第三十一話 闇の綻び
まだ月が高く昇っている時刻、リオは宿を抜け出した。
誰にも気取られぬよう音を殺し、昨夜と同じ建物の裏手にある通気口へ身を滑り込ませる。周囲の気配を確かめ、慎重に蓋を閉じると、静寂と薄暗闇だけが支配する世界へと再び足を踏み入れた。
通気口の中は、昨日通った経路を覚えていれば迷うことはない。だが、リオの目的はさらに奥だ。昨夜、扉の向こうに広がる倉庫で帳簿を見つけたが、それだけでは核心に迫れないと判断していた。
「まだ何かが隠されている──そんな気がする」
狭く湿った通路を這うように進み、昨日通らなかった分岐路へと向かう。右か、左か。わずかに流れる空気の匂いと温度の違いから、左手の通路が人の出入りを許していると察し、そちらへ進んだ。
しばらく進むと、通気口の金網越しに薄明かりが見える。
息を殺して覗き込むと、そこには石造りの地下空間──だが倉庫ではない。木製の作業台と大きなガラス器具、幾つもの壺や瓶。奥の壁には拘束器具が見え、その中央には、奇妙な魔法陣のような紋様が床に刻まれていた。
複数の人物が何かを調合し、記録し、魔力を帯びた煙を吸っては顔を歪めている。
「……これは、工房……? いや、実験室か……」
そのとき、さらに奥から獣のような唸り声と、金属のこすれる音が響いてきた。
リオの喉がごくりと鳴る。
この先には、もっと“深い闇”がある。
彼は視線を走らせ、可能な限りその空間の構造と、出入り口の位置を記憶した。逃げ道を確保せぬまま先に進む愚は、かつてのリオならば犯していた。
けれど今の彼は違う。
すべてを、確実に持ち帰るために。
*
通気口の金網に張り付きながら、リオは彼らの会話に耳を澄ませた。
「……次の出荷は明日。東門前の馬車で午後三つ時……上の者が視察に来る。念入りに整えておけ」
「薬の効果は安定してきたが、まだ個体差が大きい。先日の“試作体”も暴走したまま……」
「構わん。あれは王都への見せしめ用だ。連中が逆らえば、どうなるかをな」
ぞっとするような会話に、リオは体の奥で冷たい何かが広がるのを感じた。
魔物を使った人体実験、そして意図的に暴走させる薬物──それらが、ただの裏商売ではないことを物語っていた。
──いや、これはもう『戦争準備』だ。
ふと、魔道具の搬送箱に描かれた紋章に目が留まる。
──蛇の意匠……細長い輪の中に、二匹の蛇が絡み合っている。
その紋章は、かつてローデンで聞いた“貴族の後ろ盾”と酷似していた。
リオは懐のメモ帳にそれを描き写し、証拠の一つとして記録する。
しかしそのとき、不意に指が滑り、通気口の金網が小さく軋んだ。
ピクリと一人が反応し、こちらを見上げる。
「……誰か、いるか?」
リオはすぐに身を引いた──だが、遅い。
足音、叫び声、金属の跳ねる音が連鎖する。何かが動き出す気配。
(完全にバレた……!)
即座に反転、這い戻る。が、後方から“術式起動”の音が聞こえた。通路の一部が、魔法によって焼き固められ塞がれていく。
(囲まれる前に、抜けろ!)
リオは咄嗟に、リスに似た魔物の身体感覚──梁や天井裏を跳ね回る脚さばきと空間把握を呼び起こし、狭い通路を迷いなく駆ける。
通気口を曲がるたびに、かすかな風の流れや金属の匂い、音の反響に耳を澄ましながら進む。換気ルートの配置、非常口の構造、過去に得たあらゆる知識が繋がり合う。
──次の角にある点検口は開く。金属の格子は片側だけ錆びていた。
一気に肩から突っ込み、鉄をへし曲げて身を滑り込ませる。だが、背後にはすでに追手の影。
(逃げ切れない。なら──)
通気口の中で、死角となる暗がりへ身を潜める。音を殺し、動きを止め、呼吸すら沈めて気配を絶つ。
敵が通り過ぎる──瞬間、反対側のルートへと滑り出る。
(まだ、いける……!)
そのまま、黒豹のようなモンスター《ノクティス・マウル》の突進感覚──そのしなやかな肢体の記憶を呼び起こし、一瞬に力を集中させて爆発的な速度を引き出す。骨の軋む感覚すら無視し、通路を裂くように突き進む。
ようやく、外気が流れ込む区画に到達。
が、出口の格子は鍵がかかっている。
(……間に合わない。ナイフじゃ無理だ)
リオは《バルモルグ》の腐食スキルを使って、格子の錠を突き破る。指先から滲ませた液が金属を蝕み、じわりと軋む音が響く。
「……溶けろ」
ジュッ、と鈍い音と共に錠前が黒く変色し、わずかに軋む。
(もう一度──)
再び液を染み込ませ、腐食の進行を促す。鉄の表面に亀裂が入り、最後の粘着を拳で叩き落とすようにして──
格子が外れた。
夜の外気。月の光。
リオは転がるように通気口から飛び出し、地面に伏す。
呼吸を整える間もなく、そのまま泥にまみれた姿で物陰へと転がり込む。
心臓はまだ早鐘のように鳴り響いていたが、任務は果たした。
──すべてを、持ち帰った。
その情報が、明日の行動を変える。




