第九話 獣を導く道標
戦わずに守るために、獣へと姿を変える。
今回は、主人公が“囮”として危険に踏み込む決意を描きました。
生きものたちが営みを変え、人の営みがその均衡を崩す──
その流れを読み取り、たったひとりで獣を導こうとする姿を、最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
朝日が山の端から顔を出す。
村は一応の静けさを取り戻していた。昨夜、シャイニックは現れなかった。火や音、光の罠を見て、一時的に退いたのかもしれない。
それでも、村人たちの顔に安堵の色はなかった。疲労と緊張のせいで、皆どこか上の空だった。火の番をしていた若者たちはまぶたを重たそうにしており、家畜を納屋へ避難させていた者たちは、ほとんど仮眠も取れていない。
俺は食事も取らずに村の中心を歩き、村長を探した。見つけたのは、納屋の裏手で火の残り香を見つめている姿だった。
「マルク。昨日の話の続きだが……猟をしていた頃、よく獲れていた獣はなんだった?」
マルクは少し驚いた顔をして、すぐに記憶を探るような表情になった。
「そうだな……このあたりなら、川ネズミ、アナグマ、あとたまにキジ。岩場の近くに来ていた水鳥もよく獲れたな」
「最近は全く見ないんだろう?」
「ああ。鳴き声すらしない」
俺はうなずき、納屋に背を向ける。
「調査に出る。何かあれば戻るが、今日のうちは帰れないかもしれない」
「……気をつけろよ」
そう言ってくれる彼の言葉に、短く返して村を出た。
*
森は朝露と、まだ冷えた空気をまとっていた。
鳥の声は乏しく、獣の足跡も少ない。だが、見逃されがちな小さな痕跡──折れた草、こすられた木の幹、土の湿り──それらを拾いながら、俺は静かに森を進んだ。
やがて、谷沿いに湿った土を見つける。そこに、小さな足跡が重なっていた。
(川ネズミ……いや、もう少し大きいか)
水辺を好む小動物が移動してきている。まだ数は少ないが、ここを新たな生活圏に選び始めている兆しかもしれない。
そのまま奥へと足を進める。陽の当たらない斜面の裏側に、灰黒色の羽が一枚、落ちていた。
(シャイニック……)
周囲を警戒しながら、さらに進むと、木の枝や乾いた草、羽根が集められたような場所にたどり着く。
──寝床。
おそらく、夜間に村へ飛来する際に立ち寄っている場所だ。
羽根の向き、足跡、糞の位置から判断して、まだここに常駐している様子はない。
しかし、完全に棲み処を変えたわけでもないらしい。
(ここが今の“中継地”か)
まだ油断はできない。だが、逆に言えば、追い出せる余地もある。
俺は寝床を遠巻きに確認し、痕跡を記憶に刻む。
そして、獣たちが移動してきた一帯へと向かう。
そこで、俺は確かに見た。
岩の窪みで水を飲む小動物たち。わずかに残る水たまりに集まっていたのは、川ネズミ数匹と、それを狙う小さな肉食獣──イタチだ。
シャイニックにとって十分な餌とは言い難いが、“狩りの手応え”を感じさせるには十分な光景だった。
俺はその場にしゃがみ込み、深く息を吸った。
(ここが、誘導先になる)
狩場の再構築。餌の確保。
そして、俺の“囮”としての出番。
すべては、今夜にかかっている。
陽が傾き始める頃、俺は村に戻ってきた。昼のあいだも村人たちは休むことなく動いていたようで、納屋の補強作業がさらに進んでいた。囲いの中では、家畜たちが警戒するように静かにうずくまっている。
村長のマルクがこちらに気づき、足を止める。
「どうだった?」
「森の奥に、獣たちが集まりつつある場所を見つけた。川ネズミやイタチが水を求めて移動してきている。餌になるだけの気配は、十分にある」
マルクはわずかに目を見開いた。
「シャイニックを、そこへ誘導できると?」
「ああ。狩りの匂いを覚えさせられれば、村を狩場だと認識し直すこともなくなる」
「どうやって、そんな──」
「方法はある。だがそれは、俺にしかできない」
マルクは何か言いかけて、飲み込むように唇を閉じた。
「村の者には、火と光と音を頼るしかない。これまでどおり、夜は注意を怠らずに見張ってくれ。家畜も、囲いの奥へまとめておいたほうがいい」
「……わかった。村は俺が守る。お前は、お前のやり方で動いてくれ」
その言葉にうなずき、俺は納屋の影に足を運ぶ。
風が止み、空が鈍い色に染まり始める。
夜が、再びやってくる。
俺は荷を解き、静かに服を脱いだ。
足元に置いた袋の中には、森で拾った川ネズミの抜け毛。
骨は意味がない。見た目しか擬態できない俺にとって重要なのは、毛の手触り、匂い、質感。
それらを指先でなぞり、肌に記憶させていく。
(今夜は、“俺”ではない)
かすかに息を整え、目を閉じる。
皮膚がわずかに軋むような感覚が、背筋を這った。
(……あとは、獣として動くだけだ)
夜がすっかり落ちた頃、俺はすでに村の外れにいた。
川ネズミの姿を借り、湿った草陰を低く這う。足音は最小限に抑え、風下を選んで移動する。月は雲に隠れ、視界は心許ないが、その分だけ“獣”の感覚が研ぎ澄まされていく。
森の奥に踏み入ると、わずかに空気が変わった。
──気配。
シャイニックが飛来したわけではない。だが、昨夜も今夜も、奴はどこかで空を巡回している。
あの寝床の周囲か。あるいは、すでに村へと近づいているのか。
俺は森で見つけた岩の窪みへと向かう。水場の周囲には、今日確認したとおり、餌となる獣たちの気配がうっすらと残っていた。
(ここで……気づかせる)
ゆっくりと、姿を晒す。
狙いすましたように岩場の水たまりに近づき、音を立てずに前肢を沈めた。
草陰がざわついた。風ではない。
羽ばたきでもない。だが、気配が“上”にある。
(見ている──)
背中に冷たい視線を感じながら、俺は振り返らない。獣としての姿勢のまま、逃げもせず、飲み終えたそぶりで、別の茂みへ歩いていく。
その一連の動きが、ただの“獲物”として認識されることを願って。
(……狩る気を起こさせろ。俺を、ここを、狩場だと思え)
わずかに、風が鳴いた。
第九話、お読みいただきありがとうございました。
擬態という力を使って、ただ生き延びるのではなく、他者を救おうとする。
彼にとって今回の囮作戦は、自分の異質さと向き合いながらも“居場所”を模索する行為でもあります。
いよいよ物語はこの依頼の終盤へ。
知識と観察で積み重ねた作戦が、この夜、成功するのか──
次回、いよいよ終盤。どうか最後まで見届けていただけると嬉しいです。
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引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。