第三十二話 暴かれし蛇の影
空が白む少し前。まだ夜の帳が下りたままの時間帯に、リオは宿の裏手から戻ってきた。
泥にまみれた衣服。破れた袖口。息は浅く、指先には血と錆の混ざったような鉄の臭いが染みついている。だが、誰にも悟られぬよう足音を押し殺し、通い慣れた廊下を進んでいく。
宿の扉を静かに開け、慎重に軋みを避けながら、部屋の中へ滑り込む。
「……あんた、どこ行ってたの」
声がした。室内のベッドの影から、ミオが顔を出す。髪は乱れたまま、まだ目は半分眠っている。それでも、リオの姿を見るなり、眉をひそめた。
「その顔、死んでるどころじゃない。墓からはい出してきたみたいよ」
「少し……外に出てただけだ」
嘘にならない範囲で言葉を選びながら、リオは洗面台へ向かう。手を洗い、顔を拭いながら、魔道具で傷を最小限に抑える応急処置を施す。
「昨日の通気口か……?」
「……ああ」
短く答えながらも、緊張の糸が切れたせいか、動こうという気力が湧かなかった。リオはそのまま床に座り込んだ。背中を壁に預け、天井を見上げる。
「何があったかは、あとで全部話す。……着替えてきていいか」
ミオは小さく息をつき、ベッドに戻った。
「じゃあ、寝坊は許さないからね。朝になったらちゃんと、みんなに報告するんでしょ」
返事はしなかった。
リオは椅子に腰を下ろし、さっきまで身体を駆け巡っていた緊張と恐怖の残滓が、内側に澱のように沈んでいくのを感じていた。
──この街は、まだ明けていない。
朝日が差し始める頃、リオは着替えを済ませて部屋を出た。
昨日の調査結果を持ち帰ったにもかかわらず、何ひとつ終わっていない感覚だけが胸に残る。泥を落とし、新しい衣服に包まれても、身体の芯にこびりついたあの場所の気配は、簡単には剥がれなかった。
食堂に降りると、すでにセラが席に着いていた。蒸気の立ちのぼる湯の入ったマグを両手で包み込みながら、扉の方へ目をやる。
「……顔色、悪いわよ」
「そうか?」
セラは答えず、湯を一口啜った。
ほどなくして、ライネルとミオも揃う。
テーブルを囲んだ瞬間、場の空気が引き締まった。
「さて。話を聞こうか、リオ」
ライネルが言う。声は柔らかいが、目は冗談を許さない色をしていた。
リオは頷き、懐から数枚の紙片──昨夜地下で写し取った記録や、紋章の図──を取り出し、机に広げる。
「……通気口の奥に隠された、まるで地下工房みたいな施設があった。薬物の調合台や、未完成の魔道具、奴隷の記録。それと──“試作体”って単語が聞こえた」
「試作体?」
とセラ。
「奴隷を……素材にしてる。動物じゃない。人間だ。薬で無理やり強化して、実験して、暴走したものを“失敗”として扱ってた」
言葉にすると、喉の奥に異物が引っかかったような不快感がこみ上げてくる。
「見たわけじゃない。でも……そこにいた連中の話しぶりから察せた」
全員が黙った。
マグを持っていたセラが、ゆっくりと指を離し、湯気だけが細く立ち昇る。
ミオが押し殺すように口を開く。
「気が狂ってる……」
「どれだけ……どれだけの人を、壊してきたのか」
ライネルの声が低く震える。
セラが反応する。
「暴走? 制御できない何か、ってこと……?」
「人の形をしていたかどうかは分からない。でも……もう、ただの人間じゃなかった。
薬で歪められて、動かされて……それでも生きてた。
魔物みたいだった。人を素材にして、無理やり作られた“何か”だ」
ミオは眉をしかめたまま、黙って紋章を見つめていた。
沈黙が落ちる。誰もすぐには言葉を継げなかった。
ミオが先に口を開く。
「頭じゃ理解できても……なんでそんなこと、思いつけるのかが分からない」
「思いついて、実行して、何のためらいもなく続けてきたってことだ」ライネルの声には、はっきりと怒気が滲んでいた。
セラが唇を引き結び、低く吐き捨てるように言った。
「……こんなの、もう人間がやることじゃない」
ライネルが手元の紋章を睨みつけるように見つめる。
「蛇か……これ、見たことがある。貴族筋の家紋に近い。たしか、旧王党派の……」
「デズモンド・フィルブラム」
リオが呟いた名に、テーブルの空気が凍った。
推測なんかじゃない。間違いなく、奴の名だ。
*
数刻が経ち、陽はすでに街を明るく照らしていた。
宿の窓からは、市場通りのざわめきがかすかに届く。だが、それはいつもの喧噪とはどこか違っていた。
セラが報告を持ち帰る。「裏市場が静かすぎる。いつもなら朝から仕入れでざわついてるはずなのに、今日は荷車がほとんど出てない。門の警備も二重に増えてる」
ライネルが頷く。
「俺も見てきた。表向きには“点検”だの“市場整理”だの言ってるが、あきらかに動きが不自然だった。倉庫街の出入りも制限されてる」
「証拠隠滅?」
ミオが眉をひそめる。
「それとも、なにか大きな取引でもあるのかも」
「どっちにしても、昨日の俺の侵入で何かしら動いたのは間違いない」
リオが口を挟む。
しばし沈黙。
「……ただ、それが逃げる準備なのか、何かを動かすための仕込みなのか、はっきりしない」
ライネルが唸る。
「じゃあ、その“大きな動き”に紛れて中を探るってのはどう?」ミオが提案する。「向こうが焦ってるなら、多少のノイズには紛れ込める」
セラが腕を組みながら言う。
「でも動くなら今日が限界。昨日あんたが言ってた“午後三つ時に搬出”って話が本当なら、それまでに確実に動きを掴む必要がある」
リオはしばらく黙ったまま、記録の紙片を見つめていた。
「……行く。今回は通気口は使わない。外から、屋根伝いに監視する。建物の配置から見て、屋上から搬出エリアを見下ろせるはずだ」
「ミオと私は、視察に来るって噂の“上の者”の情報を追うわ」
セラが頷く。
「俺は正面から倉庫を見ておく。必要なら潜り込む」ライネルも言った。
こうして、四人はそれぞれの任務に向けて動き出す。街は明るいのに、何かが明ける気配は、まだどこにもなかった。
次回は7日0時です。




