第一話 はじめての顔
最弱のモンスターに生まれた“俺”は、ただ化けて、隠れて、生き延びてきた。
だが、初めて人間に化けた日──それは、俺の正体が“誰か”になった日だった。
俺には名前がない。
誰にも与えられなかったし、必要もなかった。
だって俺は、“最弱のモンスター”だからだ。
牙も爪もない。魔力もない。
ただひとつ──“化ける”という能力だけを持って、生まれた。
それに加えて、触れた相手の記憶を読み取り、知識や経験の断片を自分の中に取り込むことができた。
この力だけを頼りに、俺は捕食者から逃れ、罠を避け、生き延びてきた。
俺は今まで、鳥に化け、虫に化け、死骸にすら化けて、ただ生き延びてきた。
(名前なんて、贅沢なものだ。俺は影。声もない存在だ)
だけど、あの日。
俺は初めて“人間”に化けた。
きっかけは、くだらない冗談だった。
「お前、スパイとか向いてんじゃね?」
そう笑いながら言ったのは魔王だった。
魔界の主。名も、種族も、誰も知らない。
ただ、暇を持て余した絶対的王者は、娯楽に飢えており、どこか面白い奴はいないかと度々下界を観察しては、半ば強制的に招喚し玩具にしている。
そして、冗談めいた言葉は逆らえない命令になるような、そういう存在。
逃げ回った先が魔王が”上”から観察している場所だったのが俺の運の尽きだった。
玉座の周りに立っている側近らしきモンスター達が憐れみの目でこちらを向いている。
(……終わった。ここで俺は弄ばれて死ぬんだ)
そう諦めていたが、思っていた展開とは違った。
どうやら魔王は、俺が色んな擬態、取り込んだ知識や特性を使いながら、逃げ回っている様子をずっと観ていたらしい。
それを活かして人間界でスパイ的なことやってこいと言ってるようだ。
魔界と人間界が敵対してるとは聞いたことがないが、弱者の俺が口答えするわけもなく、とりあえず黙って人間界に行けば生き存えれると即断し、大人しく従うことにした。
*
そして──今、俺はこの姿になっている。
人間の男、名はリオ。──これは偽名だ。
本名はレオンハルト・ヴァン・エルトール。貴族家の出であり家名を持つが、冒険者としての彼はリオとだけ名乗っていた。平民には家名を持つ慣習がなく、それを隠すことで素性を知られずに過ごしていたのだ。
(これが、初めての”人間の体”……重い……息がしづらい……)
リオはもう、死んでいる。
彼の遺体はまだそこにあった。
初めて人間に化けた俺は、全裸だった。
それに気づいた瞬間、無性に焦った。
まず俺がやったのは、服をもぎ取ることだった。
泥と血にまみれた外套を引き剥がし、その下の服も、ちぎれるままに引きずり出す。
そのとき、ポケットの奥から何かが転がるような音がした。
足元でキラリと光るものがあった気がしたが、そんなことよりもセリナが目覚める前に服を着ることの方がはるかに重要だった。
(後で拾えばいい……いや、どうでもいい)
俺はそれ以上、視線を落とすことなく服に集中した。
だがセリナが目覚める前に、それを彼女の目の届かない場所へと引きずって運んだ。
ただの本能だった。
人間の死をそのままにしておくのは良くない──そんな記憶が、リオから流れ込んできた気がした。
意味なんて深くは考えていない。ただ“そうすべきだ”と感じたから、そうしただけだ。
焼け焦げた荷台の影、崩れかけた幌の奥、物陰の深い場所に隠す。
服の破れも顔の損傷もあったおかげで、間近で見比べられなければ気づかれることはない。
少なくとも、気絶から目覚めたばかりの姫の目には、違和感なく映るはずだと判断した。
焦げた外套、破れた鎧、そして静かに閉じられたまぶた。
俺がその姿を擬態しても、彼の身体が消えるわけじゃない。
裸のまま遺されたリオの遺体には、せめてもの詫びとして、焼けた外套をかけてやった。
全てを奪っておいて、そのまま晒すのは後ろめたかった。
それに……そうしておけば、余計な目にも触れにくい。
俺の力はあくまで“形を借りる”もの。
生死を問わず、触れた対象を喰らうような力ではない。
だからこそ、俺は知性のある生き物には、死んだモノにしか化けない。
生きている誰かに化ければ、その存在が二重に生きることになり、歩んでいた人生を壊してしまうかもしれない。
俺は、誰かの人生を奪いたくない。ただ、生き延びたいだけだった。
この森で。少女を庇い、剣を振るい、そして倒れた。
遺体のそばには、血の滴る剣と、折れた紋章の飾りが落ちていた。
馬車の残骸は無残に焼け焦げ、火薬の残り香と魔物の腐臭が混ざり合っていた。
辺りには、鮮やかな赤紫の粉塵が広がっている。
それは微かに甘い香りを漂わせ、吸い込むとなにやら頭がふわふわしてくる。
記憶が正しければ、あれを使うのは南方に生息する群棲型の魔獣──『デスモールド』。
この粉塵はデスモールドの鱗粉で、致死性はないが幻覚作用があり、吸い込みすぎると吐き気を催す。
その場に死体は残っていなかったが、奴らの腐敗臭と、ひび割れた地面の踏み痕が残っている。
あの鱗粉の影響なら、セリナが見たものが曖昧になるのも、十分に説明がつく。
幌に隠された籠からは、砕けた薬瓶や焦げた書簡がこぼれている。
誰かが、意図的にこの馬車を狙った──そう思わせるには十分な痕跡だった。
(……信じられなかった。あんな奴が、死ぬまで誰かを守ろうとするなんて)
でも、事実だった。
彼は、少女を守るために、確かに騎士だった。
記憶が流れ込んできた瞬間、俺の中に火の粉のようなものが弾けた。
リオの目線、剣を振るう重さ、膝を折る感触──そして、あの少女の声。
「リオ、お願い。逃げて……」
それに応えるように、彼は前に出た。誰かのために。
(だったら……せめて俺が、やるべきじゃないか?)
そう思った瞬間だった。
少女──姫が、うっすらと目を開いた。
(……早い。まだ気絶しててくれよ)
「……リオ……?」
その言葉を聞いたとき、俺の中で何かがはじけた。
(違う。俺はリオじゃない。お前が知ってるあいつじゃない。
でも……今は、そうするしかない)
俺は、“この顔”の声で答えた。
「ご無事で何よりです、姫」
喉が震えた。声帯の使い方すらまだ馴染んでいないのに、口が自然に動いていた。
(……喋れた。俺、喋れたのか……?)
姫──セリナ・ルシア・クラヴィス。
名門クラヴィス公家の第一王女である。
その瞳が、じっと俺を見つめている。
なぜかまっすぐ見られると、胸が苦しくなる。
(頼む、思い出すな。あの時、リオがどんな風に倒れたかなんて──)
「……あの時……あなたは、私の前で……」
「おそらく、幻覚か何かでしょう。鱗粉の影響で、混濁していたのだと思われます」
即座に嘘が口をついた。
リオの記憶と、俺自身の癖。その境界線が曖昧になっていく。
「……そう、よね……幻覚……」
セリナは、俺の言葉を信じた。
信じるしかなかったのかもしれない。
(そうだ、騙せ。全部うまくいく。そうじゃなきゃ、俺は──)
「立てますか?姫。ここは安全ではありません」
「……はい」
彼女が俺の手を取った。
その手が、あまりにも、温かかった。
(……この手を、あいつは守ったんだ)
(じゃあ、俺は──何のつもりで、これを握ってる?)
二人の影が、ゆっくりと立ち上がる。
森のざわめきがまだ残るなか、空にかすかな朝日が差し込み始めていた。
風は冷たいが、彼女の手は、信じられないほど温かくて柔らかかった。
(守るとか、助けるとか……そんなつもりじゃなかった。俺はただ、巻き込まれただけだ)
そう言い訳しながらも、俺の足は彼女の隣で動いた。
この”顔”を被ったまま、どこまで歩けるかはわからない。
けれど、今はまだ、剥がれるわけにはいかなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
最弱のモンスターが“誰か”になりすます物語、静かに始まりました。
この作品は、僕にとっての処女作です。
初めての挑戦になりますが、如何でしたでしょうか?
物語が少しでも皆さまの心に残れば幸いです。
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