第二十六話 火種を抱いて
宿に戻ったのは、すっかり夜が更けた頃だった。
部屋に入ると、誰からともなく深いため息が漏れる。
「……ああいうのを見た後じゃ、まともに寝られそうにねえな」
ライネルがベッドに身体を投げ出し、枕に顔を埋める。
「でも、ちゃんと休まなきゃ。明日からが本番よ」
セラが冷静に言いながら、手慣れた動作で窓のカーテンを引いた。
ミオは無言で水差しからコップに水を注ぎ、一口飲んでから、テーブルの上に静かに置いた。
リオは椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
「“知らなければ平和”で済んだことかもしれない。でも……見てしまった以上は、もう戻れないな」
「見ただけじゃ終われないしね」
ミオが低く応じた。
「あの子たちを、見殺しにしたくない」
短く頷いたリオの目に、静かな決意が灯る。
「明日、動こう。準備は、今夜のうちに」
セラは手帳を開き、倉庫街の配置を手早くメモしながら小さく言った。
「必要な情報は整理しておく。下調べは、明日の動きに直結するから」
ライネルは黙って寝台に横たわり、天井を見上げたまま拳を握る。
「……何があっても、俺はもう目を背けない。あんなの、もう二度と見たくねえ」
ミオは自分のバッグから手製のポーションを取り出して、簡易ながら丁寧な手つきで調合を始める。
「念のためにいくつか作っておく。小さな備えが命を救うこともあるから」
セラもまた、手帳に加えて過去の取引記録や運搬情報を一つひとつ確認し、表計算のように整理していた。
「貨物の出入り時間、便名、倉庫の位置……矛盾点を拾えば、隠れてるものが浮かび上がるかもしれない」
静かな光景の中で、それぞれが黙々と手を動かす。誰もが今日見た現実と向き合っていた。
部屋の空気は重く、静けさの中に緊張と連帯感が漂っている。
リオはふと、仲間たちの横顔を見渡し、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
──誰かの命を救いたい。そう思える者たちが、ここにいる。
やがてそれぞれの手が止まり、誰ともなく布団へと身を預ける。
その夜は深く、重く、それでも静かに更けていった。
翌朝。ヴァルモスの空はどこか煤けたように曇っていた。
宿の一室。リオは薄く開けた窓から街の通りを見下ろしていた。
昨夜の出来事が、まるで重石のように胸にのしかかっている。
「……連邦の連中が、この街に入り込んでる。しかも、ただの密売じゃない」
背後で物音がして、ミオが控えめに入ってきた。
「みんな、集まってます。朝食を済ませたら……作戦会議を」
リオは小さく頷き、窓を閉めて部屋を出た。
階下の共用スペースでは、ライネルとセラが簡易な地図を広げて待っていた。
「例の場所、昨夜のうちに二度ほど荷が運ばれてたらしい。情報屋が確認したそうだ」
セラが指差すのは、倉庫街の裏手に位置する古びた建物。
「ただの商業施設に偽装してるが、内部で“人の選別”が行われてる。次の出荷に備えてるんだろうな」
「……あのままにしておくわけにはいかないな」
リオの声は静かだったが、芯のある響きを含んでいた。
「カイル殿の部下とも情報を共有しつつ、今日は私たちで調査を分担しましょう」
セラが提案する。
「リオは目立ちすぎるかもしれないから、今日は一旦控えに回って」
「了解。俺は宿で情報整理をしておく。急ぎの連絡があれば、戻ってくる」
リオはそう言って頷いた。
ミオは懐から小さな紙束を取り出した。
「情報屋から届いた追加情報。昨夜の便で街を出た馬車が一台、輸送記録と一致しないらしい。行き先は……不明」
ライネルは拳を握りしめた。
「……もう時間がないのかもな」
「焦らず、でも立ち止まらずに」
リオが言い、皆が頷いた。
その日の午後、セラ、ライネル、ミオは三手に分かれて倉庫街周辺の調査に出かけた。
セラは倉庫街の裏手にある物資集積所に潜り込み、労働者に紛れて配置と物流の動きを観察する。気になる運搬経路を記録し、積荷の出所や頻度に不自然な偏りを見つけ、貨物ラベルを細かく控えた。さらに商会の名義を照合し、帳簿の改ざん疑惑にも目を光らせる。
ライネルは街道沿いの荷馬車拠点へ向かい、運び屋を装って運搬ルートや積荷の特徴を聞き出す。雑談の中から、特定の時間帯にだけ出入りする“長距離便”の存在や、顔を伏せた乗客の情報を得る。馬の蹄鉄や車輪の跡など、物理的な痕跡も注意深く観察した。
ミオは市場周辺で情報屋や旅商人に声をかけ、人の動きや警備体制の変化を調べる。流通が制限されている地区の情報を収集し、商人たちが避ける特定の建物の存在を掴む。さらに、裏通りで見かけた男の左腕に、先日監禁施設で逮捕された男たちと同じ意匠の刺青を見つける──それは、火事に見せかけて処理された一件で捕らえられた連中が身につけていた紋様と酷似していた。男の顔は見覚えがないが、何かの繋がりがあると確信したミオは、尾行はせず、代わりに刺青の図柄を詳細に記憶に焼き付けた。
一つひとつの手がかりが、少しずつ全体像を形づくろうとしていた。




