『朝靄』
赤と呼ぶには薄すぎて、黄色と呼ぶには鮮やかすぎる
そんな翼が雲の切れ間を行く
肌で感じるその風を切ってその少女と獣は現れた
「お前がこの異変の原因か!?」
少年はその姿を見上げる
その少し前
ゼンさんの家で一夜を明かすが、あの後とうとうリクは戻ってこなかった
代わりに朝まで近くの工房の小屋で物音が聞こえていた
その音を目覚ましにして俺は早朝、靄の立ちこめる湖の畔へと出た
まだカイさん以外は寝ていた為静かにドアを閉めて外へ出ると肌寒い朝の外気が睡眠中に蓄えられた熱をひんやりと冷やしてくれる
おかげですっかり目が覚めてしまう
カイさんは何故か部屋の片隅で座ったまま微動だにしていなかったが恐らく寝ている雰囲気ではなかった
おはようございますと挨拶をしてみると意外にも目を閉じたままカイさんが頷いてそれに答える
だがそれっきり一言も喋ることは無かった
「んーっ、気持ちいい」
大きく腕を天高く伸ばして深呼吸をする
この朝の気持ちよさは格別である
昔から夜更かしをする人間ではなく、早寝早起きを心がけていたせいもあってか朝には強い方だった
自然と意識はハッキリしている
目の前の静かな湖が神秘的な雰囲気を醸しだし、小鳥のさえずりが朝を告げている
太陽が昇る僅かに前のようでうっすらと空はゆっくりと薄く、鮮やかになりつつあるが太陽の姿はまだ見えない
「・・・・いいな」
凛と張りつめた空気を肺一杯に吸い込む
この平穏な風景がこれまでの旅路で乱れていた心を落ち着かせてくれるのを俺は感じていた
旅に出て、慣れない保存食や野宿の生活など、いろいろな物を一気に体験したような気がする
キャンプなんかよりよっぽどハードだ
そして忘れられないあの横穴での出来事
「・・・血・・・か」
二人の人間から飛び散る鮮血の映像が未だに瞼の裏にこびり付いてとれやしない
最後にあの洞穴で襲いかかってきた二人組の兄弟だろうか
その二人の防具の隙間へ剣を通し、片方ずつ腕を切り裂いた光景を俺はまだ忘れてはいない
その技量、見事
僅かな防具の隙間へ的確に剣を通し、また威力を落とすことなく関節を断ち切って腕を跳ね飛ばす実力
俺の目にも強烈に残っている光景
だが、俺はまだ良い
それよりも、一条さんだ
その光景を未だに引きずっているのは俺ではなく一条さんだろう
ここ数日の態とらしいテンションの上げ方
本人は気づいているのか気づいていないのか、どちらにせよ俺には無理をしているようにしか見えない
とはいえ恐らく僅かでも一緒にいたとはいえ、それを見極めるのは恐らく見ず知らずの他人にはできなかっただろう
だからといって、そのまま仮面を被り続けてもいずれはガタが来る
忘れられるのならそれでもいいが、できるだけ早く立ち直って貰いたい
俺が支えになるとは言ったものの、彼女の堤防は未だに結界寸前なのだ
異世界に来て、これまでに僅かながら元の世界ではあり得ないような事件が起こったのだ
闘技場の事も、旅の事も
そのうちどこかで野垂れ死にした人間、あるいは誰かが殺される瞬間というのを見る可能性もある
普通にしていればそんなことは無い
だが俺たちはいつも渦の中心にいる。そんな気がしてならない
吸血鬼みたいな奴らが狙ってきて、町の外には盗賊がいて、人を喰らう獣も沢山いる
普通なら引きこもっているのが普通だろう
それでも、自分に関係が無いのに遠方の地のマナを解放しに行くと言うのだからまぁいい人なんだろう
とはいえそんな彼女をつなぎ止めているのは恐らく俺と千尋ちゃんなんだろうなぁと思っている
俺が守ると言って彼女が頼る存在であれれば俺はそれでいい
彼女が守ろうと思っている存在が千尋ちゃん
頼る存在と守る存在があるからまだ大丈夫なんだ
それが最後の一線となる部分だ
旅には危険が付きまとう
その中で、俺や千尋ちゃんが死んでしまったら
頼っていた部分の重みと知人を失う苦しみがのし掛かり、守ることができなかったという自責の念に押しつぶされてしまうだろう
彼女は基本的に強くも脆い存在だ
前向きで明るい
それが本来の自分である為に、それを演じているのは負担になっているはずなのだ
「頼ってくれれば良いのに・・・」
今その一言を俺が言うのは違うと思う
もうその言葉はすでに言ったのだ。あの時にぶちまけた、言葉としては歪で統率の無い感情をそのままに口走った時に
もう手は差し伸べたんだ
一度は掴んでくれた
お願いだから自分から離さないでくれ
許すと言ってくれた
だから、そのまま信じて握り続けていてくれ!
もうこの手から離れていくのは嫌なんだ!
そう思っている自分が居る
でも彼女は今俺の手を握ろうとはしていない
自らの足で立ちあがろうとしている
乗り切ろうとしている
そう感じた
乗り越えられるのならそれに越したことはない
今後何が起こるか分からないような異世界で、人の腕が斬られる。それだけの事で重い心を引きずって欲しくないのだ
ははっ、そんな俺も人の腕が切られる事をそれだけの事と言える事自体可笑しい
自分はどうしてしまったのか
異世界に来て、夢物語のように勇者みたいになって、活躍して、お姫様を守った気になっているのか?
人を傷つける事に抵抗を感じなくなってきている自分に嫌気が差した
あの大会の騒動の時にも迷わず前線で戦おうとした
そして敵とはいえ、傷つけようとした
俺はそんな事の為に力をつけたかったのか?守るためじゃ無かったのか?
相手を傷つける事だけが守る為なのか?
否、違うはずだと自分に言い聞かせる
「ソーレ、どう思うよ」
静かな湖にそう呟く
剣が僅かに熱を帯びた
朝早くからこんな愚痴に付き合ってくれるとは、なんと良い相棒だろうか
「さて、リク・・・だっけ?盗み聞きは関心しないなぁ」
振り返りながらそう後ろの小屋に向かって呟く
リクには聞こえなかったのだろうか、それともばれていないと貫き通す気なのか青年は出てこない
「まぁ聞かれて理解できるような事は喋って無いけどね」
もし聞かれていたとしても二言三言しか喋らず、俺が誰に頼って欲しいのかも、誰に問いかけていたのかも彼には分からなかっただろう
ただ何となく其処にその青年が居た気がしたからそう呟いた
勘は当てにするものではないが、バカにしたものでも無い
「・・・なんでバレたっすか?」
俺たちが泊まった小屋の隣に立つ工房の横の茂みからリクが現れた
目を擦りながら眠たそうに歩いてきた
「そんな気がしたんだよ」
「うゎ、出てこなけりゃ良かった」
「いいよ別に。聞かれて困ることでも怒ることでも無いし。俺寛大だから」
「そうっすか。寛大なんですか」
「気分によってはね。そういや昨日は何で夕食の後戻ってこなかったんだ?」
そう言うと昨日のようにまたその言葉を待っていましたと言わんばかりに目を輝かせ始めたリクを見て俺は正直、「しまった!」と声に出して叫びたかった
こういう人間は語り出したら止まらないような気がするのだものすごく
目をキラキラさせたままリクは手招きをして小屋へと向かった
駆け出すリクの後ろを小石を蹴飛ばしながら歩く俺
「あんまり工房に人を入れるなって言われてるんっすけど持ち出すのはちょっと恐いんで」
そう言って持ち出したのは黒い球体
直系三十センチほどの球体だ
え、まさか花火つくっちまったのか?
「遅いよ二人とも」
獣は地面すれすれを滑空するようにして飛んでいる
この丘を越えればすぐに見えるはずである目的地目指して獣は大きく翼を広げた
それと同時に翼が丘へと吹き上げる上昇気流を捉え、グンと高度を上げた
少女は眼下の湖を眺めた
「ここがイレータ湖かぁ」
決して綺麗な服とは言えないが、その服装は庶民が着るには少し鮮やかな気もする
「うん。やっぱりここだね。異変の原因は」
そう呟いて少女はイレータ湖を獣の上から見下ろす
フサフサとした毛並みをしっかりと掴んでその獣に降下するように合図を出す
すぐに主の命令を受けた獣は高度を下げる
そこに後ろから追いかけてきた二人が追いついた
「お嬢様、ハァ・・・もう少しスピードを落としてください。私はともかくハァ、ルオがハァ、厳しいですよ」
「あぁ、悪い悪い。気持ちよくてついね。ちょっと気走っちゃったね。ごめんねルオ」
少女は獣の上から最初に駆け寄ってきた従者の後ろについてきたもう一人の従者へ声をかけた
遅い方の従者の体型は少しふくよかにも見える
「い、いえ・・・お嬢様が、謝ることは、ありません・・・」
「そう言いながらもお前は遠慮無くぶっ倒れるわけな」
ふくよかな従者は草原にばたりと倒れ、息を荒げる
最初に追いついた方の従者はほっそりはしているがその腕や足に見える筋肉がしっかりしているためほっそりというイメージは無い
余分な肉は無いが、余分な筋肉もない為僅かな筋肉が盛り上がって見えるのだ
「さて、ついたね。イレータ湖」
「ですね。恐らくここに原因があるのでしょうね。どうします、少し休みますか?」
「んー、私はずっとミャーに乗ってたから大丈夫だけど・・・ルオはきついよね。とりあえずシャンはルオと先に宿でも見つけておいて。私は先に湖の方に向かいたいから」
その言葉にルオは僅かに反応しかけた。が、その口からは荒い呼吸の音しか聞こえない
シャンと呼ばれた細身の女はルオを振り返り、再び獣の上で胡座をかく少女へと向き直り口を開く
「お嬢様を一人にするのは少々抵抗がありますが、ですがまぁルオがこの調子ですしグリフォンを連れて街中へ行くのも一旅人としては少々目立つでしょうね」
「グリフォンじゃなくてミャーって呼んでって言ってるじゃん」
ミャーと呼ばれた獣も嘴をカンと鳴らしてシャンを睨み付けた、ようにも見える
そんなシャンの背中には漆黒の大鎌が見える
鎌には皮のカバーがかけてある
翼を一度大きく開いてばさりと羽ばたきグリフォンはそのまま四肢をおってその場へ座り込む
「いえ、その・・・どうもやはり良い思い出が無いものですから」
目をそらすシャンに少女も心当たりがあるようでバツが悪そうに少女もまた視線をそらす
「むぅ・・・まぁいいや。とりあえず私は先に湖に向かうね」
「では私は宿を見つけてすぐに湖へ向かいましょう。いくら湖が広くてもグリフォンの耳ならば私の場所も分かるでしょう」
「・・・分かった。じゃぁルオを置いてきたらこれ吹いて」
そう言って少女は小さな笛をシャンめがけて投げる
シャンはその笛を受け取り、それを服へとしまうとルオを抱え起こす
傍目には結構重そうだがあまりその表情には苦はなさそうにも見える
「吹いたらそっちに向かうから。もし何かあったら私の方も同じのを吹くよ。それじゃぁまた後でね」
「はい。危険はないと思いますがお嬢様も気をつけて。くれぐれも面倒事を起こさないでくださいね。後が大変ですから」
「分かってる分かってる」
そう言って上昇の合図を出す少女
グリフォンのミャーはゆっくりと立ちあがり、翼を広げる
そして勢いをつけて真っ直ぐ上に上昇を始める
「ではまた後で」
そう言ったときにはすでに少女とグリフォンは湖へ向けて飛び去っていた
「まったく・・・いつも僕ってお荷物扱いだよね」
「・・・・・・そんなことは無いさ」
「その間、傷つくなぁ・・・」
細身の女とふくよかな男もまた、湖の村へと向かって歩き出した
「・・・・設計図とか説明とか殆どした覚えがないんだけど」
俺は驚いて何を言えばいいのかよく分からなかった
作り方も知らない
原理も俺たちが理解している訳ではない
だが彼は作り上げたらしい
「イメージは合ったんだけどどうも何かが足りないと思ってたんだけど、あのイラストを見て完全に完成イメージが浮かんだっす!」
あのイラスト一枚で彼は目の前に持ち出した一発の玉を作りあげたのだ
これが本当に自分が知るあの綺麗な花火になるのかと思うと若干気にはなるのだが、早朝からこんな物を打ち上げてもよく分からないだろう
彼自身試しては見たいのだろう
早く夜が来ないかと待ち遠しいような雰囲気を彼から感じる
「あー・・・でも眠くなってきた・・・。徹夜で作ったからっすかねー?仕事までちょっと仮眠とってきます」
「あ、あぁ、そう」
そう言い残して彼は花火を仕舞い、工房を出て行った
取り残された俺もとりあえず外へ出る
するとようやく太陽が顔を見せていた
靄が差し込む光を反射する
「ん?」
そこで俺は気がついた
靄の光で見えなかった部分、ちょうど湖の中央に小島があることに
だが昨日散策したときにはそんな島は無かった
文字通り無かったはずなのだ
湖に島なんてあったら一目で分かるはずなのだが、それに今気がつくとういう事はあり得ないのだ
「あれは・・・」
だがその靄に浮かんだ影はすぐに消えてしまった
見間違いだったのか、それとも蜃気楼とかだったのかとも考えるが、確かにあそこに島が見えた気がしたのだ
とはいっても未だに靄が深く、対岸まで見渡すことはできないため確認すらできない
もしかしたら靄の隙間から対岸が見えただけかも知れないしまだ寝起きなので寝ぼけていただけなのかも知れない
目の前の湖で魚が跳ねた音がした
湖に近寄る
とりあえず顔でも洗おうとかと湖へと近寄る
清流のように透き通った水へと顔を近づけると自分の顔が水面に揺れていた
その瞬間、水に浮かんだ靄が乱れた
顔を上げて湖から立ちこめる白い朝靄を見つめると明らかに不自然な揺れ方をしている
何かが動いた!
咄嗟に目が視界の隅で動いた何かを追った
「お前がこの異変の原因か!?」
靄が吹き飛ぶ
大きな翼が靄を吹き飛ばし、その乱れた空気の流れが視覚化する
女の声だ
それも恐らく成人女性ではなく、もっとずっと若い子供の声
だがその姿は霞んでよく見えない
「誰だ・・・?」
静かに呟く
「ミャー、距離をとって!」
「クオッ!」
シルエットで浮かび上がったその巨大な影は一瞬にして後退して靄の奥へと消えていく
何だ!?
明らかにこちらを警戒した行動を取る相手に咄嗟にソーレを抜いた
短刀に魔力を流し込む
カイさんから譲り受けた風王奏は今は小屋の中である
「君は誰だ!?」
そう問いかける
突然の事に戸惑っていたのは確かだった
もし自分が武器を抜いていなければ
もし自分が帽子をつけてきていれば
もし相手が勘違いをしていなければ
その問いに帰ってきたのは巨大な影の突進だった
攻撃!?
「っあっ!」
咄嗟に横へ飛んでその突進を避ける
その影の正体を見ようと地面にはいつくばったまま影の方を見るがその影はすぐに反転して靄の中へと消えてしまう
朝っぱらからなんなんだ!?
とりあえずみんなを起こそう!
そう思ったとき、すでにカイさんが俺の後ろで立っていた
「魔力の流れを感じて来てみれば・・・ふむ・・・でかいな」
カイさんが腕を組みながら影の消えていった湖の靄を見つめる
そう言えばカイさんはすでに起きていたんだっけか
それにしても先ほどの影が何なのか見ていたのだろうか?
黄土色の体色に巨大な翼からそれは獣を感じさせられた
だがそこからしたのは少女の声
一体どういう事なのか?そして俺は何故こうも唐突に攻撃されているのか?俺にはそれが全く分からなかった
そんなこんなでいろいろな思考を巡らせていると、靄の中から甲高い笛の音が聞こえてきた