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この顔が誰のものか君は知らない  作者: 水鷺ケイ
第二章「偽りの残響」
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第三十四話 人であることの痛み

陽が傾きかけた頃、空は鈍色に濁り始めていた。


リオは倉庫街の屋根上、瓦の影に身を伏せたまま、下界をじっと見下ろしていた。


警備の動きが変わった。


倉庫の前に立つ兵の数が増えただけでなく、その配置もより広範囲へと散らされ、かつてないほど厳重な監視体制となっていた。誰かを見張るためではない──何かを守るための布陣だった。


やがて、倉庫の扉が再び開いた。


奥から現れたのは、黒布をかぶせられた長方形の木箱。そして、その後ろには異様な“従者”たち。


だが、リオの視線が止まったのは、その一人がわずかによろけた瞬間だった。


足を滑らせ、箱の端に手をつく──その動きのなかで、わずかに肌が覗いた。


薄く、焼け焦げたような痕。


リオは即座に屋根の縁をつたい、死角へ回り込む。積み荷を降ろす側面通路、その下へ滑り込み、静かに気配を殺す。


やがてその従者が、一瞬だけ単独で外れた。


リオは一歩、影から身を滑らせる。指先が、従者の腕に触れた──その瞬間、ざぶりと波が押し寄せるように、記憶が頭の中へ流れ込んでくる。


──視界が染まる。


熱。


痛み。


喉が裂けるほどの悲鳴。


それでも、声は誰にも届かない。


「……やだ、たすけて……っ」


少年の声。いや、“かつて少年だったもの”の記憶。


名もなく攫われ、番号で呼ばれ、誰にも存在を認められず、殴られ、薬を投与され、何度も「人形になる訓練」をさせられた。


繰り返される人格の崩壊と再構築。


やがて、叫びすら出なくなる。


ただ従うためだけの肉体。


その記憶を、リオはただ、飲み込むしかなかった。


──違う。


これは、ただの怒りではない。


彼らは人間だった。


そして、自分は……


「……俺は……なんだ……」


ふと、胸の奥がきしむ。


自分は人ではない。


けれど、人として扱われている。


だが、彼らは人間であったのに、人として扱われなかった。


どうして──どうしてこんなにも、反転している。


自分に与えられた食事、寝床、名も知らぬ他人の温もり。


それを思い出すたび、どこか胸が痛くなる。


誰かに手を伸ばされたとき、笑いかけられたとき、自分がそれを受け取っていいのかと、ふと迷ってしまう。


記憶の最後。


少年は、改造の前に一度だけ呟いた。


「──母さん、迎えに来て……」


リオの中で、何かが崩れた。


目の前の“それ”は、もう母親にすら気づけない。


名も、心も、すべてを奪われた。


気づけば、拳が震えていた。



その頃、街の外れではミオとセラが、遠巻きに倉庫街の出入口を監視していた。


「……来ないね、例の馬車」


「時間をずらしたのか、それとも、もう別の出口を使ったのかも」


ミオが呟きながら視線を遠くに投げた。その目は真剣で、街の地理を記憶の中で組み替えている。


「迂回路があるって言ってたわよね、あの露天の親父。北門を出て川沿いを進めば、検問も抜けられるって」


「じゃあ、そっちに移動してみる?」


「……ううん、もう少しここにいよう。リオが何か掴んだとき、合流できる位置にいたほうがいい」


セラはそう言いながらも、胸の奥に湧く不安を否定できなかった。


この街は、もう限界だ。誰もが目を逸らしている。誰もが、見て見ぬふりをしている。


「火薬庫って、こういう状態のことを言うのね……」


ぽつりと漏れた言葉に、ミオも無言で頷いた。



その頃、街の中央を横切るように、一台の馬車が静かに走っていた。


車輪の音すら抑え込まれたその馬車は、広場を避けるようにして裏通りへと進路を取っている。外見は質素な商人のものだが、荷台の下部には強化木材が補強され、騎乗者の背には短剣と魔道具が見えた。


騎手は寡黙な男だった。だが、その横に座る少年──否、青年と呼ぶにはあまりに華奢で無垢なその顔が、馬車の陰からちらりと覗いた。


それは、フィルブラム家の嫡男だった。


街の誰もがその存在を知りながら、口に出すことを憚る、名ばかりの貴族の子。


馬車の後方には、数台の無人車両が続いていた。すべて密閉された黒い箱。魔封結界によって内部は完全に遮断されており、監視者でさえ中身を知らされていない。


しかしその列のひとつ、車輪の金属音が一瞬、違うリズムを刻んだ。


それに気づいたのは、屋根の上を跳ぶひとつの影だった。


リオは、荷車の列の動きを上から観察しながら、ひとつの異変を見逃さなかった。


「──あの揺れ、空か」


箱の中身が重ければ、あの反応にはならない。中に“何もない”か、“もう出た”か。


ならば、どこに?


視線を巡らせる。


──影。


屋根の上、ふとした瞬間に消えた気配。


リオは身を低くしたまま、倉庫街の屋根から一気に川沿いの方角へと走り出す。


気配を追う。


追いながら、自身の鼓動が高まっていくのを感じた。


それは怒りではない。


悲しみでも、恐怖でもない。


ただ、止めなければならないという確信。


自分が“ここにいる理由”が、目の前にあるという感覚。


その答えに、近づいている。


──もう、止まれない。


夜の帳が、ゆっくりと街を包み込みはじめていた。



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