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この顔が誰のものか君は知らない  作者: 水鷺ケイ
第一章:もう返せなくなった”顔”
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第十話 名もなき導き手

人は皆、目に見えるものだけを“手柄”と呼ぶ。


今回は、何も倒さず、名も残さず、それでも誰かを守る者の話です。


誰にも知られずに、ただ一つの村の未来を少しだけ変える──

そんな選択の先に、灯るものがあればと願っています。

風が止み、空が鈍い色を帯びていく。夜が再び、村と森を包もうとしていた。


俺は川ネズミの姿のまま、森の奥へと踏み込んでいく。湿った土、ほのかに残る獣の匂い。今夜も水場のまわりには、小さな命の気配があった。

そのなかに紛れるようにして、俺は水を啜る。視線を感じる。振り向かず、怯えもせず、ただ一匹の“獲物”として振る舞う。


気配が動く。──上空からの、熱。

シャイニック。


すぐに襲ってはこなかった。だが確かに、俺を見ていた。じっと、慎重に、狩るべきかを見極めている。

俺は音を立てず、水辺を離れ、茂みに消える。あとは奴の判断に委ねるしかない。ここを“狩場”と記憶するかどうか。


 ──夜が明けるまで、答えは出ない。



翌朝、村に被害はなかった。囲いの家畜も無事で、夜の間に何者かが侵入した痕跡も見られない。

それでも俺は、念のため森へ足を運んだ。水場のそばには、昨日にはなかった新たな羽根と、わずかな爪痕。


(……来たな)


狙ったわけではなく、様子を見に来た。けれど、それだけで十分だ。あの夜の記憶が、奴の中に残った証。

獣たちの気配も増えていた。川ネズミの数が少し増え、イタチの鳴き声が奥から聞こえる。小さな生態が、この場所に根付き始めている。


俺は、ゆっくりと森を後にした。



村へ戻ると、目に入ったのはマルクだけではなかった。

囲いの補強をしていた村人たちが作業の手を止め、こちらに目を向けている。その視線には安堵と……少しの疑念が混じっていた。


「本当に……これで終わったのか?」「魔物を倒したわけじゃないんだろ?」「見たってだけで、そんな簡単に──」


その言葉に、俺は静かに応じた。


「討伐したとなれば、ギルドに報告される。当然だ。だが、依頼の内容は“調査”だ。もし討伐したと嘘をつけば、虚偽の依頼として村の立場が危うくなる」


ざわついていた空気が一瞬、凍りついたように静まり返る。


「だからこそ、倒さずに“いなくなった”ことに意味がある。今なら正当な依頼として処理されるし、誰も不正を問うことはない」


俺の言葉に、村人たちは顔を見合わせ、小さく頷き始めた。


俺は少し間を置いて、静かに続ける。


「そもそも、俺ひとりで倒せるような魔物じゃない。討伐に踏み切るなら、ギルドを通じて複数の冒険者を動員する必要がある。援軍を呼ぶとなれば、依頼額は金貨数十枚。……それが払えないから、“調査”という体裁にしたんだろ?」


その場にいた数人が、バツの悪そうな顔で目を伏せた。


「だったら、“調査で済んだ”という事実こそが、村にとっていちばん都合がいい」


誰かがそう呟きかけたところで、マルクが一歩前に出た。


「……戻ったか」


俺はうなずき、簡潔に答えた。


「異変はなかった。奴は、もう村を狩場と見なさないはずだ」


村人たちの間にざわめきが走る。

それを受け止めるように、マルクが口を開いた。


「……本当に、不思議なやり方だったよ。だが、確かに何かが変わった。そんな気がしてる」


俺はわずかにうなずいた。


「俺は調査しに来ただけだ。討伐でも護衛でもない。ただ、見立てとしては──これで一区切りついたと思う」


マルクは何も言わず、ただ頷いた。その顔には、さっきまでの村人たちの不安を和らげる何かが宿っていた。

それから一拍置いて、俺の目をまっすぐに見据えて言った。


「……あんたは、俺たちの事情を理解したうえで、最善の形を選んでくれたんだな」


それは問いではなく、確信だった。


「しばらくは警戒を怠らない方がいい。もしまた、何か異変があれば、ギルドに依頼を出せばいい」


「……わかった。そうさせてもらう」


周囲の村人たちのざわめきも、いつの間にか静まっていた。

言葉よりも、確かに何かが伝わったのだろう。

言葉はそれだけだったが、その表情には確かな感謝と、決意のようなものが滲んでいた。


少し間を置いて、マルクがふと思い出したように言った。


「そうだ。もしよかったら、今夜、納屋の裏で囲んでいる鍋に来ないか? 礼を言いたい村人もいる。大したもんじゃないが……温かい食事くらいは出せる」


俺はほんのわずかに視線を落とし、首を横に振った。


「気持ちだけで十分だ。食糧の余裕があるわけでもないだろう。そんなものは、子どもたちにでも食わせてやってくれ」


マルクは一瞬驚いたように目を見開き、それからゆっくりと笑みを浮かべた。


「……あんたってやつは、本当に……」


それ以上は言わなかった。ただ、静かに俺の肩を叩いた。その手には、確かな感謝が込められていた。



街へ戻ったあと、ギルドの報告を終えた俺は、依頼掲示板の前で次の紙を眺めていた。

その肩越しに、気配が近づく。


「戻ったのね。おつかれさま」


振り返らずに返す。


「問題はない。村も、しばらくは安定するだろう」


受付嬢──ユリーナの声には、冗談めいた響きと、ほんのわずかな探るような色が混じっていた。


「久しぶりの一人任務は、どうだった?」


ほんの軽口のように聞こえたが、その実、以前の“リオ”の印象をなぞっただけの何気ない問いだった。


「問題ない。慣れている」


淡々と返す俺に、ユリーナは少し口をすぼめたあと、肩をすくめて笑った。


「ふふ。まあ、何にせよ、お疲れさまって言いたかっただけよ」


そう言ってユリーナは俺の隣に立ち、ちらりと掲示板を見やった。


「ちゃんと食べて、寝て、少しは人らしくしてなさいよ」


「検討はする」


そう返すと、ユリーナは呆れたように笑いながらも、小さくうなずいた。


「……まあ、無事で何より」



後日、ギルドに提出した報告書にはこう記した。

『原因不明の生態異変によって家畜被害が発生。対象はすでに移動した可能性が高く、現在の危険度は低下傾向にある』


討伐ではなく、異常の収束として処理される。依頼内容と実際のリスクの乖離についても、特段追及はなかった。


数週間後、ギルドに届いた簡素な報告文の写しには、こう記されていた。


『水源の見直しにより、綿花の栽培を段階的に縮小。生態系への配慮を前提とした農業への転換を検討中』


『かつての姿には戻れずとも、本来あるべき形に近づける努力を始めました』


 ──それでいい。



第十話「名もなき導き手」、お読みいただきありがとうございました。


目立つ戦いも、称賛もない。ただ知恵と観察で脅威を逸らし、

村の誰にも知られないまま去っていく。


本来なら語られることもない“裏側の手柄”。

そんな立場だからこそ、届けられた感謝の言葉や小さな変化は、何よりの報いなのかもしれません。


次話からは、新たな依頼へと向かいます。


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