第六話 未知への一歩
リオとして生きる「彼」が、初めて自分の意思で選び取った装備。そして、人の営みに触れる中で感じた、かつて知らなかった温もり。
今回は、そんな“歩き出し”の物語です。剣を振るうことよりも、「どう在るか」を模索する、その第一歩。
新たな一日が、始まります。
革の手袋を引き締め、腰の剣帯をもう一度整える。
選んだのは、地味な灰色のジャケットと、軽量なレザーアーマー。動きを妨げない作りだが、決して見た目に華はない。胸元や肩の装飾も最小限、剣も標準的なショートソード。すばやく抜けて、すばやく収められることを第一に考えた選択だった。
「ほう、ずいぶんと軽装だな。手数より一撃重視だったお前が、そっち路線か?」
装備屋の主人がにやつきながら、俺の背後から声をかけてくる。体格のいい屈強な男で、声もやかましい。
「斥候にでも転職したか? それともアサシン狙いか? ……ま、お前の顔じゃ、夜に紛れても目立ちそうだけどな」
「……動けなきゃ意味がない。剣を振るうつもりは、そもそもないし」
「おいおい、らしくないな。“前の”お前なら、肩当てに金の縁までつけてたろ?」
「……変わったんだ」
思わず口にした言葉に、店主は少し目を細めたが、すぐに鼻を鳴らしてレジの奥に戻っていった。
ショートソードの柄にそっと手を添える。
(リオの記憶がそうしろと言ってくる……けど、まだこの手で“誰かを攻撃するために”武器を取ろうと思ったことはない)
見た目は同じでも、中身は違う。
(この身体は筋肉質な見た目だけど、それは擬態による外見だけのもので、中身は空っぽなんだ)
そう思いながら、俺は静かに装備の重みを確かめた。
装備を受け取り、店を出た。朝の日差しが石畳に眩しく反射している。
通りを少し歩いたところで、小さな広場が目に入った。数人の子どもたちが、ひとつの大きなパンを囲んで座っている。ちぎったパンを互いに手渡しながら、笑い合い、肩を突き合わせていた。
その光景を見た瞬間、足が止まった。
(……俺には、ああいう時間がなかった)
ただそれだけの感想。悲しいとも、羨ましいとも思っていない──はずだった。
けれど、胸の奥にざらついたものが残る。
比べるものがなかったから、気づきもしなかった“欠けていた何か”。今になって初めて、それを“欠けていた”と思えるようになった。
(……リオにも、あんな時間はなかった)
貴族の家に生まれた彼は、同年代の子どもと交わることもなく、厳格な教育と孤独な訓練に明け暮れていた。その記憶が、今この景色と並んだとき、不思議と俺の中で共鳴する。
あの輪の中にあるものを、俺もリオも、一度も持っていなかった。
*
再びギルドの前に戻ってきた。
正面の掲示板には、いくつもの依頼が紙に書かれ、無造作に留められている。護衛、討伐、素材収集、迷子捜索──この町で冒険者に求められる仕事は実に多岐にわたっていた。
(魔王は“人間の世界を探れ”って……言ってた、気がする)
あれは本気だったのか、ただの思いつきだったのか。本人の真意はわからない。
言葉にされた当初は冗談だと思っていた。
それでもこうして“人間の社会”の中に入り込んだ今、俺は確かに情報の断片を手に入れ始めている。
人間は弱いくせに、団結して、笑って、助け合って生きている。そんな彼らの“強さ”の源がどこにあるのか、少しずつわかりかけてきた気がする。
(この町がどういう構造で動いているのか、それを探れる依頼……)
掲示板の前で足を止め、いくつかの紙に目を通す。
「……これは?」
ふと目を留めたのは、“街道沿いの村で頻発する家畜の失踪調査”という地味な依頼だった。
報酬はさほど高くない。危険度も“低”とされている。
けれど──この依頼が何かの“ほころび”を見せてくれるような気がした。
“何者かの仕業か、野生動物によるものか不明。定期的に家畜が消えるも、足跡などが一切残されていない”と記されている。
(……調べてみる価値はあるか)
人間の社会の中で、こういった“小さな異変”がどう扱われるのか。
それを知ることも、“人間の観察”にはきっと役立つ。
俺はその紙を引き抜き、カウンターへと向かった。
*
「もう復帰するの? もっと休んでてもいいのに」
カウンター越しに顔を出したユリーナが、少し眉を寄せる。
「何もしないでいると、余計なことを考えるからな」
「……そう。じゃあ、あまり危ない橋は渡らないでね」
「今回は調査だけだ。念のための装備は整えてある」
「……ふうん、随分と雰囲気も装備も変わったじゃない。“斥候リオさん”って呼んだ方がいいかもね」
茶化すような口ぶりに、俺は少しだけ目を細める。
「……似合ってるか?」
「うん。悪くないわよ」
軽く肩をすくめながらも、ユリーナは手慣れた動きで受付印を押し、書類を差し出した。
「報告書、期待してるわよ。異変の理由、ちゃんと突き止めてきて」
「了解した」
そう答えて、俺は紙を受け取った。
「……あと」
立ち上がりかけたとき、ユリーナがぽつりと呟いた。
「無理してるように見える時もあるけど、誰もそれを責めたりしないわ」
その言葉に、一瞬だけ言葉を失った。
「……そうか」
たったそれだけの返事をして、俺はギルドを後にした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、主人公が“人としての生活”をゆっくりと歩き始める回でした。
装備選びに迷い、人々の優しさに触れ、そしてリオの記憶の中にあった生い立ちとのギャップにも気づいていく。
名もなき存在だった彼が、“選ばれた誰か”としてではなく、自らの足で進み始める――そんな決意が込められた話でした。