『最後の元神子』
墨で塗りつぶしたかのような竜がそこにいた。
平面とも立体とも違う、まるで次元の狭間に九頭竜が存在しているかのような錯覚にとらわれてしまう。
血なのか、墨なのか、重量を無視した水滴が空中で染みを作る。
「なんとも好都合!このまま私が取り込めば……」
この力は全て己の物!即ち世界は私のもの!何故なら僕は神へと成るのだから!
脱け殻となった狐の体は血まみれで、倒れた体の下の雪を赤く染める。
竜としての肉体は既に保てておらず、周囲には竜鱗が飛び散っている。
面は砕け、肉体は無理な巨大化と変質によってかろうじて原形が分かる程度であった。
元々狐の肉体に龍が宿るという事自体が無謀だったのだ。顔が尾に、尾が顔に、手足は逆さに向きを変え、毛は鱗に、そんな変化を成した肉体はすでに役割を終えたのだ。
その頭上に墨のような龍が渦を巻く。
九つの首が墨から現れては埋もれ、現れては埋もれを繰り返す。
傍目に見ても九頭竜が苦しんでいるのが分かる程に、悶えている。
その力の波動に、ニールは両手を広げて笑みを浮かべる。
これこそ求めていたものだと。
「なんとも禍々しくて素晴らしい力だ」
「この状況でまだ戦うつもり?もう降参したら?」
小さな人影がニールの前に進み出る。
杖をニールに向け、降参を促す。
尤も、大陸を纏めるハートウィッチからしてみればこの事件の首謀者に降伏を促すのは理に反する。
しかし数が勝るとはいえ、此方の戦力損耗は激しく無駄な争いは避けたいのもまた事実。
もし隙をつかれ人質をとられるなどすれば目も当てられない。
主犯者として捕らえ、処刑する事で権威を保つという利点も無いわけではない。
昨今のガルトニール帝国の動向や、滅びた筈の吸鬼の破壊活動の皺寄せは四天王や各国首脳の元へと向かっている。
吸鬼を束ねるこの男を人前で処刑してこそ、人々から不安を取り除けるのだ。
だがもし負けを認めないのならば、ハートウィッチとしては瞬きすら許さず殺すつもりだ。
選択肢は二つあるようで、もはや一つなのである。
奴の死は確実だ。
「何でもやろう」
「は?」
「何でも望むものを、力を、体を!!我がものとなるがよい魔獣!さすれば俺の全てをくれてやる!変わりに貴様の全てを寄越せ!」
ハートウィッチはすぐさま魔術を発動させた。
この男は直ぐ様消さなければならないくらいに、堕ちていると判断したのだ。
「っ!?」
杖に浮かんだ魔方陣の輝きを掻き消すかのように、墨が空中に広がり二人に殺到した。
咄嗟に魔術を中断し後ろに飛び退いたハートウィッチは、まるで苦しみから逃れるかのような必死さをその墨の竜に感じた。
人形の黒い液体とでもいう姿のニールが両手を高らかに挙げた。
「神よおおおおっ!!」
今なら止められる!
そう思いきってハートウィッチが魔術を発動させようとした、その時だった。
「あと、少しなんだから邪魔しないで」
「!?」
ハートウィッチの背後に、突如人影が現れたのだ。
その人影は薙刀を構えており、ハートウィッチの背中からは深紅の液体が斜めの傷口から吹き出した。誰もその登場人物の不意打ちに気がつけなかった。
何故なら彼女は速さを司る龍の元神子だったのだから。
「な……にが……」
「ハート!」
「貴様!」
崩れ落ちようとするハートウィッチの背後に立つその人影めがけ、アルレストとチルが刀を振りかぶった。
間合いを一瞬で詰めたチルが蒼天駆をその人影に降り下ろす。
刃は切り裂いた空間を真空にしてしまう程に、速く鋭い、迷いない攻撃であった。
しかし刃は止められる。同じ輝きをもつ刃によって。
「!?」
「退け!」
驚愕で一瞬思考が真っ白になったチルは意識をとりもどし、後ろからの声に反応し反射的に横へと飛ぶ。
変わりに現れたアルレストが炎天舞で斬りかかった。
しかし、その攻撃も呆気なく弾かれてしまう。
聖天下十剣は鋼すら断ち斬る鋭すぎる刃をもつ。
聖天下十剣の刃を除いて、全てを切り裂くことができる。
つまり、蒼天駆、炎天舞を弾いたこの漆黒の刃は……。
「チル……リーヴェルト…………」
薙刀をクルリと手の甲で回転させ、握りしめるとそれは一振りの刀となっていた。
白き雪を刀身に映してなお漆黒を保つその刃は、まるで血糊を吸い固めたような威圧感を感じさせる。
飛び退いた二人が構えたまま、黒く染まっていくニールと新たに現れた女に警戒する。
「律儀にアジトの留守なんて守ってなくてよかった。全部終わって、それを知らずに意味のないものを守ってるなんて、滑稽もいいところ」
「ふーう……」
大きく息を吐き、そして大きく息をすう。
「はあーっ……」
そしてもう一度大きく息を吐く。
黒く染まった液体状の体がゆっくりと凝固し、艶やかな質感の肉体となってゆく。
そして力をこめたニールの周囲に黒の霧が立ち込めた。
力を抜き、黒く固い表情に笑みが浮かぶ。
「ふ、ふふ、悪かったなルベル。まぁ、例を言うよ。おかげで僕はまた一歩、神へと近づいた」
真っ黒な人形が、不気味な笑みを浮かべた。
その新手の顔を見たシェルヴァウツは目を見開く。
「ツキ……ルベル……」
「何、シェルヴァウツさん。私が吸鬼についているのが不思議?まぁ、教えませんけど。理解してもらう必要ないんで」
どうせ、理解も出来ない。
ゆっくりとゴーグルをかけたツキが黒の刃をシェルヴァウツに向ける。
「もう少しで戻れるんです。邪魔、しないでください」
「戻る?何にだ!?」
「普通に……人に私は戻る。その為に私は吸鬼にだって魂を売る」
「……覚悟は固そうだな。しゃあねぇ、なら俺が引導を――」
「バカ!バカなの脳みそ筋肉なのあんた」
拳で思いっきり叩かれたシェルヴァウツは頭を抱えてうずくまる。
「何しやがる!?」
「もう少し説得とかさ、そういう余地がないか努力しなさい」
「面倒だ。それに、あの目は本気だぜ」
そう言いきって立ち上がるシェルヴァウツの目を見たシェリアは、これは言うことをきかない奴の目だと呆れ返った。
ため息をつきながらシェリアは仕方ないとぼやきながら拳を構える。
「頂がこんなにも低いから……」
倒れたハートウィッチの襟を持ち、その小柄な体を掴み上げる。
「私は、より高い頂についただけ」
そうするしか、なかっただけ。
いつもそうだった。
髪色の濃さは魔力の器の強さも表していた。
強い力を宿す程髪色は濃くなる。
マナには色が宿るとされ、本人に最も適応するマナの色は自然と影響を受けやすい髪に変化をもたらす。
すなわち髪の薄さは力の薄さ。
そしてそれは、いじめや迫害にという形で現れる。
特に純血による差別意識が高い貴族に多く見られるが、その対象は専ら普通の民なのである。
その一人がツキ・ルベルであった。
勿論差別ばかり行う人種ばかりではなく、普通に接してくれる者もいた。
ただ、薄髪に高位の魔術を使う彼女は少しばかり貴族逹の自尊心、プライドというものを傷つける材料には申し分なかったのだ。
そんな彼女のいじめ生活の中で、一人の存在が彼女を立ち直らせた。
チル・リーヴェルトである。
白い髪、つまり魔力を使えない事を産まれながらに宣告されながら、騎士隊長となった存在であった。
彼女もまた、貴族には疎まれる存在であった。魔力主義という訳ではないが、そのような意識が強い貴族には面白くない存在だ。
それでも明るく微笑む強い彼女に、同性ながらツキ・ルベルは恋をしたのである。
見た目や力の強さではなく、その魂に恋をしたのだ。
そして私はファンダーヌの騎士見習いとなる。
しかし、ある誕生日に聞かされた事実に私は呆然となった。
私の母、ハクファ・ルベルは吸鬼だということを知ったのだ。
元々はニ・ハクファと呼ばれていた母でったが、元々病弱な体質だった為私を産んで亡くなったと聞かされた。
人である父、吸鬼である母。私はそのハーフである。
母は吸鬼のグループから逃げ出し、人里で暮らすようになったという。
吸鬼の語源は鬼の力を吸った者。
人を軽く捻る力、人を軽く引き裂く力。そんな力をもった人間を総称する言葉だ。
そして人の世は吸鬼を悪だという。
私は正義になれない。
憧れていたあの人のような正義になれない。
産まれながらに持ったこの悪の血をどうして裏切れようか。私を産んだ吸鬼の母と人の父をどうして裏切れよう。
私は正義になりたかった。
しかし、真実を語れば悪となり、嘘を語れば悪となる。
そんなこの身、をあの正義の方が許す筈もない。
葉末で持ちこたえていた水滴が、耐えきれずに落ちていく。まるでそんな気分だった。
時を同じくして追い討ちをかけたのが、ずっと正義の力だと信じていた神子の力を失った事、そして父が倒れた事だった。
最も、医者の診断によれば助かる見込みがない程に、病が進行しているらしい。
それでも救いたいと思うのは娘としての性だろうか。
北には薬の町と呼ばれる程に、薬や病気、治療に関して進んだ国があるらしい。
その地に薬を求めて私は渡商人となり、路銀を調達しながら北へと旅立つ事を決意する。
そして旅の途中、私はとある男とであう。
「貴方からは同族の匂いを感じますねぇ」
そこで私はこの男が吸鬼である事を悟った。
そして私が吸鬼と人のハーフである事もまた、そいつに見抜かれた。
なんでもその男は見抜く力というものを持っているらしかった。
吸鬼には、命が与えられると同時に力を与えられるらしい。
何から力を与えられるのかは知らないが、その男が言うには「もしかしたら、血に力が宿っているのかもしれませんね」らしい。
親から子へ、受け継がれる血。その血に何らかの力が宿っているのではないかという。
甚だ信じられなかったが、自分を吸鬼と人のハーフだと見抜いたのだから、由来は兎も角力そのものの存在は信じても良いのかも知れない。
もしかしたら、私の母も何らかの力を持っていたのだろうか。
後々に聞いたのだが、彼の見抜く力は過去を知る力に似ていると本人は言う。
すでに起こった過去。過去があって今がある。過去を知れば、今を有利にできると私に言った。
そして男は言った。私の心を見抜いて「もしよろしければ、貴方の父上の病を消す薬を与え、あなたを人に戻して差し上げましょうか?」と。
私には、その力がある。と。
そして私は契約を結ぶ。利用されてでも、私の目的が果たせるのならばそれでいいと。
初めは迷った。
しかし、迷いは次第に無くなった。
一つ、たった一つ理由があれば人は何でも出来るのだ。
憧れた人に、悪と言われるだろう。私に母の血が流れる限り、私は悪なのだ。
誰かを貶めようとも、誰かを殺めようとも、私はそのためだけに生きている。
私は人になりたい。
いじめられた歴史は変えられなくとも、私はこれから変わるのだ。変われるのだ。
人は変われる。いや、人に変わるのだ。
どっちつかず。母を感謝し母を憎む。そんな己を憎む己を変えたい。
どうせなら、私を産んでくれた母と父を両方愛したい。
私がある限り、それは許されない。
もう、楽にして欲しかった。
母が脱走してくる時に盗んだ漆黒の宝玉。それをニールに手みやげとして渡す。
「いえ、これはまだ貴方が持っていてください。時期を見て誰かに渡すように。それを部下に奪わせますので」
そうすれば、もしゼロから盗まれた宝玉が僕の手元にあっても不思議では無いし、危険があなたに向かうことも無い。そう言われ、私は先払いの匿名で盗賊に依頼を出した。
ヴェント街道を通る商隊を襲えと。
丁度良く手頃な商人達が集まりって名もたいして売れていない安いギルドに護衛を依頼したので、上手く魔術が使えると護衛ついでの商人として雇って貰った。
そして変な少年を拾ったり、グレイに襲われたりと多少のアクシデントがあったものの、その黒玉を盗賊に渡した。
きっと、沢山の人を危険に合わせてする事じゃない事は分かっている。
でも、私の救いはそこしかない。
誰かに悪口を言われるのはもう、聞き飽きた。
誰かに蹴られたり、殴られたり、水をかけられたり、ものを隠されたり、そんなお遊びはもう飽きた。
私の心に響いたあの一言。
「人に戻してさしあげましょうか?」
その程度の一言が、私の救い。私の全て。そう思う私は本当にどうかしている。
引きこもって、女の子なのにゴーグルなんてつけて、本当に、何から逃げていたんだろうか。
逃げていた私が、勇気を持って外に飛び出して、そして救いに出会った。
そう。救いだと思える程に、私は辛かったのだ。
この血は呪いと感謝が込められている。
この血は悪だ。だから私は悪に助けを求めた。
「私は人に戻る。チル・リーヴェルト。強く、美しく、そして輝く貴方に認めて貰いたいから、私は誰かに助けて欲しいんだ」
こんな事、しなくてもいいように。
誰でもいい。私を止めて――――
その言葉が伝わったのは、同じ龍の神子だからか、それとも単なる偶然か。
雲の切れ間から伸びる光の柱に、三つの影が浮かび上がった。
零れた涙は握った漆黒の刀に弾かれる。
三つの影の真ん中で翼を広げるその力に私は涙した。
それは、私の力。
私だけの正義の力。
君が……君がもっていたのか。
肩に真っ赤な龍の子供を乗せていた君が。その力を……。
ツキは魔力の翼を広げ、尾を大地に叩きつけた。
失った穴を埋めたのは、仮の力。でも、やっぱりその力は恋しい。
ずっと私と共にあったのだ。
「一条さん、早苗さん、少しだけあの化け物の足止めしててもらっていいですか?」
「うーん、別にいいけど化け物より女の子の方が良いとか言わないよね。男の子なのに」
「いや、そう言うのじゃ無いんですけど……ちょっと彼女には借りがありますからね。すぐ済ませて追いつきますんで」
「しょうがないなぁ。可愛い男の子の頼みなら聞いちゃうぞおねーさん!あ、今の君は可愛いより格好いいよー!カッコヨス!」
グッと親指をたてて笑みを浮かべた早苗さんに思わず笑ってしまう。
その横で心配そうにしていた彼女を見て俺は真面目に瞳を見返した。
「分かった。すぐ来てね」
「はい」
赤と白の光が禍々しい男に向かって飛んでゆく。
それを見送りながら俺はソーレを握った。
小さい。けど頼もしい。
俺は彼女を斬るのだろうか?
いや、考えても仕方がない。
あちらはやる気満々のようだが、どう思うよソーレ。
……いや、確かに傷つけたくはないよ。でも、偶には拳で語り合うのも悪くはないと思うんだ。
どうしようも無い程苦しい時って、意外と殴り合って感情に身を任せるってのも有りだったりするんだよ。
彼女が亡くなって、どうしようもなく自暴自棄になっていた俺を殴ってくれた、彼女の兄に目を覚まされた経験があるからね。
それが彼女の救いになるなら、何発だって殴るよ。
ああ。相談するまでも無かったな。答えは決まりきってる。ただ、迷いは吹っ切れた。ありがとうソーレ。
刀を抜かず、そっと撫でるように刀から手を離す。
お前の出番はもう少し後だ。
「ツキ・ルベル!!」
「アヤキ・サクラ!!」
そうして二人の視線が噛み合った瞬間、二つの影が空中で互いの拳がぶつかり合う。
ぶつかり合った腕に響く相手の拳から感じる意思の強さに、二人は鋭い視線を交錯させる。
それが言葉を越えた気持ちのぶつかり合いだと、互いに思いながら。
二匹の龍が空を舞う。
最終決戦はもう目の前。大分昔の話を持ち出したけど、覚えている人がどれほどいるのだろうか……。