飯器が吸い込まれていく。


「へっ!?」


 驚愕して立ち尽くす男に、子どもはえっへんと胸を張る。


「これぞ、くうかんしゅーのーまほうなりー。いつでもだせるから、またおじぎりつくって。こんどはうめぼしとか、おかかとか、ツナマヨもたべてみたい」


「お、おう」


「それからね、さっきゆってたオムライスも! からあげもっスパゲッチーも! ぜんぶぜーんぶたべたいっ」


「ぜん、ぶ……?」


 食い意地の張った発言に呆気にとられ、ややあって男は噴き出した。

 興奮してそこら中を飛び跳ねる子どもを捕獲して、空に向かって高く抱き上げる。


「――そうだな、全部食うか! お前のおかーさん竜探し、俺も手伝ってやるよ。その代わりお前の魔法で、二人で美味いものをたらふく食おうな!」


「うんっ。くおーくおー!」


 クロが嬉しそうに笑った。

 シローも笑った。


 空は雲ひとつなく晴れ渡っていて、はち切れんばかりにお腹がいっぱいだ。

 底抜けに明るい笑い声が、天高く吸い込まれていく。


 『美味しい』『楽しい』で満ちた旅の最初の一歩を、一人と一匹は競うようにして踏み出した。

「クロ、のいちごもたべたいー」

「やべっ危うく依頼を忘れるとこだった。でかしたぞ、クロ!」

「クロえらいー。てんさいー」

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