第三十六話 名もなき者の還る場所
「……誰かと思えば、見慣れぬ顔だな」
白衣をまとった男が、通路の奥から静かに姿を現した。五十代ほどの年齢。冷たい眼差しと整った口元には、まるで感情の色がなかった。
ミオが無意識に一歩、リオの背後に寄る。
リオは視線をそらさず、ゆっくりと前に出る。
「君が、この施設の責任者か」
「……どうかな。私の肩書きに意味はない。求められることを、求められるだけ、繰り返しているだけだ」
男の声は淡々としていた。その響きには後悔も葛藤もない。まるで人ではない何かのように──。
ミオが眉をひそめた。
「何も感じないの? ここで……人を、こんなふうにしておいて」
「感情が必要なのか? 感情で止められるなら、人はこんなに多く死んでいないはずだ」
リオの表情が、わずかに陰る。
──この口ぶり。
どこかで聞いたような、記憶の底を擦るような響き。
思考の奥で、何かが引っかかる。
あの少年に触れたとき、流れ込んできた記憶の断片。その中にあった、冷たい声──。
「……あの子たちは、生きていたんだ。命を……燃やされていた」
リオの呟きに、男が初めて表情を変えた。
わずかに、笑った。
「燃やされた? 違うな。あれは“再構成”だ。生命の不完全さを、別の形に作り替えただけだ」
「人は、物じゃない」
リオの声は低く、しかしはっきりと響いた。
男はその言葉を受け流すように肩をすくめた。
「ここに運ばれてくる者たちは、すでに“人ではない”と判断された個体だ。そうでなければ、扱いに困る」
その言葉に、ミオが拳を強く握った。
「最低……」
リオが手を上げて制止した。
「語る言葉に意味はない。行動だけが証を残す」
男が白衣の内側から小型の注射器を取り出し、拘束されていた実験体の首元にそれを突き刺す。
「なっ──実験体に!?」
ミオが叫んだ時には、すでに遅かった。
直後、施設の奥で複数の電子ロックが外れるような警報音が響き渡る。
扉の先から現れたのは、見るも無残な姿に変貌した者たちだった。
人の骨格を無理やり引き伸ばし、筋肉の腱が異常に肥大化した異形の生体──かつて人であったとおぼしき姿が、複数体、低いうなり声をあげながら通路を踏み鳴らす。
「変異体……!? どうして、制御室は……!」
ミオの顔が強張る。直後、別の扉を蹴破るようにして現れた変異体が、逃げ遅れた研究員の一人に飛びかかり、瞬く間にその身体を引き裂いた。
悲鳴と血飛沫。怒号と逃走の足音が施設内に反響する。
その混乱の隙を縫うように、白衣の男はすっと踵を返し、非常通路の方へ足早に去っていく。
「逃げる気か……!」
ミオが振り返るも、すでに男の姿は視界の端へと消えかけていた。
一体の変異体が通路を塞ぐように立ちはだかる。リオはその目前へと歩を進めた。
変異体は唸り声を上げながら、鋭利な骨のような腕を振り上げて襲いかかる。
「ッ──!」
リオは回避しながら懐へと飛び込み、その胸元にそっと手を置いた。
──触れた瞬間、記憶が流れ込む。
苦悶、恐怖、叫び。名前を呼ぶ声、家族の面影、壊れた希望。
その断片を抱えながら、リオは瞳を閉じ、まるで子供をあやすように囁いた。
「もう大丈夫。君は、もう……帰っていいんだ」
手のひらから、柔らかな光が滲んだ。
変異体の肉体が波打つように崩れ、徐々に人の姿へと戻っていく。
ミオが息を呑んだ。
「……いまの、何……?」
リオは言葉を返さず、すぐに次の変異体へと向かう。
一体ずつ、丁寧にその魂へと触れていく。
ミオは動かず、その背を見つめていた。
──問いはあった。
彼は何者なのか。どうしてこんなことができるのか。
だが、今はその時ではない。
ミオは静かに、口を閉ざした。
*
その頃──非常通路の出口。
扉を開けた男の前に、鋼の盾が現れた。
「逃がすかよ」
ライネルだった。その背後にはセラの姿もある。
息の上がった男の顔が初めて強張った。
「……なるほど。計算外だ」
「計算だけで動いてる奴は、現実に足元をすくわれるんだよ」
ライネルが盾を叩きつけ、男を押し倒す。次の瞬間には、拘束具がその手首に打ち込まれていた。
*
施設内の暴動は、やがて収束した。
ミオは生き残った研究員や警備員たちを一人ずつ拘束し、ギルドから託されていた通信具を取り出す。
「こちらミオ。研究施設を制圧、責任者の確保完了。被験者の保護も進行中。至急、支援を」
通信の向こうから、すぐに返答があった。
『ローデンのギルドおよびクラヴィス王家直属の部隊が現地に到達済み。即座に合流する』
数分と経たないうちに、重装の戦士たちや黒装束の諜報員たちが崩れた壁面から雪崩れ込んでくる。
彼らは速やかに現場を掌握し、拘束、保護、資料の回収を淡々と進めていった。
誰の指示も待たず、的確に動く姿に、ミオは静かに息をついた。
ふと気づけば、リオはもう、そこにはなかった。




