第三十三話 黒い紋章の下に
午後一つ時を少し回った頃。
リオは、裏路地から石造りの倉庫街を見渡せる高所に身を潜めていた。街並みはひどく静まり返っており、陽光だけが白く石壁に反射している。けれどその光の裏側には、たしかに濁った気配が広がっていた。
目立たぬように、数時間前から屋根を伝って移動し続け、今は搬出予定と見られる倉庫を正面から俯瞰できる位置に身を置いている。日陰に溶け込むような黒衣装、息遣いさえも抑え、ただ観察に徹する。
門の警備は二重。裏門にあたる搬出用の通路には、護衛らしき人物が三名──そのうち一人は肩に見覚えのある紋章をつけていた。蛇の紋。間違いなく、フィルブラム家の従属兵だ。
「……やっぱり動いたか」
小さく呟くが、誰にも聞かれることはない。
倉庫街は、見慣れたはずの風景の中に、僅かな違和が積み重なっていた。商人風の男たちが、やけに手早く荷を積み、騎士装束の男たちがその背を睨みつけている。笑い声もない。怒鳴り声すらない。人の姿があるのに、音がない。まるで、何かが爆ぜる寸前の静けさだ。
荷車の通行はある。だが中身はすべて目隠しされた箱や樽。ひとつだけ、異様な点がある。見張りの一人が、搬出された箱に対して魔道具をかざしていた。検査ではない、封印だ。中身を見られたくないもの──もしくは、中から出てきてほしくないもの。
箱の形状も気になる。人ひとりがすっぽり入るような、細長い長方形の木箱。しかも複数、同じ寸法で積み上げられていた。偶然ではない、あれは意図的に作られた形状だ。
「……生体搬出」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。だが、その予感は確信に近かった。
さらに視線を這わせると、倉庫の横手──中庭の奥に、ひときわ大きな馬車が停められていた。荷台には黒布がかかっており、車輪には泥よけが巻かれている。
あれが本命か。
脳裏で誰かが警鐘を鳴らす。だが、まだ動くには早い。情報が足りない。箱の中身も、運び先も、付き添う人間の顔ぶれも。
リオは再び体勢を低くし、風に紛れるように呼吸を整えた。
ほんの数秒、風が止んだ。その一瞬に、倉庫の扉がわずかに開く。
──来る。
気配が濃くなる。空気が動く。誰かが、何かが、始まろうとしていた。
街の反対側、裏門から離れた広場の一角。
セラとミオは、さりげない視察者のふりをしながら、行き交う人々の表情を観察していた。
「……異様に目をそらすわね。ここの連中」
セラが小声で呟く。目は笑っているが、口元には緊張がにじむ。
「仕方ないよ。昨日の騒ぎ、あっという間に広まった。誰も言葉にはしないけど、全員何かを知ってる顔だもの」
ミオの視線が、周囲を流れるようになぞる。
この街は今、表面こそ通常の商いが続いているように見せかけているが、地下で沸き立つ火薬庫のようなものだった。誰かが火をつければ、全てが吹き飛ぶ──その予感が、肌の奥を撫でていく。
「上の者、ってのは本当に来るのかしら」
「来るんじゃない? だから今、従業員らしき人たちも妙に神経質なんだと思う」
「それにしても、妙な気配が……」
セラが言いかけたときだった。
馬車の車輪がきしむ音。通りの奥から、ゆっくりと進んでくる一団があった。黒服の護衛を引き連れた、一台の黒塗りの馬車。その扉には、蛇の紋──フィルブラム家の刻印。
「……来たわね」
ミオが小さく、息を呑んだ。
再びリオ視点。
倉庫の扉から現れたのは、フィルブラム家の紋章を胸に掲げた男だった。老練でありながら、動きには無駄がない。指先ひとつで護衛たちを動かし、荷の一つ一つに視線を走らせていく。
「……あれが、取りまとめ役か」
リオは記憶を探る。擬態で得た断片的な記憶──以前にどこかで見た顔だ。貴族の書庫か、ギルドの記録か。名は……出てこない。
男は荷馬車の列を一瞥すると、黒塗りの馬車に向かって軽く頭を下げた。その扉が、ゆっくりと開く。
現れたのは、見目の整った青年だった。
だがその瞳の色、立ち振る舞い、そして背後に立つ二人の異様な従者──すべてが、只者ではないと告げていた。
「……息子か?」
ぞわり、と背中を冷たい感覚が這い上がる。フィルブラム家当主の、あの男の息子。過去の資料で見た顔とも似ている気がする。
青年は笑っていた。場違いなほど穏やかに、整った顔で、周囲の緊張を気にすることもなく。
その笑顔の下に、何があるのか。
リオは無意識に、拳を握っていた。
彼の背後に立っていた従者たちは、一見して人型ではあるものの、その動きには妙な歪みがあった。関節の可動域が広すぎる。まるで骨の構造が異なるような、不気味な“ゆらぎ”。
そして彼らの首筋から覗く、焼き印のような痕。鎖でつながれていた名残──人間として生まれ、人間として扱われることのなかった証。
「あれも……奴隷だったのか」
リオの視線が鋭く細まる。人として生きる機会すら奪われ、改造された何かに成り果てた者たち。その姿に、怒りと同時に、理解しがたい寒気が背筋を這った。
「笑っていられるのも、今のうちだ」
心の中で、誰にも届かぬ言葉が熱を帯びた。




