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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【一部実話】9月にダウンジャケットを着る奇妙な女の話

作者: 浅井明子

それは9月のことでした。


まだ残暑が厳しい季節だというのに、『美樹』さんはダウンジャケットを着て職場に現れたそうです。


その時に美樹さんは、さかんにこう言いました。


「寒い……。寒い……」


冷房が利きすぎている訳でも無いのに、美樹さんが寒がっているのを周囲の人々は不思議に感じました。


風邪を引いたのだろうか?


何かの病気になったのではないか?


皆は口々に言い、美樹さんを心配したのですが、その真相は予想を遥か超えるものでした。


実は美樹さんは、たった数時間前にとんでもないことをしていたのです……。




私がその話を聞いたのは、職場の先輩からでした。


「うちの妹の職場で、大変なことがあったんだよ」


ある日、先輩の妹である『香織』さんは、同僚の美樹さんから悩みを打ち明けられたそうです。


美樹さんは真面目な性格でいつも一生懸命に仕事に取り組み、勤務態度にまったく問題はありませんでした。


ただ、大人しく内向的な性格のためか、周囲の人と笑って話すことは少なかったそうです。


そんな美樹さんは、ここ最近になると目の下にクマを作り、やつれた顔で出勤するようになりました。

それを心配した香織さんは声を掛けました。


「なんか具合悪そうだけど、大丈夫?」


香織さんの優しい一言により心のダムが決壊したのか、美樹さんは溜まった物を吐き出すように話し始めました。


「疲れが限界なのに睡眠時間が充分に取れなくて、体調がすごく悪いんです」


「悩み事でもあるの?」


「残業で疲れきって、家に帰ろうとするじゃないですか。すると、そういう時に限って電話が掛かってくるんです。『秀子』という女から……」


なんでも美樹さんが自動車の運転免許を持っているのをいいことに、秀子さんにタクシー代わりにされているのだそうです。


東京に住んでいる美樹さんに対して、秀子さんはこんな要求をしました。


「今から静岡にいる知り合いに会いに行くから、車で送って!」


美樹さんは「明日も仕事で朝が早いから……」と一度は断りましたが、秀子さんは引き下がりません。


二人は学生時代からの付き合いでしたが、いつでも秀子さんが優位な立場にいました。


周囲から見てその関係は友情とは程遠く、いじめに近いものであったようです。


それでもなぜか秀子さんに逆らえない美樹さんは、最後にはいつも秀子さんのワガママに折れていました。


今回も例に漏れず、美樹さんは残業後のクタクタになった身体で、東京から静岡間を往復したということでした。


「今朝も、静岡からここに直行したんです」


それを聞いた香織さんは驚きました。


「ええっ! それじゃあ寝てないんじゃない?」


「寝ましたよ。サービスエリアの駐車場で、仮眠を取りました」


「そんなの寝てないのと一緒じゃん……。なんでそうまでして秀子って人の言うこと聞くの?」


「自分でもわからないんですけど、昔から秀子には逆らえなくて……」


「昔から?」


話を聞くに、どうやら秀子さんは美樹さんを洗脳していたようなのです。


友達が少なく、近くに頼れる親族もいなかった美樹さんは、常に孤独を感じていました。


その時にいつも側に居てくれたのが、秀子さんだったとのこと。


秀子さんは美樹さんの話をよく聞いてくれて、頼もしい言葉を沢山くれたそうです。


判断力が弱く内向的な性格の美樹さんの目には、何に対してもズバッと言い切る秀子さんは魅力的に映りました。


美樹さんの相談内容は多岐に亘り、時には恋愛相談をすることもありました。


「実は、高校のクラスメイトの『田上』くんのこと今でも好きなんだ……」


「田上ならちょくちょく会うよ。今度三人で食事しようか?」


「本当!? ありがとう、秀子ちゃん!」


秀子さんの回答はどれも直接的な解決には至らないものの、美樹さんの悩みに応えてくれるものばかりでした。


それに加えて秀子さんは、頻繁に美樹さんを飲みに誘ってくれたそうです。


美樹さんに支払いをさせることがほとんどのようでしたが、飲み友達のいない美樹さんにとって嬉しいお誘いでした。


こうして秀子さんはジワジワと美樹さんの心を侵食し、都合のいい子分として扱うようになったのです。


こういった経緯ですので、東京から静岡間を往復するというのも、秀子さんにとっては軽い気持ちで美樹さんをレジャーに誘ったようなものでした。


秀子さんが美樹さんから奪ったものは、時間と体力だけではありませんでした。


ブランド品が大好きな秀子さんは金遣いが荒く、貯金とは無縁な生活を過ごしていました。


そうしてお金が足りなくなると、いつも美樹さんの所へ来るのです。


「お金貸してくれない? 来月の給料日には返すから」


秀子さんに逆らえない美樹さんは、頼まれるといつもお金を貸していました。


それを返して貰えることの方が珍しかったようです。


返せない事情があるのだろうと思っていたら、そうでもなく……。


秀子さんは借金していながらにして、高級ブランド品を身に着けていたそうです。


それを事もあろうか美樹さんに見せびらかし、一向にお金を返す気配は無かったのだとか。


「そんな人とは縁を切った方がいいよ」


香織さんはそう勧めましたが、美樹さんは「自分でもそう思うんですが、まだお金を返してもらってないし……」と曖昧な返事を繰り返すばかりで、結局その話は終わってしまいました。


後にわかったことなのですが、この時美樹さんは鬱病で通院していたそうです。


だから、簡単には人間関係を断つという結論を出せなかったのかもしれません。


それから一ヶ月経った頃でしょうか。


度重なるタクシー扱いで生活リズムを乱された上に、財産まで危険に脅かされている美樹さんに、とうとう我慢の限界がきました。


秀子さんの家まで行った美樹さんは、こう言いました。


「もう呼び出すのはやめて! 車は出せない! お金も貸さない!」


美樹さんが勇気を振り絞って放った一言でしたが、秀子さんはケロッとした様子。


それくらいでは引き下がりませんでした。


「どうしてそんなこと言うの? 今まで二人で遊びに行ったり、楽しくやってきたのに」


「ちっとも楽しくなんかない! 私のお金、いつになったら返してくれるの?!」


「返さないなんて言ってないでしょ? もう少し待ってよ」


「いつまで待てばいいの? お金を貸してからどれくらい経ったと思ってんの? 一年だよ、一年!! しかも友達の結婚式が有るとか言って、この前もまた貸したよね? 私の借金よりも友達の結婚式が優先なの? このまま一生返さない気でしょ!?」


さすがの秀子さんも、立て続けに責められたとあっては黙っていられませんでした。


「さっきから黙って聞いてれば、あんた何様なの?」


「何様って……」


「いい加減気づかない? 私がどんだけ我慢してるかってこと!」


「秀子ちゃんが何を我慢してるっていうの?」


「あんたみたいに話がつまんなくてブスな女、私の他に誰が相手にしてくれるの? 服もいっつもおんなじの着てるし、ダサすぎて隣りを歩くの恥ずかしかったんだからね!」


気にしていたことを数々に羅列され、傷ついた美樹さんは黙り込んでしまいました。


そんな美樹さんに追い討ちをかけるように、秀子さんは言いました。


「あとさ、あんたに言ってなかったけど……。私、田上と寝たの」


「田上って、まさか……! 私が好きな、あの田上くん?」


「他に誰がいるのよ。あんたと田上と私の三人で食事したでしょ? あの後、田上とホテルに行ったの」


美樹さんの頭の中は真っ白になりました。


恋愛相談をした、あの日。


秀子さんは食事会を提案して、田上さんと美樹さんを引き合わせてくれました。


その食事会でお酒に酔ってしまった秀子さんは、車で来ていた田上さんに送ってもらったのです。


その車中で、どちらから誘ったのかはわかりませんが、ホテルで一泊することになったそうで……。


この話を聞かされた美樹さんは、怒りを通り越して血の気が引く思いをしました。


自分が好きだった男性と寝たことを、自慢してくる秀子さん。


自分が貸したお金で買ったブランド品を、見せびらかしてくる秀子さん。


このままでは、財産や自尊心といったものをすべてむさぼりつくされると思った美樹さんの身体は、自然と動いていました。


グサッ……!


美樹さんはキッチンに置いて有った包丁を手に取り、秀子さんを力強く刺したそうです。


それから、何度も刺したのでしょうか。


美樹さんが我に返ったときには、秀子さんは血を流して動かなくなっていました。


慌てて声を掛け、揺さぶりましたが、秀子さんが反応することはありませんでした。


そうして美樹さんは、覚ったのです。


自分は人を殺してしまったのだと……。


どうしたらいいのかわからず、美樹さんはパニックになりました。


いつも不測の事態が起こっていたときは秀子さんに判断を委ねていたのですが、今はその秀子さんがいないのです。


美樹さんは秀子さんの遺体をそのままに、逃げるように家へ帰りました。


──翌朝。


一睡もできなかった美樹さんですが、時間になるといつも通りに会社へ行く準備を始めました。


殺人を犯したという異常な事態の中で、なにごとも無かったかのように日常へ戻ろうとするのはおかしな話です。


恐らく、いつも通りに行動すればすべてが元通りになるだろうという、現実逃避からくる考えだったのでしょう。


まだ9月の残暑が厳しい時期だというのに、美樹さんは全身の震えが止まりませんでした。


身体はいつも通りに振舞おうとしていても、心が追いつかないのでしょうか。


手の平には緊張による汗がびっしりで、氷のように冷たくなっていました。


美樹さんはクローゼットの奥にしまっていたダウンジャケットを取り出すと、それを羽織って家を出ました。


秀子さんの遺体が発見されるのも、時間の問題です。


それを考えれば考えるほど、美樹さんの身体からは一切の血の気が引き、更に凍えていきました。


「寒い……。寒い……」


孤独の中で生きてきた美樹さんを包む物は、季節はずれのダウンジャケットだけでした。


そうしてから間もなくして、美樹さんは逮捕されてしまったのです。


その後は、美樹さんの減刑を求める署名運動が行われました。


署名運動を行う団体は職場にも来たそうで、香織さんを始めとして美樹さんを知る人全員が署名をしたそうです。




私は先輩に質問しました。


「それで、美樹さんの刑はどうなったんですか?」


「懲役3年、執行猶予は5年だったみたいだよ」


「それって、いくらか減刑されたんですかね?」


「そうじゃないかな。詳しくは知らないけど、普通は人を殺すと5年以上の懲役になるらしいから。美樹さんの場合は情状酌量の余地が認められたのと、鬱病による心神耗弱も認められたみたい」



これが、私が職場の先輩から聞いた話のすべてです。


美樹さんが罪を償い社会に復帰できることと、秀子さんのご冥福を心から祈っています。

※このお話は、事実を基にしたフィクションです。

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